第142話 ミッドナイトブルーの盾
「……まさか、私の無茶な注文をここまで形にするなんて」
パリ・サントノーレ通りにあるローズ・ベルタンのブティック。
試着室の鏡の前に立つジャンヌは、己の姿に見惚れ、満足げなため息を漏らした。
「ふふふっ、当然ですわ! 私に不可能はありません!」
ベルタンが胸を張って答える。
ジャンヌが身に纏っているのは、夜の闇に溶け込むような深いミッドナイト・ブルーのイブニングドレスであった。一見すると最高級のシルクをふんだんに使った優雅なドレスだが、その実態は全く違う。
「何層にも重ね合わせた特製の硬質シルクにより、斬撃に対する『圧倒的な防御力』を実現! さらにスカートの裏地には、暗器を仕込める『隠しポケット』を多数配置! しかもコルセットは軽量の鋼板入りで、銃弾すらはじき返しますわ!!」
そう、これこそが前回のデートの反省を活かし、ジャンヌがベルタンに特別発注した『対暗殺者用・装甲タクティカル・ドレス』である。
「素晴らしい重量感……。これなら、あの超実践的合理主義者も文句のつけようがありませんわね!」
ジャンヌが鼻息を荒くしていると、試着室の外から静かな声が響いた。
「……ジャンヌ殿。換装は完了しましたか。目標時刻まで残り5分です」
「え、ええ! 今行きますわ!」
ジャンヌがカーテンを開けると、そこには、いつもの漆黒のフロックコートをビシッと着こなしたアーサーが立っていた。
アーサーはジャンヌの姿を見るなり、スッと目を細め、上から下まで鋭い視線を這わせた。
(さあ、見なさい! これが防御力と機動性を兼ね備えた、私の本気の投資ですわ!)
「……光沢を抑えたステルス性の高い生地。布の厚みから推測するに、斬撃への耐性も十分に確保されている。足元はステップを阻害しない絶妙なカッティング……」
アーサーは感心したように頷き、スッと右手を差し出した。
「極めて合理的な武装です。……それに、深い青が貴女の瞳とよく合っている。これなら戦場でも、夜会でも、一切の隙がありません」
「…………ッ!!!」
装甲率を褒められた後に、不意打ちで放たれた「よく合っている」というストレートな賛辞。
ジャンヌの心臓のソロバンは瞬時に弾け飛び、顔はドレスの青と対極の真っ赤に染まった。
「と、当然ですわ! 投資対効果を最大化した結果です! さあ、行きますわよアーサー! 今夜の『戦場』へ!!」
ジャンヌは照れ隠しに声を張り上げ、差し出されたアーサーの手をガシッと掴んだ。
今夜の「戦場」とは、保守派の重鎮・グラモン公爵が主催する豪華絢爛な夜会であった。
ジャンヌの目的は、王室の事業に投資を渋る貴族たちの懐事情を調査し、必要とあらば合法的な脅しをかけることである。
会場にジャンヌが入場すると、冷ややかな視線が一斉に突き刺さった。
「見ろ、あの『悪魔の金庫番』だ」
「平民のくせに王妃様に取り入り、我々の特権を次々と奪う忌まわしい女狐め……」
貴族たちのヒソヒソ話が耳に届くが、ジャンヌは鼻で笑って意に介さない。
(貧乏貴族どもが負け犬の遠吠えを……。あなたたちの資産なんて、私の帳簿の1ページにも満たないハナクソですわ!)
だが、そんなジャンヌを嘲笑おうと、一人の傲慢な若手貴族がニヤニヤと近づいてきた。
「やあ、これは財務局長殿。今夜は随分と物騒な『犬』をお連れのようだ。そんな無骨な護衛を夜会に連れ込むとは、マナーをご存知ないのかな?」
若手貴族は、アーサーを小馬鹿にするように見下した。
「私でよければ、一曲踊って差し上げてもよろしくてよ? インクの匂いしかしない貴女に、華やかな夜会のステップが踏めるとは思えませんがね」
周囲の貴族たちがクスクスと嘲笑を漏らす。
ジャンヌの銀縁眼鏡が「キランッ」と危険な光を放ち、論破の弾丸を装填しようとした、その瞬間だった。
――スッ。
アーサーが、ジャンヌを庇うように一歩前へ出た。
そして、信じられないほど優雅な、本物の王族すら凌駕する完璧な「宮廷の礼」を若手貴族に向かって披露したのだ。
「……なっ!?」
「お誘い感謝いたします。しかし、彼女の今夜のスケジュールは、すでに私が掌握しております」
アーサーは若手貴族の手を取り、微笑すら浮かべて「握手」を交わした。
「あ、がっ……!? ぎっ……!!」
若手貴族の顔面が、一瞬で苦痛に歪み、真っ青になった。
アーサーの握手は、見た目は優雅だが、その実「万力で骨を粉砕する寸前のギリギリの圧力」がかけられていたのである。
「それに、貴殿の接近ベクトルは不用意すぎます。……次、彼女の半径一メートル以内に許可なく侵入した場合、その手首が『不自然な方向』に曲がる事態になりかねませんので、ご留意を」
「ひ、ひぃぃぃッ!!」
手を解放された若手貴族は、涙目で逃げるように人混みへと消えていった。
「……排除完了。ハエ一匹、貴女には触れさせません」
アーサーが何事もなかったかのようにジャンヌを振り返る。
「ア、アーサー……。あなた、暗殺者なのにあんな完璧な礼儀作法が……?」
「ターゲットに接近するため、ヨーロッパ各国の宮廷マナーと社交ダンスはすべてプログラム済みです。……潜入任務の基本ですから」
(なんて頼もしい……いえ、ハイスペックな暗殺者(男)なの……っ!!)
ジャンヌが胸をときめかせていると、楽団が優雅なワルツの演奏を始めた。
アーサーは、再びジャンヌの前で恭しく一礼し、そっと手を差し伸べた。
「……ジャンヌ殿」
「えっ?」
「会場の中心で踊れば、360度すべての敵対行動を監視・予測することが可能です。……私に、貴女の『防衛』を任せてはいただけませんか」
それは、どう聞いても異常な理由のダンスの誘いだった。
だが、ジャンヌにとっては、これ以上ないほど甘い「最上級の口説き文句」に他ならなかった。
「……ええ。私の身の安全、すべてあなたに『投資』しますわ」
ジャンヌは真っ赤な顔で、アーサーの手を握り返した。
二人はフロアの中心へと進み出る。
アーサーのリードは、軍事訓練で培われた完璧な体幹とバランス感覚により、羽のように軽く、そして力強かった。ジャンヌの重装甲ドレスの重さを微塵も感じさせず、滑るようにフロアを舞う。
「す、すごいですわ……! まるで、空を飛んでいるみたい……」
「貴女のドレスの重量配分が完璧だからです。遠心力を利用すれば、回避運動も容易だ。……ステップに遅れなし。素晴らしい運動神経ですね、ジャンヌ殿」
「当然ですわ! 毎日、宮殿の端から端まで借金取りを追いかけて走っていますもの!」
音楽に合わせてターンを決める二人。
周囲の貴族たちは、そのあまりにも美しく、そして一糸乱れぬ完璧なワルツに圧倒され、ただ口を開けて見惚れることしかできなかった。
「……アーサー」
密着した距離で、ジャンヌがそっと囁く。
「はい」
「私、今までお金以外に信じられるものなんてないと思っていました。……でも、あなたの『絶対防衛』だけは、どんな金貨よりも確実で、温かいですわ」
ジャンヌの言葉に、アーサーはわずかに目を丸くし……そして、これまでの冷徹な暗殺者の顔ではなく、一人の青年としての、不器用で優しい微笑みを浮かべた。
「……貴女という最高の国家資産を、生涯をかけて防衛する。それが、私の新たな『存在理由』ですから」
ドクンッ!!
ジャンヌの頭の中で、ついに「恋の損益分岐点」が限界突破し、青天井のストップ高を記録した。
(ああもう、ダメですわ……! この人になら、私の個人資産の暗証番号を教えてもいい……っ!!)
「……ねえ、ナポレオン」
会場の二階バルコニーから、双眼鏡でその様子を監視していた私は、感動のあまり鼻をすすっていた。
「なんなのあの二人! ロマンチックの欠片もない単語しか並べてないのに、どうしてあんなに尊いの!? もう私の胸がキュンキュンして張り裂けそうなんだけど!!」
隣で手帳に記録をつけていたナポレオンも、呆れつつも小さく笑みをこぼした。
「ええ。物理的な防衛力と、経済的な利害関係。全く異なる二つのベクトルが、信じられないほどのシナジーを生み出しています。……あの二人が手を組めば、もはやフランスの財政と治安に死角はありませんね」
「ふふっ。本当に、ウチの教職員アベンジャーズは最高で最強の変人ばかりね!」
マリー・アントワネット、26歳。
パリの夜を彩る、甘く危険なワルツ。
悪魔の金庫番と無慈悲な暗殺者の恋は、軍事と経済の論理を完全にねじ曲げながら、誰よりも強固な「鉄壁の愛」へと発展していくのであった。




