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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第140話 黄金と純銀のノクターン

 春の気配が色濃くなってきた、ある日。

 チュイルリー宮殿の最深部に位置する、巨大な地下大金庫。


 分厚い鋼鉄の扉に守られたその場所は、財務特別監査局長・ジャンヌにとって、何よりも心が落ち着く聖域であった。


「……ふふ、ふふふっ。253万、254万リーブル……。やはり、本物の金貨がぶつかり合う音は、最高のオーケストラですわね」


 深夜零時。

 ランプの薄暗い灯りの下で、ジャンヌは山積みにされた金貨を数え、分厚い秘密帳簿に猛烈な勢いで数字を書き込んでいた。


 砂糖工場の利益、靴工場の売り上げ。フランス全土から吸い上げた莫大な富の動きが、すべてこの一冊の帳簿に集約されている。


「この帳簿こそが、我がフランスの心臓。……そして私の命そのものですわ」


 ジャンヌが愛おしそうに帳簿を撫でた、その時だった。


 ――カツン。


 静寂に包まれた金庫室の天井付近、通気口の鉄格子が外れる微かな音がした。


 ジャンヌがハッと顔を上げた瞬間、黒装束に身を包んだ男が、音もなく床に降り立った。手には、ギラリと鈍く光る短剣が握られている。


「……ッ!? 誰ですあなた! ここをどこだと……!」


「黙れ、金庫番。……対仏大同盟の命により、その『秘密帳簿』を頂いていく」


 男はプロの工作員だった。

 瞬く間にジャンヌとの距離を詰め、その細い首元に冷たい刃を突きつけた。


「さあ、その帳簿を大人しく鞄に入れろ。声を上げれば、お前の喉笛を掻き切る」


「…………」


 首筋に刃を当てられ、一歩間違えれば命を落とす絶体絶命の状況。


 しかし、ジャンヌの銀縁眼鏡の奥の瞳は、恐怖ではなく「激しい怒り」で燃え上がっていた。


「……お断り、ですわ」


「あ? なんだと?」


「この帳簿は、私が血の滲むような思いで計算し、無駄も許さずに積み上げた『美しき利益の結晶』! それを、どこぞの薄汚いネズミにタダで渡すくらいなら、死んだ方がマシですわ!!」


 ジャンヌは狂気にも似た執念で、分厚い帳簿を両腕でギュッと抱きしめ、絶対に渡すまいと身を丸くした。


「チッ、イカれた女め。なら、腕ごと切り落として……」


 工作員が短剣を高く振り上げた、その刹那。


 ――ヒュンッ!!


「……ガハッ!?」


 暗闇から飛来した「銀色の何か」が、工作員の右腕を正確に貫いた。

 それは、純銀製の鋭利な投げナイフだった。


「な、なんだ!? 誰だ!!」


「……呼吸音が大きすぎる。足運びも素人同然。金庫室への侵入経路としては60点だが、その後の制圧プロセスは0点だ」


 金庫の入り口の影から、軍靴の音を響かせて静かに歩み出てきたのは、漆黒のフロックコートに身を包んだアーサーであった。


「ア、アーサー……!」


「ジャンヌ殿、ご無事ですか。……夜間巡回のルートを少し外れてみれば、とんだ害虫が紛れ込んでいたようです」


 アーサーは冷たい瞳で工作員を見据えた。

 工作員は腕の痛みに顔を歪めながらも、残った左手でランプを掴み、ジャンヌが抱きしめている帳簿めがけて力任せに投げつけた。


「死ねぇっ!!」


「あっ……!」


 ガシャンッ! とランプが割れ、中の油が帳簿の端に燃え移った。

 ジャンヌにとって、それは自分の体が燃えるよりも恐ろしい光景だった。


「い、いやっ! 私の、私の帳簿が……っ!」


 ジャンヌは自らの火傷も厭わず、燃え盛る炎を素手で叩き消そうと手を伸ばした。

 だが、その手が炎に触れるよりも早く。


 ――グイッ!


 アーサーの屈強な腕が、ジャンヌの腰を乱暴に引き寄せた。


 そして彼は、工作員の顔面に無慈悲な回し蹴りを叩き込んで気絶させると同時に、燃え盛る帳簿を自らの軍靴で容赦なく「バンッ!」と踏みにじり、火を消し止めたのだ。


「……鎮火確認。対象の無力化も完了しました」


 アーサーは淡々と告げた。

 しかし、ジャンヌの目には信じられない光景が映っていた。彼女の命よりも大切な帳簿の数ページが、無惨にも燃え焦げ、アーサーの靴の泥で汚れてしまっていたのである。


「な、なんてことをしてくれましたの……ッ!!」


 ジャンヌは、アーサーの腕の中で激昂し、彼の胸ぐらを掴んだ。


「この帳簿をなんだと思っているのですか! これにはフランスの数億の資産データが……! こんな風に汚すくらいなら、私が火を消しましたわ! 私が火傷しようと、帳簿さえ無事なら……!!」


 金に憑りつかれた金庫番の悲痛な叫び。

 だが、アーサーは胸ぐらを掴まれたまま、極めて冷静に、そして真剣な瞳でジャンヌを見下ろした。


「……ジャンヌ殿。貴女は間違っている」


「は……? 間違っている?」


「ええ。帳簿のデータが燃えたなら、もう一度現場を監査して書き直せばいい。失われた時間は取り戻せます。……しかし、貴女のその優秀な頭脳と、狂いを許さない厳格な両腕が失われれば、フランスの経済は停止する」


 アーサーは、血の滲んだ工作員のナイフを蹴り退け、はっきりと告げた。


「情報は安価な代替品にすぎない。しかし、フランスを黒字に導く『貴女という存在そのもの』は、この金庫にあるどの金塊よりも高価で、決して代えの効かない国家の最重要資産です」


 静かな地下金庫に、アーサーの低く落ち着いた声が響き渡った。


「私の任務は、防衛対象を死守すること。……金塊でも帳簿でもない。私にとって最も価値があり、何に代えても守り抜くべき最優先防衛目標は、貴女だ。ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ」


「…………ッ!!!」


 トゥクンッ!!


 その瞬間、ジャンヌの胸の奥で、かつて計算したことのない凄まじい音が鳴り響いた。


(わ、私が……最も価値のある、高価な資産……?)


 彼女はこれまで、周囲の貴族からは「金の亡者」「冷酷な悪魔」と忌み嫌われ、自分自身でも「お金以外に価値はない」と思い込んで生きてきた。


 しかし、目の前にいるこの男は、誰よりもシビアな「防衛上の損益分岐点」を計算した上で、はっきりと宣言したのだ。


 ――お前という女の価値は、この金庫の全財産よりも上だ、と。


「あ……ぅ……」


 ジャンヌの頭の中で、完璧だったはずのソロバンの珠が、バラバラと音を立てて崩れ落ちていく。


 顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まり、アーサーの広い胸板から伝わってくる体温が、彼女の冷静な思考回路を焼き切ってしまった。


「ジャンヌ殿? どうかしましたか。顔が赤い。まさか火傷を……」


「ち、違いますわ……っ!!」


 ジャンヌは勢いよくアーサーを突き飛ばし、燃えかけた帳簿を抱え上げて、脱兎の如く金庫室から走り去ってしまった。


「な、なんでもありませんわ! 本日の護衛任務、ご苦労様でしたーーーっ!!」


 バタンッ! と扉が閉まる。

 一人残されたアーサーは、首を傾げた。


「……? 感情の起伏が激しい。やはり睡眠不足は脳のパフォーマンスを低下させるようだな。後で王妃様に、彼女への休暇の付与を進言しておこう」


 翌日。チュイルリー宮殿、王妃の執務室。


「……ジャンヌ。あの、さっきから帳簿の同じページをずっと見つめてるけど、どうかしたの?」


 私が恐る恐る声をかけると、ジャンヌは「ビクッ!」と肩を震わせた。


 彼女の頬はほんのりと赤く、手元のペンは止まっている。そして、時折チラチラと、部屋の入り口で直立不動の警備に就いているアーサーの背中を、熱っぽい視線で見つめていたのだ。


「な、なんでもありませんわ! 今、新しい利益の計算モデルを構築中でしてよ! ふふ、ふふふふっ……!」


 誤魔化すように笑うジャンヌだが、彼女の書いている帳簿の端には、無意識のうちに『A』というイニシャルと、小さなハートマークが書き込まれていた。


「……落ちましたね、あれは」

 ナポレオンが、呆れ顔で手帳にメモをする。


「ええ。防衛の論理しか頭にないアーサーの『絶対評価』が、お金第一の金庫番の急所にクリティカルヒットしちゃったのね……」


 私は、ロマンチックの欠片もない極限状態から生まれた、フランス史上最も面倒くさくて不器用な「恋の始まり」を目の当たりにして、こっそりと笑いを噛み殺すのだった。

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