第139話 真実の叫び
パリ高等法院・特権裁判所の重厚な扉の前に立ったのは、右腕を真っ白な包帯で吊った九歳の少年、ジュリアンだった。
「お父様の身勝手なプライドのせいで、僕の『一番の友達』が殺されようとしているのに、黙って寝ていられるわけがないでしょう!!」
彼の悲痛な、しかし確固たる意志を持った叫び声が、静まり返った法廷に響き渡った。
青ざめた顔には大粒の汗が浮かんでいる。骨折の痛みはまだ引いていないはずだ。それでも彼は、隣に寄り添うナポレオンに支えられることもなく、自らの足でしっかりと立ち、法廷の中央へと歩みを進めた。
「ジュリアン! お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!」
ロシュフォール伯爵が、血走った目で息子を怒鳴りつけた。
「平民と友達だと? 我がロシュフォール家の名に泥を塗る気か! その薄汚いガキは、お前を突き落とした罪人だぞ!」
「違います!!」
ジュリアンは、父親の威圧に一歩も引かず、はっきりと声を張り上げた。
「ジャンは、僕を突き落としてなんかいない! 僕が……僕が勝手に足場の上でふざけて、足を滑らせたんです!」
法廷の傍聴席が、ざわざわとどよめき始めた。
「落ちそうになった僕の腕を、ジャンは間一髪で掴んでくれた。でも、僕が重すぎて、彼まで一緒に落ちそうになってしまった。……だから、僕が自分でジャンの手を振り払ったんです!!」
ジュリアンの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ジャンは、僕を助けようとしてくれた恩人です! それなのに、お父様が『平民に助けられたなどと知れれば貴族の恥だ』なんて怒るから……ジャンは僕を庇って、嘘の自白をしてくれたんだ!」
「……っ!」
証言台の横で手枷をはめられていたジャンが、顔を伏せて強く肩を震わせた。
「ジュリアン……来るなよ。俺は平民だ。お前の親父さんが言う通り、俺がお前の手を離しちまったから……」
「馬鹿野郎! 君が掴んで、僕の落下速度を殺してくれなかったら、僕は頭から落ちて死んでいたかもしれないんだぞ! 君は僕の命の恩人だ!」
ジュリアンは、痛む腕を庇いながらジャンに駆け寄り、残った左手で彼を強く抱きしめた。
「ごめん、ジャン……。僕がもっと早く本当のことを言っていれば……」
「や、やめろ……。お前、貴族だろ。俺なんかに抱きついたら……」
「関係ない! アカデミーでは、一緒に泥だらけになってポトフを食べたじゃないか! 僕は、君とずっと友達でいたいんだ!」
身分の壁を越え、互いを命懸けで庇い合う二人の少年の姿。
それは、18世紀の凝り固まった階級社会においては、あまりにも眩しく、そして異端な光景だった。
「……狂ったか、ジュリアン!!」
ロシュフォール伯爵が、ついに怒りで我を忘れ、息子に向かって杖を振り上げた。
「貴族の誇りを捨て、平民のガキに絆されるなど……許さん! 裁判長、これは子供の世迷い言だ! 先ほどの自白こそが真実だ、速やかにこの平民に死刑判決を!!」
伯爵の強引極まりない圧力。裁判長も保守派の貴族であるため、露骨に伯爵に同調し、木槌を握り直そうとした。
だが、その時。
「――恥を知りなさい、ロシュフォール伯爵!!」
黒い法衣を翻し、マクシミリアン・ロベスピエールが法廷の中心に立ち塞がった。
彼の銀縁眼鏡の奥で、理不尽な権力に対する静かで激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「子供の世迷い言だと? いいえ、これこそが穢れなき『真実の叫び』だ! 国王陛下の物理的証明、サンソン医師の医学的所見、そして被害者本人の証言! これらすべてが、ジャン君の無実と、ジュリアン君の勇気ある行動を証明している!」
「ええい、黙れ平民の弁護士風情が!!」
「黙るべきはあなたの方だ!!」
ロベスピエールの声が、雷鳴のように法廷の石壁を震わせた。
「あなたは『貴族の誇り』と言った。……ならば問おう。真の貴族の誇りとは何だ? 血筋か? 領地か? それとも、己の体面を守るために、我が子を助けてくれた恩人の首を刎ねることか!?」
ロベスピエールは、傍聴席に並ぶ特権階級の貴族たちを、一人一人鋭く睨み据えた。
「アカデミーで、子供たちは学んでいる。生まれ持った身分ではなく、互いを尊重し、共に手を取り合って未来を創るという『新しい社会契約』を! 彼らはすでに理解しているのだ。本当の誇りとは、強者が弱者を踏み躙ることではなく、強者が弱者を守り、共に立ち上がる『高貴なる義務』の中にあるということを!!」
法廷が、水を打ったように静まり返った。
「自らの非を認め、友のために涙を流したジュリアン君こそが、真の意味で『高貴』な魂の持ち主だ。……それを古い偏見で捻じ曲げ、真実を隠蔽しようとするあなたこそが、ロシュフォール家の名に最も泥を塗っているのだ!!」
圧倒的な論理と、燃えるような道徳心。
ロベスピエールの演説は、かつてパリの街角で貴族への憎悪を煽っていた過激な扇動者のそれではない。法と正義を武器に、社会の不条理を真っ向から斬り伏せる、真の『法の守護者』の姿がそこにあった。
「……ぐっ、うぅ……!」
ロシュフォール伯爵は、ロベスピエールの気迫と、傍聴席の貴族たちからの「さすがに見苦しいぞ」という冷ややかな視線に耐えきれず、ついに言葉を失ってその場にへたり込んだ。
私は、傍聴席の最前列で、ふっと安堵の息を吐いた。
「見事だね、マクシミリアン先生」
作業着姿のルイが、黒板に書いた放物線の数式を消しながら、満足げに頷いた。
「ええ。私たちの学校は、最高の教師と、最高の生徒たちを育てているわ」
裁判長は、もはやロシュフォール伯爵を庇うことは不可能だと悟り、重々しく木槌を振り下ろした。
「……物理的証拠、医学的所見、ならびに当事者の証言を総合し、判決を言い渡す。被告人、ジャン。……無罪。直ちに拘束を解きなさい」
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
法廷の外で審理を見守っていた労働者たちや、アカデミーの子供たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
手枷を外されたジャンは、泣きながらジュリアンと抱き合い、その横でロベスピエールが優しく二人の頭を撫でた。
その日の夕方。
チュイルリー宮殿の中庭で、私たちはジャンの無罪放免を祝う、ささやかなパーティーを開いていた。
「よくやったわ! あなたの弁論、本当に痺れたわ!」
私が『祝勝・フルーツタルト』を切り分けながら褒めると、ロベスピエールは少し照れたように眼鏡を押し上げた。
「私はただ、法と事実に基づいた論理を展開しただけです。……しかし、あの二人の少年の姿には、私自身も深く心を打たれました」
ロベスピエールは、広場でタルトを頬張りながら笑い合っているジャンとジュリアンを見つめた。
「王妃様が設立されたこのアカデミーは、単に読み書きを教えるだけの場所ではないのですね。……貴族も平民も、同じ土の上で転び、同じ飯を食う。そこで育まれた友情は、いかなる身分制度の壁をも軽々と飛び越えてしまう。……これこそが、真の平等な社会への『基礎工事』なのだと、今日、確信しました」
かつて「特権階級への憎悪」だけで燃え盛っていた若き革命家は、今や、血を流さずに社会を内側から変革していく「教育の力」を信じる、立派な法と道徳の守護者へと成長していた。
「ええ。子供たちは、大人が作ったバカバカしい壁なんて、あっという間に壊してくれるわ。私たちがすべきことは、彼らがその壁にぶつかった時に、こうして全力で守ってあげることだけよ」
私は、冷たいハーブティーを飲みながら、誇らしく微笑んだ。
「それにしても、アントワネット」
隣でタルトを食べていたルイが、不思議そうに首を傾げた。
「ジュリアン君、絶対安静だったはずなのに、どうやってあの絶妙なタイミングで法廷に駆けつけてきたんだろう? 誰かが彼に、ジャン君のピンチを知らせに行ったのかな?」
ルイの疑問に、ナポレオンがフッと不敵な笑みを漏らした。
「……私が、彼の病室の窓に小石を投げ、『君の友人が、君の父親の身勝手な嘘のせいで首を刎ねられようとしているぞ』と、少しばかり“論理的に”真実を囁いてあげただけですよ」
「ナポレオン! あなた、病人のベッドの横でそんなえげつない煽り方をしたの!?」
「結果的に彼は自らの足で法廷に立ち、父親の呪縛を断ち切った。最高の教育効果ではありませんか」
ナポレオンは、涼しい顔で紅茶を啜っている。
相変わらず手段を選ばない男だが、彼のその冷徹な計算が、結果的に二人の友情を救ったのだから文句は言えない。
「はい、どーぞ!」
足元で、ジョゼフがタルトのイチゴをフォークに刺し、ジャンとジュリアンの口に交互に運んで「あーん」をさせていた。
身分なき学び舎に生じた小さな亀裂は、彼らの絆をより強固なものにし、フランスの未来を担う子供たちの心に、絶対に揺るがない「平等の光」を灯した。
マリー・アントワネット、26歳。
彼女の生存戦略は、ついに「教育と法の力」によるソフトパワーの改革へと到達し、血みどろのフランス革命を回避するための土台を、また一つ完成させたのである。




