第138話 論理と法
チュイルリー宮殿の地下に設けられた、薄暗い仮牢獄。
冷たい石の床の上で、九歳の少年ジャンは、膝を抱えて小さく丸まっていた。
「……ジャン。温かいポタージュを持ってきたわ。一口だけでも食べなさい」
私が鉄格子の隙間からお椀を差し出しても、彼は力なく首を横に振るだけだった。
ロシュフォール伯爵との衝突から数時間。明日の朝には『特権裁判所』での審理が迫っているというのに、最も重要な当事者であるジャンは、事件の真相について口を閉ざしてしまっていた。
「ジャン君」
私の背後から、分厚い六法全書を抱えたロベスピエールが静かに歩み寄った。
「明日、私は法廷で君を弁護する。しかし、君が真実を語ってくれなければ、私は君を救うための武器を持てない。……君は本当に、殺意を持ってジュリアン君を突き飛ばしたのか?」
ロベスピエールの問いかけに、ジャンはビクッと肩を震わせた。
そして、泥だらけの拳をギュッと握りしめ、顔を伏せたまま絞り出すように言った。
「……俺が、突き飛ばしました。俺が悪いんです。だから、先生……もう、俺のことは放っておいてください」
「ジャン!」
私が思わず声を荒らげそうになったのを、ロベスピエールが手で制した。
「……分かりました。君には、どうしても言えない理由があるのですね。ならば、これ以上は聞きません」
「えっ!? ちょっとマクシミリアン、彼が証言してくれなきゃ、明日の裁判でどうやって戦うのよ!」
「口で語らないのなら、『事実』に語らせるまでです」
ロベスピエールは眼鏡のブリッジを光らせ、冷徹な法曹の顔になった。
「王妃様、現場へ戻りましょう。子供が頑なに嘘をつく時、そこには必ず『庇いたい何か』が存在する。……それを解き明かすのは、情ではなく、客観的な物理と論理の力です」
深夜の王立基礎教育アカデミー、中庭。
事件現場となった木製アスレチック遊具の周りには、ランタンの明かりを頼りに、地面を這い回る二つの影があった。
「……なるほど。この落下地点の土の凹み具合と、飛び散った血痕の角度。……そして、アスレチック遊具の手すりに残されたこの傷……」
巻き尺と水平器を手にしたルイと、手帳に猛烈な勢いで数式を書き込むナポレオンである。
「ルイ! ナポレオン! あなたたち、こんな夜更けに何を……」
「おや、王妃様とロベスピエール先生。遅かったですね。我々はすでに『現場検証』の最終段階に入っていますよ」
ナポレオンが、パタンと手帳を閉じて不敵に笑った。
「現場検証って……警察の仕事じゃないの!」
「無能な貴族の警察が、平民を救うために正確な現場保存などするはずがないでしょう。だから、国王陛下にお願いして、物理学と流体力学の観点から『落下の真実』を解析していただいたのです」
ルイが、チョークを持って中庭のレンガの壁に数式と放物線を書き始めた。
「見てくれ、アントワネット。ジュリアン君は高さ約三メートルの足場から落下し、腕を骨折した。もしジャン君が『殺意を持って背中を突き飛ばした』のなら、当時の九歳児の平均的な筋力から算出される初速と重力加速度(落体の法則)を掛け合わせると、落下地点は足場の真下から少なくとも『1.5メートル』は前方へ飛んでいなければならない」
「でも、実際の落下地点は?」
「足場の『ほぼ真下』だ。放物線を描いていない。つまり、彼は突き飛ばされたのではなく、垂直に落ちたんだよ」
ルイは、遊具の手すりの一部を指差した。
「さらにここを見てごらん。手すりの木材が、外側に向かって弾け飛んだのではなく、内側に向かって不自然に『しなって』折れているだろう? これは、ジュリアン君が自らバランスを崩し、落ちそうになった時に必死で体重をかけて掴んだ痕跡だ」
「垂直落下と、手すりのしなり……」
ロベスピエールが、目を鋭く細めた。
「そしてもう一つ、決定的な医学的所見があります」
暗がりから、黒い外套をまとったサンソン先生が静かに歩み出てきた。
彼はジュリアンの治療にあたった王室の主治医でもある。
「私はジュリアン様の怪我の処置を行いました。腕の骨折は落下時の衝撃によるものですが……彼の右手首に、もう一つ奇妙な痕がありました。それは、内出血による『小さな指の形をした強烈な圧迫痕』です」
「指の形の、圧迫痕……?」
「はい。誰かに突き落とされたのなら、背中や肩に傷がつくはず。ですが、手首を強く握られるというのは……」
サンソン先生の言葉に、私はハッと息を呑んだ。
「……落ちそうになったジュリアン君の腕を、ジャンが必死に掴んで、引っ張り上げようとした!!」
私が叫ぶと、ルイとナポレオンが同時に頷いた。
「その通りです」とナポレオンが言う。
「ジャンの靴裏の泥の跡が、足場の『ギリギリの端』に強く残っています。……もし彼が突き飛ばしたのなら、こんな端で踏ん張る必要はない。彼は友人を助けようと、自分の体重をかけて限界まで耐えていたのです」
「しかし、九歳の子供同士です。ジャンの体重では、落下しようとするジュリアンの体重を支えきれなかった。……結果として、二人の手は離れ、ジュリアンは落下した。遠くから見上げれば、ジャンが手を伸ばして『突き落とした』ように見えたのでしょう」
ロベスピエールが、パズルのピースが完璧に組み合わさったような深い溜め息を吐いた。
「殺意による突き落としではない。……懸命な『救助活動』の末の、悲しい事故だったというわけか。……ならば、なぜジュリアン君は足場でバランスを崩したのか? そしてなぜ、ジャン君は頑なに口を閉ざしているのか……」
私は、一つの可能性に思い至り、唇を噛み締めた。
「……身分、よ」
「身分?」
「ええ。ロシュフォール伯爵は、ガチガチの特権階級至上主義者。もし『自分の跡取り息子が、ドジを踏んで落ちそうになったところを、平民のガキに助けられそうになって怪我をした』なんて事実が明るみに出たら……」
「……伯爵の異常なプライドは粉々に砕け散り、ジュリアン君は父親から凄まじい折檻を受ける。……そして、それを知っているジャン君は、ジュリアン君を父親の怒りから庇うために、自ら泥を被って『自分が突き飛ばした』と嘘の自白をしている……!!」
ロベスピエールの言葉に、私たちは夜の闇の中で凍りついた。
九歳の少年が。
自分を虫ケラのように見下す貴族の父親から、大切なクラスメイトを守るために、自らの命を懸けて沈黙を貫いているというのか。
「……なんてこと。私たちの作った学校の子供たちは、いつの間にか、私たち大人が恥じ入るくらい、立派な『仲間』になっていたんじゃない……!」
私は目頭が熱くなり、拳を強く握りしめた。
「マクシミリアン! この真実を法廷で叩きつけて、ロシュフォール伯爵のその傲慢な鼻っ柱をへし折ってやりなさい!!」
「……ええ。お任せください、王妃様。私の論理は今、かつてないほどに鋭く研ぎ澄まされております」
ロベスピエールは、闇の中でギラリと眼鏡を光らせ、分厚い六法全書を力強く抱え直した。
翌朝。パリの中心にそびえ立つ、パリ高等法院・特権裁判所。
傍聴席は、ロシュフォール伯爵の息のかかった保守派の貴族たちで埋め尽くされ、異様な熱気と、平民への冷酷な敵意に満ちていた。
「被告人、ジャンを入廷させよ!」
裁判長の重々しい声とともに、重い鉄扉が開き、手枷をはめられた小さなジャンが、衛兵に引きずられるようにして法廷の真ん中へと引き出された。
「見ろ、あの薄汚い平民のガキを」
「貴族に傷をつけるなど、八つ裂きにされて当然だ」
容赦のない罵声が傍聴席から浴びせられる。ジャンは恐怖に肩を震わせながらも、ギュッと唇を噛み締めて下を向いていた。
「静粛に!」
木槌の音が響き、裁判長が威圧的に見下ろした。
「これより、平民ジャンによる、ロシュフォール伯爵子息ジュリアンへの『殺人未遂並びに反逆罪』の審理を開始する。……検察側、起訴事実を述べよ」
検事席に立つ、伯爵お抱えの冷酷な検事が立ち上がった。
「裁判長。本件は明白な殺人未遂であります。被告人ジャンは、身分の違いを逆恨みし、被害者ジュリアンを高さ三メートルの遊具から突き落としました。複数の生徒が『ジャンが手を伸ばし、ジュリアンが落下する瞬間』を目撃しております。さらに、被告人自身も罪を認めている。……これ以上の審理は不要。速やかに『死刑』の判決を求めます!」
「異議あり!!」
法廷の空気を切り裂くように、力強い声が響き渡った。
弁護人席から立ち上がったマクシミリアン・ロベスピエールが、黒い法衣を翻し、堂々たる足取りで法廷の中央へと進み出た。
「目撃者の証言は『手を伸ばした瞬間を見た』だけであり、『突き飛ばした瞬間』を見た者は一人もいない! さらに被告人の自白は、友人を庇うための虚偽である可能性が高い!」
「なんだと!? 貴様、平民の弁護士風情が、神聖な法廷で言葉遊びをする気か!」
検事が激怒するが、ロベスピエールは微塵も動じない。
「言葉遊びではない。絶対的な『物理法則』と『医学の事実』による証明です! ……裁判長、私は本法廷に、この事件の真実を決定づける『二人の専門家』の喚問を要求します!」
「専門家だと? 一体誰を呼ぶというのだ!」
裁判長が怪訝な顔をした、その瞬間。
バンッ!!
法廷の重厚な扉が勢いよく開き、油まみれのサロペットを着たフランス国王・ルイ16世と、黒い外套をまとったサンソン先生が堂々と入場してきたのである。
「こ、国王陛下……!? それに、サンソン医師!?」
裁判長も貴族たちも、国王の突然の乱入に椅子から転げ落ちそうになっている。
「お待たせしたね、マクシミリアン先生!」
ルイは、手に持った黒板とチョークを法廷のど真ん中にドンと置いた。
「私は構造力学の専門家として、この落下が『突き飛ばし』ではなく『垂直落下』であることを、ニュートンの法則を用いて完璧に証明する用意がある!」
「私は医学の専門家として、被害者の手首に残された『救助の痕跡』を証言いたしましょう」
サンソン先生も静かに一礼する。
国王と、最強の医師。
平民の少年のために、国家のトップが証人として法廷に立つという前代未聞の事態に、法廷はパニックに陥った。
「ば、馬鹿な! 王が平民の肩を持つなど……!」
ロシュフォール伯爵が顔を真っ赤にして立ち上がる。
「静まりなさい、伯爵!」
ロベスピエールが、法廷の中心で吠えた。
「物理と医学が示す真実は一つ! これは殺人未遂などではない。身分の壁を越え、友人を救おうとした命懸けの『救助活動』だ!
それを、貴族の『平民が貴族を助けるなどあり得ない』という傲慢な偏見が、真実を隠蔽し、罪なき子供を死地に追いやろうとしているのだ!!」
ロベスピエールの熱弁が、法廷の空気を完全に支配していく。
「……デタラメだ! 証拠などこじつけに過ぎん!」
ロシュフォール伯爵は、追い詰められながらも怒号を上げた。
「我が息子ジュリアンは、平民と友情など結ばん! 仮にこれが真実だとしても、平民の力不足のせいで我が息子は地に落ち、骨を折ったのだ! 怪我をさせた責任は免れん!……それに、息子自身が『助けられた』と証言したわけではない!!」
彼は、絶対に法廷に来られない息子を盾に、最後の悪あがきに出た。
「……いい加減にしてください、お父様!!」
その時。
法廷の後方から、高く、悲痛な少年の声が響き渡った。
「ジ、ジュリアン!?」
伯爵が振り返った先には、右腕を真っ白な包帯で吊り、青ざめた顔をしたジュリアン君が、ナポレオンに付き添われて法廷の入り口に立っていた。
「なぜお前がここにいる! 絶対安静と言ったはずだ!」
「お父様の身勝手なプライドのせいで、僕の『一番の友達』が殺されようとしているのに、黙って寝ていられるわけがないでしょう!!」
絶対絶命の法廷に舞い降りた、真実を知る最後の証人。
果たして、ジュリアンの口から語られる事件の全貌と、ロベスピエールの反撃の行方は!?
マリー・アントワネット、26歳。
彼女が作り上げた「身分なき学び舎」の絆が今、古い特権階級の法廷を、根底から覆そうとしていたのである。




