第130話 甘き革命のパティスリー
第一精糖プラント。
その巨大な倉庫の扉を開けた瞬間、目の前に広がる光景に私は感嘆の息を漏らした。
「……壮観ね。まるで真冬のアルプス山脈みたいだわ」
天井まで届きそうなほど高く積み上げられた、純白の山。
それはすべて、フランス北部の冷涼な大地で育て上げた甜菜から抽出された、純度九十九パーセントの国産砂糖であった。
「ええ。西インド諸島からの輸入に依存していたサトウキビの砂糖と比べ、輸送コストも関税もゼロ。……生産原価は驚異の『十分の一』以下にまで圧縮されています」
隣に立つナポレオンが、計算尺を弾きながら淡々と、しかし誇らしげに報告する。
「これでついに、砂糖は貴族の金庫にしまっておく『宝石』ではなくなったわ! パリの平民たちにも、甘いお菓子を毎日お腹いっぱい食べさせてあげられるわね!」
私が歓喜して両手を叩くと、背後からカツン、カツンと鋭いヒールの音が響いた。
「……王妃様、理想を語るのは結構ですが、現実はそう甘くありませんわよ」
現れたのは、財務特別監査局長のジャンヌだった。手にはパリ市内の経済状況を記したバインダーが握られている。
「ジャンヌ? どういうこと? 砂糖の原価は下がったのよ。市場に安く卸せば、平民だって買えるようになるじゃない」
「ええ、砂糖そのものは安くなりました。……ですが、平民の長屋にはお菓子を焼く『オーブン』もなければ、『卵やバター』を買う余裕もありません。彼らに砂糖の粉だけを安く売ったところで、舐めて終わるだけですわ」
ジャンヌは眼鏡をクイッと押し上げ、さらに冷ややかな事実を突きつけた。
「それに、パリの伝統的な『菓子職人ギルド』の連中は、我々の甜菜糖を『泥臭い大根から作った偽物』と難癖をつけて拒否しています。彼らは相変わらず、サトウキビ由来の高い砂糖を使って貴族向けに高価なケーキを売り続けている。……結果として、平民にとって『甘いお菓子』は、依然として手の届かない高嶺の花のままなのですわ」
「……ッ!!」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
せっかく農業改革と技術力で砂糖の民主化を成し遂げたのに、既得権益の壁と「調理環境の格差」が立ちはだかっている。
オーブンがない。職人が作らない。なら、どうすればいい?
「……大量生産できる工場でも作りますか?」
ナポレオンが提案するが、私は首を横に振った。
「ダメよ。機械で作って販売するだけじゃ、文化は根付かないわ。……平民たち自身が、自分たちの手で作り、売り、そして熱狂する『仕組み』が必要なのよ」
私は純白の砂糖の山を見上げ、ニヤリと笑った。
「オーブンがない? 結構よ。高級なケーキなんて要らない。私たちが作るのは、もっとジャンクで、油と糖分で労働者の疲れを爆速で吹き飛ばす『最強のストリートフード』よ!」
翌朝。パリの中心部、活気あふれる中央市場。
「おうおう! どきな! 揚げたてのポテトと魚はいかがだい!!」
威勢のいい声を張り上げていたのは、カトリーヌだ。彼女の前には、たっぷりのラードが煮えたぎる巨大な鉄鍋が置かれている。
「カトリーヌ! ちょっとその鍋、貸してちょうだい!」
私が市場のド真ん中に乗り込むと、カトリーヌは目を丸くした。
「王妃様!? どうしたんだい、そんな小麦粉の塊なんか抱えて」
「いいから、この生地を親指くらいの大きさにちぎって、その油の中に放り込んで!」
私が持ち込んだのは、少しのイーストとジャガイモのデンプンを練り込んだ、超シンプルなパン生地だ。カトリーヌが言われるがままに生地を油に落とすと、ジュワァァッ! という心地よい音とともに、生地がプクッと黄金色に膨れ上がった。
「よし、揚がったわね! そしてここに……」
私は麻袋から、大量の「真っ白な甜菜糖」を取り出し、揚げたての生地に雪山のようにバサバサと振りかけた。
揚げたての油と、熱で微かに焦げた砂糖の甘い匂い。
暴力的なまでに食欲をそそる香りが、瞬く間に市場の広場に広がっていく。
「な、なんだこの甘ったるくて良い匂いは……!」
周囲の労働者たちが、鼻をヒクヒクさせて集まり始めた。
「フン。何事かと思えば……油臭い平民の市場で、下品な真似をしているものですな」
その時、人混みをかき分けて現れたのは、パリの菓子職人ギルドのトップ、豪奢な服を着たムッシュ・ルブランだった。彼は取り巻きを連れ、鼻をハンカチで覆って私たちを冷笑していた。
「王妃様。大根から絞ったような泥臭い砂糖など、我々誇り高きパティシエは決して認めませんぞ。真の菓子とは、洗練された技術と高価な素材、そしてオーブンで繊細に焼き上げられるべきもの。……あのような油で揚げただけのパンの端くれに粉をまぶしただけの物など、豚の餌に等しい!」
ルブランの言葉に、カトリーヌたち市場の女たちが色めき立つ。
「なんだと、この気取った野郎……!」
「待って、カトリーヌ」
私は彼女を制し、揚げたての『ベニエ』が山盛りになったカゴを持ち上げた。
「ムッシュ・ルブラン。お菓子の価値を決めるのは、貴族のプライドでも、ギルドの伝統でもないわ」
私は、群衆の最前列でヨダレを垂らして突っ立っていた、巨漢の石工の男に目を向けた。顔はススだらけで、筋肉は疲労で悲鳴を上げている。間違いなく、今日の過酷な労働を終えたばかりの男だ。
「そこのあなた! この揚げたてのベニエ、一つ『1スー』よ。食べてみない?」
「い、1スー!? 砂糖がこんなにかかってるのにか!?」
男は信じられないという顔で銅貨を握りしめ、私のカゴから熱々のベニエを一つ掴み取った。
そして、疑心暗鬼のまま、それを大きな口に放り込み、ガツッ! と噛み砕いた。
――サクッ、ジュワァァ……。
「…………ッ!!!」
男の動きが、ピタリと止まった。
揚げたての香ばしい生地のモチモチとした食感。そこから溢れ出す油の旨味。
そして何より、舌の上で雪のように溶け、疲労困憊の脳髄へダイレクトに叩き込まれる、強烈な甘味。
男の瞳孔が見開かれた。
「あ……ああ……ッ!! なんだこれ、甘い……! すっげぇ甘い!! 疲れが……腕の痛みが、全部吹っ飛びやがる……!!」
男は野生に返った獣のように咆哮し、指についた砂糖までペロペロと狂ったように舐め回した。
「うおおおっ! 姐さん、俺にも一つくれ!!」
「アタイにも! 1スーだな、三つ買わせな!!」
その男の「本能からのリアクション」を見た瞬間、群衆の理性がぶっ飛んだ。
数十人の平民たちが、1スー銅貨を握りしめてカトリーヌの鉄鍋めがけて殺到したのだ。
「ひぇっ!? ちょ、ちょっと待ちな!」
「ほらカトリーヌ、生地は山ほどあるわ! どんどん揚げて! パリの女たちの手際を見せてやりなさい!!」
「……っ! へへっ、そういうことなら任せな! あんたたち、鍋を全部出しな! 今日から市場は、アタイらの『ベニエ屋台』だ!!」
カトリーヌの号令で、市場の女たちが一斉に火を起こし、生地をちぎっては油へ放り込んでいく。広場は、熱狂的な歓声と、揚げ油の音、そして圧倒的な甘い匂いに支配された。
「ば、馬鹿な……。あんな下品な油菓子に、平民どもがこれほど群がるなど……!」
菓子職人ギルドのルブランは、蚊帳の外でワナワナと震えていた。
「見たかしら、ルブラン」
私は彼に歩み寄り、冷ややかに告げた。
「彼ら労働者に必要なのは、フォークでちまちま食べる芸術品じゃないわ。安くて、手掴みで食べられて、カロリーと糖分を爆速で補給できる『燃料』なのよ」
「くっ……! だが、あんな屋台の真似事、すぐに限界が来る! 衛生も品質も……」
「だから、みんなに『のれん分け』するのよ」
私は扇子をパチンと開いた。
「王室の工場から、安価な甜菜糖と生地のミックス粉を市場の女たちに卸す。彼女たちは自前の鍋と油でそれを揚げて、パリ中の路上で売る。……機械投資はゼロ、店舗の家賃もゼロ。ギルドのオーブンなんて最初から必要なかったのよ」
ルブランの顔から、血の気が引いた。
特権階級にしか作れなかった「甘味」という権威が、今、パリの泥臭い路上でに解体された瞬間だった。
「王妃様……! 販売開始から一時間で、ベニエ五千個が完売! 各地から『うちの広場でも売らせてくれ』と、屋台の出店希望者が殺到しておりますわ!!」
ジャンヌが、金貨の入ったズタ袋を抱え、息を切らして走ってきた。その目は、新しいビジネスモデルの爆発的な利益を確信して充血している。
「計算通りね。さあ、パリ中の路上を甘い匂いで埋め尽くすわよ!!」
パリの街角に『パティスリー』ののれん分け屋台が誕生してから、わずか二週間。
花の都は、「揚げ油と砂糖の甘い匂い」に支配されていた。
「……王妃様、ご覧ください。パリ市街の地図です」
チュイルリー宮殿の執務室。ナポレオンが広げたパリの地図には、無数の「赤いピン」がびっしりと刺さっていた。
「現在、市場の女たちを中心に組織された『特約ベニエ屋台』の数は、パリ市内で実に百箇所を突破。各屋台への生地と甜菜糖の配送ルートは、私が軍隊の『兵站網』の理論を用いて最短最適化しました。……もはやこれはビジネスではありません。『甘味による都市制圧作戦』です」
ナポレオンは、恐るべきロジスティクス能力を「いかに効率よくベニエの粉を配るか」という一点に全振りしていた。
「素晴らしいわ、ナポレオン! で、売上の方はどうなの?」
「ふふっ……ふふふふっ……!」
部屋の隅から、山のような麻袋に抱きついたジャンヌが、怪しく笑いながら立ち上がった。
「凄まじいですわ、王妃様! 1スーという誰でも払える金額が、逆に恐ろしい回転率を生み出しています。毎日何十万枚という銅貨が回収され、あまりの重さに財務局の床が抜けそうになったため、大急ぎで金貨と銀貨に両替させましたのよ! これぞまさに『塵も積もれば山となる』、チリツモ錬金術ですわ!!」
労働者たちは、安価で強烈なカロリーと糖分を摂取することで、疲労を吹き飛ばして午後も元気に働けるようになった。
工場や建設現場の生産性は劇的に向上し、パリの経済は「ベニエ」というジャンクフードを潤滑油にして猛烈な勢いで回り始めていた。
――だが、出る杭は必ず打たれる。それが既得権益というものだ。
「……マリー・アントワネット王妃殿下! このような横暴、断じて見過ごすわけにはいきませんぞ!!」
バンッ! と執務室の扉が開き、顔を真っ赤にした保守派の重鎮、グラモン公爵が怒鳴り込んできた。
その後ろには、先日市場で私に論破された菓子職人ギルドのトップ、ムッシュ・ルブランが、勝ち誇ったような顔で控えている。
「あら、グラモン公爵。それにルブランさん。血相を変えてどうなさいましたの?」
私が優雅にハーブティーのカップを置くと、グラモン公爵は手に持った羊皮紙を突きつけてきた。
「とぼけないでいただきたい! 菓子職人ギルドの特権は、古くから王室の認可状によって守られてきた絶対の権利! それを無視し、素人の平民どもに勝手に菓子を売らせるなど、明白な『ギルド法違反』です! 直ちに屋台を全面営業停止にしていただきたい!!」
ルブランも、公爵の権威を後ろ盾にして冷笑を浮かべた。
「王妃様、いくら王室の事業とはいえ、法は法です。……我々ギルドの許可なく『焼き菓子』を販売することは、違法行為なのですから」
「……焼き菓子?」
私は、扇子をパチンと開き、フッと鼻で笑った。
「ルブランさん、あなた本当に菓子職人かしら? 私たちのベニエは、オーブンで『焼いて』などいないわ。たっぷりのラードで『揚げて』いるのよ。……ギルドの法律には『焼き菓子の独占』としか書かれていないはず。つまり、揚げ菓子は、あなたたちの管轄外よ」
「なっ……!?」
ルブランの顔が引き攣った。
そう、これは私が事前にロベスピエールと入念に確認しておいた「法律の抜け穴」だった。いつの時代も、新しいビジネスは法のグレーゾーンから生まれるのだ。
「屁理屈ですぞ、王妃殿下!!」
グラモン公爵が、杖で床を激しく叩いた。
「法の解釈などどうでもいい! 問題は、あの泥臭い大根の砂糖と、油まみれの菓子のせいで、パリの風紀が乱れていることだ! あんな下品な食べ物を立ち食いするなど、我がフランスの洗練された食文化に対する冒涜! 誇り高き貴族たちは皆、あの油の匂いに眉をひそめ、激怒しておりますぞ!!」
公爵は、さも「特権階級の総意」であるかのように声を張り上げた。
「……誇り高き貴族は激怒している、ですか」
私は、扇子で口元を隠しながら、グラモン公爵の顔をじっと見つめた。
いや、正確には、彼が今日着てきた最高級のベルベットのフロックコートの『胸元』と、立派に蓄えられた『口髭の先』を。
「公爵。そのお髭についている『真っ白な粉』は、一体何かしら?」
「えっ? ……こ、これは! 今朝、カツラにふりかけた白粉が落ちただけで……!」
「あら? 白粉から、シナモンと揚げ油の甘~い香りがするなんて、最近のパリの化粧品は随分と食欲をそそる仕様になったのね」
「ッ!?」
公爵はハッとして、慌てて口髭の粉をハンカチで拭き取ろうとした。
私が目配せをすると、ナポレオンがスッと一歩前に出て、懐から一冊のメモ帳を取り出した。
「グラモン公爵。私の構築した屋台の物流ネットワークは、顧客のデータも完璧に収集しております。……公爵の館の裏口には、毎日午後三時ちょうどに、お抱えの御者が馬車で乗り付け、ベニエを『五十個』も爆買いしていくそうですね?」
「な、ななな何を馬鹿な……!」
「しかも御者は、『公爵様がこのジャンクな甘さにハマっちまって、毎日お茶の時間に食わないと手が震えるんだとよ』と、屋台の女将に愚痴をこぼしていたとか」
「ひぃッ!?」
ナポレオンの暴露に、公爵の顔は真っ赤を通り越して土気色になった。
そう。カロリーと糖分の暴力は、平民だけでなく、日頃から上品で薄味の菓子ばかり食べていた貴族たちの脳髄をも、密かに、しかし確実に侵食していたのである!
「こ、公爵閣下……? まさか、あなたまであんな下品な泥の砂糖菓子を……?」
信じていた後ろ盾の裏切りに、ルブランが絶望の声を漏らす。
「ち、違う! あれは使用人どもが勝手に買ってきたもので、私は決して……!」
「グラモン公爵、無理しなくていいのよ」
私は、優しく微笑みかけた。
「人間だもの。疲れた時は、上品なマカロンより、油と砂糖まみれのジャンクフードを無性に貪り食いたくなる時があるわ。それは決して恥ずかしいことじゃないの」
「王妃殿下……っ」
公爵は、毒気を抜かれ、その場にガックリと肩を落とした。
「さて、ルブランさん」
私は、孤立無援となった菓子職人ギルドのトップに向き直った。
「屋台を潰そうとしたって無駄よ。もう貴族ですら、うちのベニエの虜なんだから。……でも、私はあなたたちギルドを破滅させたいわけじゃないわ。むしろ、あなたたちに『最高のビジネスチャンス』を提案したいの」
「ビジネスチャンス……だと?」
「ええ。サトウキビの関税が高すぎて、あなたたちのケーキは一部の大貴族にしか売れていないでしょう? だったら、うちの第一精糖プラントで作った『国産の甜菜糖』を、あなたたちのギルドに市場の半額以下で卸してあげるわ」
「半額以下!? ば、馬鹿な、いくらなんでも安すぎる!」
「その代わり、条件が一つ。……その安くなった原価を利用して、少し裕福になった平民や、中産階級の市民でも買えるような、『新しくて手頃な焼き菓子』を開発しなさい」
私の提案に、ルブランは目を丸くした。
「屋台のジャンクなベニエは、あくまで日常のエネルギー補給。でも、市民だって休日の日や、お祝いの時には『プロの職人が焼いた綺麗なお菓子』を食べたくなるはずよ。……泥臭い大根の砂糖だなんて意地を張らずに、あなたたちの洗練された技術で、この国産砂糖を『本物の芸術』に昇華させてみなさいよ!!」
私は、ドンッと机を叩いて彼を鼓舞した。
「……!」
ルブランの瞳に、職人としてのプライドと、新しい時代への野心が静かに燃え上がった。
安い砂糖が手に入れば、生クリームや果物をふんだんに使った新しいお菓子を、もっと多くの人々に届けることができる。それは、彼ら菓子職人にとっても、夢のような話だったのだ。
「……王妃様。我々ギルドの完敗です。……その国産砂糖、ぜひ我がギルドに卸していただきたい。必ずや、ベニエなどに負けない、パリ市民を虜にする新しい『フランス菓子』を生み出してみせましょう!」
ルブランは、深く、深く頭を下げた。
「ええ、期待しているわ! あ、ちなみにグラモン公爵!」
私は、逃げるように部屋を出ようとしていた公爵に声をかけた。
「ベニエの食べ過ぎは体に毒よ。明日の朝から、私の考案した特別ブートキャンプに強制参加させてあげるから、しっかりカロリーを消費しなさいね!」
「ひぇぇぇぇっ! それだけはご勘弁をぉぉっ!!」
執務室に、公爵の情けない悲鳴と、私たちの明るい笑い声が響き渡った。
マリー・アントワネット、25歳。
彼女の仕掛けたストリート・フランチャイズ戦略は、特権階級の壁をぶち壊しただけでなく、伝統ある菓子職人たちをも巻き込み、後の世に世界を席巻する『フランス・スイーツ文化』の圧倒的な大爆発を引き起こしたのである。




