第129話 ウィーンへの帰郷⑤
保守派の貴族たちを経済の論理で黙らせ、オーストリアの農奴解放令に向けた地ならしを終えた数日後。
ウィーンの街は、本格的な冬の到来を告げる灰色の雲に覆われていた。
私は黒い厚手のマントを羽織り、兄ヨーゼフと共に、誰にも知らせずお忍びでホーフブルク宮殿を抜け出していた。
向かった先は、カプツィーナー納骨堂。
ハプスブルク家の歴代君主たちが永遠の眠りにつく、冷たく、そして厳かな地下霊廟である。
護衛の騎士たちを外に待たせ、兄と私だけが、重い鉄の扉の奥へと足を踏み入れた。
ランプの微かな灯りが、ひんやりとした石壁と、精巧な彫刻が施された巨大な棺の数々を照らし出している。
その最奥。
父・フランツと、母・マリア・テレジアが共に眠る、壮麗な『夫婦の棺』の前に、私たちは並んで立った。
「……何度ここへ来ても、母上が本当にこの石の中にいるとは、未だに信じられない時がある」
兄が、ポツリと静寂を破った。
「私が幼い頃から、母上は常に絶対的な巨大な壁であり、越えられない存在だった。彼女が一声を発せば、全ヨーロッパが震え上がった。……だが、今こうして私が玉座に座り、帝国の全責任を肩に背負ってみて、初めて痛感している。母上がどれほどの重圧と孤独を、一人で抱え込んでいたのかを」
兄の声には、深い敬愛と、そして後継者としての計り知れない苦悩が滲んでいた。
「お前が先日、貴族たちを黙らせた手腕は見事だった。だが……私は恐ろしいのだ、マリー。誰もが私に答えを求め、私が倒れればこの巨大な帝国が崩壊する。母上のいないこの玉座は……あまりにも孤独だ」
兄の横顔は、張り詰めた糸のように痛々しかった。
彼は真面目すぎるのだ。国家のすべてを、君主である自分の力だけで背負い込もうとしている。
「……お兄様」
私は、懐に抱き抱えていた「それ」を、冷たい大理石の棺の上にそっと置いた。
「アントーニア? それは……」
「オーストリア産の羊毛で編まれた、サウナハットですわ。……お母様が、最期に私に遺してくれた、手編みの帽子」
私は、冷たい石の棺に置かれたその白い羊毛を、慈しむように撫でた。
「お母様は、最期に私にこう言いました。『これを被っている間だけは、王冠の重さを忘れなさい』と。……お母様は、誰よりも知っていたのよ。国家を背負うということが、どれほど人間の心を凍らせ、孤独にするかということを」
私は、棺に頬を押し当てた。
石の冷たさが肌を刺す。でも、私の胸の奥からは、どうしようもない熱い塊が込み上げてきた。
「お母さん……。私、ずっと怖かった。……必死で守ろうとした家族や国民が、私の手からこぼれ落ちていくのが怖かった」
前世で、突然死んでしまい、お母さんに「ありがとう」も言えなかった後悔。
そして今世で、ようやく心を通わせたこの偉大な母と、もっと色んな景色を見たかったという無念。
「私、もっとお母さんと一緒に、ジョゼフが歩くところを見たかった。ルイが作った変な機械を見て、一緒に大笑いしたかった。……美味しいスープを、もっと、もっとたくさん、一緒に飲みたかったよ……っ」
せき止めていた感情が決壊し、私の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
冷たい棺を濡らす私の涙を、兄はただ黙って見ていた。
「……お兄様。私たちは、もう子供じゃない。お母様に甘えることは、二度とできないわ」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、兄の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも、だからといって、一人で凍える必要なんてないのよ。……お兄様が孤独に潰れそうになったら、私がフランスから何度でも温かいスープと、バカバカしいくらい明るい手紙を送るわ。お兄様が間違えそうになったら、私が全力で怒りに行くわ。……だって私たちは、お母様が命懸けで産んでくれた、たった一人の兄と妹なんだから!」
私の言葉に、兄の瞳が大きく揺れた。
「一人で完璧な君主になろうなんて思わないで。お互いの弱さを補い合って、支え合うの。……それが、お母様が私たちに遺してくれた、本当の『ハプスブルクの遺産』よ」
「……マリー」
兄は、顔をくしゃくしゃに歪め、ついにその目から大粒の涙を溢れさせた。
彼は、冷酷な皇帝としての仮面を脱ぎ捨て、一人の孤独な青年として、その場に泣き崩れた。
「ああ……すまない、マリー。私は、ずっと怖かったのだ……! 母上のいないこの国で、自分だけが頼りだと、必死に強がっていた……っ」
私は、泣きじゃくる兄の大きな背中を、何度も、何度も優しく撫でた。
地下霊廟の静寂の中、二人の孤児の泣き声が響き渡る。
だが、その涙は決して絶望のものではない。冷たかった二つの大国が、真の家族としての強固な絆で結び直された、温かい産声であった。
ふと、棺の上に置かれた白いサウナハットが、ランプの微かな光を反射して、まるで母が優しく微笑んでいるかのように見えた。
翌日。
シェーンブルン宮殿の広大な庭園には、ウィーンの空を覆う灰色の雲を吹き飛ばさんばかりの、けたたましい蒸気の重低音が響き渡っていた。
「ボイラー圧力、規定値到達! 水素ガス圧、安定! 気嚢の完全展開を確認しました!」
黒い革のフライトコートに身を包んだアーサーが、ゴンドラの操縦席から力強く報告する。
「お兄様、本当にお世話になりました。どうか、お体だけは大切に」
タラップの前で、私は兄ヨーゼフと固い抱擁を交わした。
「ああ。お前たちのおかげで、私はもう迷わない。……ルイ陛下、私の最愛の妹と、可愛い甥を、どうかよろしくお願いします。フランスの技術と、あなたの誠実さが、ヨーロッパの未来を切り開く鍵になると、私は信じています」
「ええ、ヨーゼフ陛下。僕の命に代えても、彼女らを守り、そして国を豊かにしてみせます。オーストリアの近代化で技術協力が必要になれば、いつでも最新の設計図をお届けしますよ」
二人の君主が、固い握手を交わす。
「 おじちゃま、ばいばーい!」
ルイに抱き抱えられたジョゼフが、小さな手を元気いっぱいに振った。
「大きくなれよ、ジョゼフ。次に来る時は、お前が走れるくらい広い庭を作って待っているからな」
兄は相好を崩し、ジョゼフの頬を優しく撫でた。
「さあ、アントワネット。搭乗の準備は完了したよ!」
私は大きく頷き、タラップを駆け上がってゴンドラに乗り込んだ。
「全機関、最大出力! 係留ロープ、パージ!!」
ルイの号令とともに、アーサーが真鍮のレバーを力強く押し込む。
ゴォォォォォォォォッ!!!
巨大なバーナーが火を噴き、プロペラが空気を切り裂く轟音がウィーンの空に響き渡る。
ズンッ、という心地よい浮遊感とともに、漆黒の巨大船はゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで大地を離れた。
「お元気で、お兄様ーっ!!」
私はゴンドラの窓から身を乗り出し、小さくなっていく兄の姿に向かって、何度も手を振った。
兄もまた、船が雲に隠れるまで、ずっとずっと手を振り続けてくれていた。
飛行船は高度を上げ、冷たい冬の雲海を突き抜けた。
雲の上には、澄み切った青空と、眩いばかりの太陽の光が広がっていた。
「……綺麗ね」
私は、トランクから取り出した真っ白なサウナハットを頭にすっぽりと被り、ゴンドラの窓辺に寄りかかった。羊毛の温もりが、私の頭を、そして心を優しく包み込んでくれる。
「ママ! おそら、ぴかぴか!」
ジョゼフが、窓の外の雲海を見て目を輝かせている。
「ええ、ジョゼフ。あれが私たちの帰る場所よ。……ルイ、全速前進! 私たちの愛するフランスへ!」
「任せてくれ! この空の旅路は、誰にも邪魔させないさ!」
ルイが舵を切り、飛行船は真っ直ぐに西へと舳先を向けた。
母を喪うという深い悲しみを越え、兄との間に「血を流さない新しい政治」の盟約を打ち立てた私。
マリー・アントワネット、25歳。
私はもう、歴史に翻弄される悲劇の王妃ではない。
自らの意思で大空を飛び、人々の心を幸福で満たすため、彼女は迷いなき笑顔で、愛するフランス・パリへと向かって、力強く帰還の途につくのであった。




