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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第128話 ウィーンへの帰郷④

 翌朝。ウィーンのホーフブルク宮殿の大会議室は、まるで氷点下のような冷たく重苦しい空気に支配されていた。


「……陛下。農奴解放令など、断じて受け入れられません。我々貴族から労働力を奪い、あまつさえ彼らに移動の自由や職業選択の自由を与えるなど、帝国の根幹を揺るがす暴挙にございます!」


 長机の向こう側で、顔を真っ赤にしてテーブルを叩いたのは、オーストリア保守派貴族の筆頭、シュヴァルツェンベルク公爵だった。


 彼の背後には、同じく特権を手放すまいと眉を吊り上げた大貴族たちがズラリと並び、皇帝ヨーゼフ2世を鋭くにらみつけている。


「暴挙ではない。国家の未来を見据えた必然だ」


 上座に座る兄ヨーゼフは、静かに、しかし威厳に満ちた声で返した。


「旧態依然とした搾取のシステムでは、もはや国家の生産力は頭打ちだ。農民を土地に縛り付け、意欲を削ぐようなやり方では、隣国プロイセンや発展著しいフランスに経済力で決定的な差をつけられる。……帝国の近代化には、自発的な労働力が必要不可欠なのだ」


 兄の言葉は、まさに啓蒙専制君主としての完璧な正論だった。

 だが、その『正論』は、既得権益にしがみつく貴族たちの耳には届かない。


「フランス、ですと? ハッ!」

 シュヴァルツェンベルク公爵が、露骨な嘲笑を漏らした。


「王族自らが平民に媚を売り、商人のような真似事をして小銭を稼いでいる国のことですか? 我が誇り高きハプスブルク帝国が、そのような品位を欠いた真似に追随するなど、笑止千万。……陛下がどうしてもこの法案を通すというのであれば、我々貴族院は全力で抵抗し、国政と戦う覚悟がございますぞ」


 明白な脅迫だった。

 兄の顔に、ギリッと苦渋の色が浮かぶ。ここで強権を発動すれば、国内は二分され、内乱に発展しかねない。彼が最も恐れていた事態だ。


(……なるほど。これが昨日お兄様が言っていた、オーストリアの『壁』ね)


 私は、兄の斜め後ろに用意された来賓席で、静かに扇子せんすを開いた。


(正論で殴り合っても、特権意識の塊である彼らは意地になるだけ。……ここは、フランス仕込みの『悪魔の交渉術』の出番だわ)


「……随分と、威勢がいいのね。シュヴァルツェンベルク公爵」


 私が凛とした声で口を挟むと、会議室の視線が一斉にこちらに向けられた。


「フランス王妃殿下。これは我が国の内政問題です。他国の方に口出しされる筋合いは……」


「他国? 私はお兄様の妹であり、ハプスブルクの血を引く女よ。それに、今の言葉は看過できないわね。……フランスのやり方が、品位を欠いた小銭稼ぎですって?」


 私はゆっくりと立ち上がり、公爵の正面へと歩み出た。


「公爵。あなたの領地における、昨年の小麦の収穫量と純利益はどれくらいかしら?」


「は……? なぜそのようなことを……」


「答えられないのなら、私が代わりに言ってあげるわ。あなたの領地の収益は、この十年間ほぼ横ばい。むしろ、凶作の年には赤字に転落している。農奴を鞭で叩いて働かせても、彼らにメリットが無いから『これ以上生産性を上げよう』というモチベーションが上がらないのよ」


 私は、持参した美しい装丁のファイルをテーブルの上に滑らせた。


「対して、フランスにおける『自発的な自由労働者』を採用した王立工場の利益成長率のグラフよ。……右肩上がりのこの数字、あなたの領地の収益の何倍になるか、計算できるかしら?」


 公爵がファイルに目を落とす。そこには、ナポレオンが徹底的に数値化した、圧倒的で暴力的なまでの『フランスの黒字データ』が刻まれていた。


「なっ……こ、こんな馬鹿げた数字……嘘に決まっている!」


「嘘だと思うなら、フランスの港や市場を直接視察に来ればいいわ。……いいこと、公爵? お兄様が言っているのは『あなたたちの財産を奪う』ということじゃないわ。あなたたちに『本当の稼ぎ方』を教えてあげようとしているのよ」


 私は扇子をパチンと閉じ、公爵の目を真っ直ぐに射抜いた。


「農奴を解放し、彼らに適切な報酬を与えなさい。そうすれば彼らは自ら工夫し、土地の生産性は爆発的に上がる。……そして、お兄様の改革案に賛同し、農奴解放に踏み切った領主には、フランスが特別な『恩恵』を約束するわ」


「お、恩恵だと?」


「ええ。我が国が構築した全ヨーロッパ規模の物流網への『優先参加権』。そして、フランス向けの輸出関税の『特別優遇枠』よ。……改革を受け入れれば、あなたの領地の作物はフランスの巨大市場で飛ぶように売れ、莫大な富が転がり込んでくる」


 その言葉に、公爵の背後にいた貴族たちがザワつき始めた。

 ヨーロッパ中を席巻しているフランスの経済圏。そこに特権的にアクセスできるとなれば、もたらされる利益は計り知れない。


「し、しかし……」


「逆に言えばね」

 私は、一転して氷のように冷たい声音で告げた。


「お兄様の政策に反対し、旧態依然とした搾取を続けるというのなら……フランスは、あなたの領地を通過するすべての交易ルートを封鎖し、一切の取引を停止します。……フランスという巨大市場から完全に孤立して、時代遅れの領地でゆっくりと没落していくか。改革を受け入れて、私たちと共に莫大な富を享受するか。……賢明な公爵なら、どちらを選ぶべきか分かるわよね?」


 アメとムチ。

 強烈な「利益の提示」と、背筋も凍るような「経済的排除の脅迫」。


「…………ッ」


 シュヴァルツェンベルク公爵は、額に大量の冷や汗を浮かべ、ワナワナと唇を震わせた。

 彼の脳内で激しい計算が行われているのがわかる。誇りや古い特権にしがみついて国賊となるか、莫大な実利を取って新しい時代の勝者となるか。


「……陛下」

 やがて公爵は、肩から力を抜き、重々しくヨーゼフに向かって頭を下げた。


「……陛下の深謀遠慮しんぼうえんりょ、そして王妃殿下からの寛大なる『ご提案』、確かに承りました。……農奴解放の件、前向きに、そして迅速に検討させていただきましょう」


 公爵が折れたことで、背後の貴族たちも一斉に安堵の息を吐き、従順な姿勢を示した。


 ――勝負あり。

 特権階級の反乱の芽は、経済という名の絶対的な暴力の前に、摘み取られたのである。


 会議が終わり、静けさを取り戻した執務室。


「……見事だった、マリー。まさか、あの頑固なシュヴァルツェンベルク公爵を、たった一度の会議で黙らせてしまうとは」


 兄ヨーゼフは、深い安堵とともにソファに身を沈め、私を感嘆の眼差しで見つめた。


「私には到底できない芸当だった。私は『正しさ』で彼らを叩き伏せようとしたが、お前は彼らの『欲望』を正確に操ってみせた。……これが、フランスを死の淵から救い出したお前の『交渉術』か」


「ふふっ。お兄様の『正しい理想』という土台があったからこそ、私が経済という『武器』で脅すことができたのですわ」


 私は、冷めた紅茶を一口飲み、優しく微笑んだ。


「お兄様は、一人ですべてを背負い込みすぎなのです。政治は綺麗事だけでは回りません。でも、お兄様がその高潔な理想を持ち続けてくれるからこそ、私が裏で存分に『悪魔の天秤』を揺らすことができる。……私たちは、二人で一つですわ」


 私の言葉に、兄は目を伏せ、少しだけ照れくさそうに笑った。


「……そうだな。私は、お前という妹をずっと見くびっていたようだ。母上が最期に、お前を『強くて立派な母親になった』と誇らしげに語っていた意味が、今日、骨の髄まで理解できたよ」


 兄は立ち上がり、私の前へ歩み寄ると、その大きな手で私の肩を力強く抱いた。


「ありがとう、マリー。お前のおかげで、オーストリアの改革は血を流すことなく前に進める。……ハプスブルクとブルボン。我々兄妹が手を結べば、このヨーロッパに恐れるものなど何もないな」


「ええ、お兄様。絶対に、この新しい時代を二人で守り抜きましょう」


 私は兄の背中に腕を回し、深い絆の温もりを感じていた。


 かつては、ウィーンからの指令に怯え、大国の顔色を窺うだけだった私。

 しかし今、私は対等な――いや、時には兄を導くほどの力を持つパートナーとして、このウィーンの宮廷に確かな足跡を刻んだのだ。


 窓の外では、秋の冷たい風が吹いている。

 だが、私と兄の心に灯った「新しい時代への希望の炎」は、どんな木枯らしにも消されることはない。


 マリー・アントワネット、25歳。

 最愛の母への別れを越え、彼女は実の兄との強固な政治的同盟を築き上げ、フランスとオーストリアを揺るぎない「平和と繁栄の双璧」へと昇華させたのである。

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