第127話 ウィーンへの帰郷③
シェーンブルン宮殿の夜は、私が知るベルサイユのそれとは決定的に違う空気を孕んでいた。
豪奢なシャンデリアの下、回廊ですれ違うオーストリアの貴族たちの顔には、どこか冷ややかな不満と警戒の色がべっとりと張り付いている。
(……お母様が亡くなってたった一年で、この宮廷の空気は随分とトゲトゲしくなったわね。表面上は喪に服しているけれど、腹の中では誰もが不平不満を煮えたぎらせているのが分かるわ)
私は、重厚な絨毯が敷かれた廊下を一人、足音を殺して進んでいた。
向かう先は、兄、ヨーゼフ2世の執務室だ。
コンコン、と控えめにノックをして扉を開けると、そこには、書類の山に埋もれるようにしてペンを走らせる兄の姿があった。
「……誰だ。急ぎの決済以外は明日にしろと言ったはずだぞ」
顔も上げずに苛立たしげに言い放つ兄の目の下には、黒い疲労の隈が刻まれていた。
「夜分に失礼しますわ、お兄様。あまりに根を詰めていると、視野が狭くなって文字が踊り出しますわよ」
私の声に、兄はハッとしてペンを置き、目頭を強く揉みほぐした。
「……アントーニアか。すまない、少し気が立っていた。……どうした、眠れないのか?」
「いいえ。ジョゼフは長旅の疲れでぐっすりですし、ルイもオーストリアの宮殿建築の構造計算をすると言って、大人しく紙と格闘していますわ」
私は、兄の机の向かいにある椅子に腰を下ろした。
「お兄様こそ、随分とお疲れのようね。昼間の式典の時も、貴族たちからの視線が……随分と冷ややかだったように見えましたけれど」
その言葉に、兄の顔が微かに歪んだ。
「……気づいていたか」
兄は深くため息をつき、手元の書類――貴族たちから提出された無数の「嘆願書」という名の「抗議文」の束を乱暴に払いのけた。
「私が進めている『農奴解放令』と『特権階級への課税』に対する、貴族や聖職者どもからの猛反発だ。……母上が存命の頃は、彼女の強大なカリスマが重石となって彼らも黙っていた。だが、私が単独で実権を握り、真にこの国を『近代化』させようと法を整備した途端……奴らはこぞって牙を剥き始めた」
兄ヨーゼフの瞳に宿っているのは、純粋で強烈な「啓蒙思想」の炎だ。
身分に関係なく、すべての人民を平等に扱い、国家を合理的に運営する。その理想は、決して間違っていない。むしろ、歴史が向かうべき正しい方向そのものだ。
「私は、間違ったことは言っていない。農民を土地に縛り付け、搾取するだけの古い制度など、いずれ国家を内側から腐らせるだけだ!なぜ奴らは、目先の利益に囚われ、国の未来という大局が見えないのだ!」
バンッ! と机を叩く兄の手は、怒りと、そして深い孤独に震えていた。
(……お兄様。あなたの言っていることは、100パーセントの『正論』よ。でもね……)
私は、フランスで嫌というほど学んだ「大衆心理」の真理を噛み締めていた。
「お兄様。正論というものは、時に最も鋭い刃となって、相手の心を頑なに閉ざしてしまうものですわ」
「なんだと?」
「人は『正しいから』動くわけじゃありません。……人は、『自分の見栄が満たされるか』、あるいは『自分の胃袋が満たされるか』でしか、自発的には動かないのよ」
私の言葉に、兄は眉間に深いシワを寄せた。
「……私に、愚かな貴族どもに媚びを売り、妥協しろと言うのか? そんな中途半端な改革では、いつかこの帝国は崩壊する!」
「媚びる必要はありません。ですが、彼らの『プライド』という名の盾を、力ずくで割ろうとすれば、必ず内乱という反発を招きます。……お兄様、あなたは頭が良すぎるのよ。自分が十歩先を見えているからといって、一歩目すら踏み出せない彼らの足を、無理やり引っ張ってはダメ」
私は、扇子を広げて静かに続けた。
「私がフランスで、どうやってあの強欲な貴族たちから巨額の資金を引き出したか、ご存知かしら?」
「……『パトロン制度』の話か。新聞を使って寄付額を番付し、貴族の虚栄心を煽ったという……」
「ええ。私は彼らに『税金を出せ』とは言わなかった。代わりに『国の危機を救う、特別な名誉を与えてあげる』と言ったの。結果、彼らは喜んで金庫の底をひっくり返したわ。……相手の持つ『特権意識』を否定するのではなく、むしろ利用して、私たちが望む方向へレールを敷いてあげるのよ」
兄はハッとして、絶句した。
「農奴を解放するにしても、ただ法で強制するのではなく……たとえば『農民を自由にし、自立した農業経営を推進した領主には、最新の農機具の優先購入権と、帝国直属の特別名誉称号を与える』といった形で、彼らに『新しい特権と利益』を提示するのです。……古い特権を奪うなら、新しいエサをぶら下げなければ、誰も手放しませんわ」
政治とは、清濁併せ呑むもの。
真っ白な正義だけでは、ドロドロの人間社会は回らないのだ。
「……」
兄は、目を伏せて深く考え込んでいた。
『人民の幸福』を何よりも願い、自ら質素な服を着て視察に歩くほど真面目で、理想に燃える皇帝。だからこそ、自分の正しさが理解されないことに絶望し、空回りしてしまっていたのだ。
「……母上は、常に貴族たちとの間で絶妙なバランスを取っていた。私は母上のやり方を『生ぬるい』と批判してきたが……政治の現実においては、私の『急進』よりも、母上の『調和』の方が正しかったというのか」
自嘲するように呟く兄の横顔は、一人の孤独な青年のように見えた。
「お母様は、お兄様とは違うやり方で国を守っていただけです。……でも、お兄様が目指す『身分にとらわれない近代的な国家』というビジョンは、決して間違っていませんわ。ただ、そのゴールへ向かうための『アプローチ』を、少しだけ柔らかくすればいいだけ」
私は椅子から立ち上がり、兄の机の前に進み出た。
「お兄様、あなたは一人ではありません。私たちがいます」
「アントーニア……」
「フランスは今、内部の生産体制を確立し、莫大な経済力を蓄えつつあります。……オーストリアの改革に伴う一時的な経済の混乱や、プロイセンからの圧力は、私が『フランスの経済力』と『貿易協定』でバックアップしますわ。だから、焦らないで。ゆっくりと、確実にお兄様の理想の国を作ってください」
私が力強く宣言すると、兄ヨーゼフの瞳の奥で、長年の孤独な戦いからくる強張りが、スッと解けていくのがわかった。
「……フランスの王妃が、これほど頼もしい同盟国になるとはな」
兄は、ゆっくりと立ち上がり、私に向かって手を差し出した。
「……すまない。私は、母上の死を乗り越えねばと焦るあまり、一人ですべてを背負い込もうとしていたようだ。お前の言う通り、政治には『余裕』と『したたかさ』が必要だな」
そう言うと、兄はふっと表情を和らげ、深く、静かに頭を下げた。
「……ありがとう、マリー。今日、お前がここへ来てくれて本当に良かった。この孤独な玉座で一人張り詰めていた心が、お前の言葉でどれほど救われたか……心から感謝するよ」
「お兄様……」
「アントーニア、いや、マリー。どうか、この不器用な兄に、フランス流の『交渉術』とやらを、もう少し詳しく教えてくれないか?」
「ええ、喜んで! 貴族の財布の紐の解き方なら、私とジャンヌ局長の得意分野ですわよ!」
私は、兄の大きく温かい手を、しっかりと握り返した。
かつては、ウィーンから一方的に命令され、心配されるだけの「頼りない妹」だった。
だが今、私は一国の王妃として、そして対等な政治的盟友として、兄と確かな絆を結び直したのだ。
窓の外では、ウィーンの冷たい夜風が吹いていたが、執務室の中には、二つの大国が手を取り合って未来を切り開くための、熱く、確かな連帯の炎が静かに燃え上がっていた。




