第126話 ウィーンへの帰郷②
ウィーンの中心に位置するアウグスティーナー教会。
ハプスブルク家の冠婚葬祭が執り行われるこの神聖な場所は、冬の冷たく乾いた空気に包まれ、厚い石壁が周囲の音を遮断していた。
堂内は、無数の黒い蝋燭が灯され、荘厳なパイプオルガンの重低音が石畳を震わせるように響き渡っている。香炉から立ち上る白い煙が、ステンドグラスから差し込む灰色の光に透けて、まるで死者の魂が昇っていくかのように漂っていた。
今日は、偉大なるオーストリア女帝、マリア・テレジアの一周忌追悼式典。
ヨーロッパ中を震え上がらせ、時には慈愛で包み込んだ「国母」を偲び、堂内には各国の王侯貴族、特命使節、そしてオーストリア帝国の重鎮たちが、黒一色の喪服に身を包んで集結していた。
誰もが深く頭を垂れ、ハンカチを目元に当てている。
……だが、私は知っている。
彼らがそのハンカチの裏に隠しているのは、偉大な女帝を失った悲しみなどではない。
絶対的な重石であった母が消え、新皇帝ヨーゼフ2世の単独統治となったこの帝国が、今後どう転ぶのか。その「隙」を嗅ぎ回る、極めて冷酷で打算的な政治家たちのハイエナのような目だった。
特に、イギリスとプロイセンの特命使節たちは、殊更に冷ややかな視線を祭壇に向けていた。
「……ご覧なさい。ヨーゼフ皇帝陛下は、母君の偉大さに押し潰されているのだろう。農奴解放などという夢想を抱き、国内の貴族たちと対立していると聞く。プロイセンが国境で圧力をかければ、容易く瓦解するのではないか?」
「フランスも奇術で一時的に潤っているようだが、中身は砂上の楼閣。ハプスブルクの力が弱まれば、ヨーロッパの覇権は再び我々の手に戻る……」
読経の合間に、保守派の貴族たちや外国使節から、微かな、しかし確かな毒を含んだ囁き声が私の耳にまで届いてくる。
私の斜め後ろに立つ、アーサーが微かに眉をひそめ、懐の短剣に手をかけようとするのを、私は小さく手で制した。
私の視線の先、祭壇の最前列には、ヨーゼフ2世がただ一人立っていた。
母の巨大な肖像画を見据え、彫像のように微動だにしないその広い背中は、ひどく孤立して見えた。
啓蒙専制君主としての高い理想。人民のための政治。
しかし、その急進的な改革は、旧態依然とした既得権益層から猛烈な反発を買っている。母という巨大な防波堤を失った今、兄はたった一人で、この冷たく分厚い伝統という名の壁からの悪意と、外国からの圧力を、全身で受け止めているのだ。
(……お兄様。あなたはいつだって、真面目すぎて、不器用なのよ)
私は、胸の奥が締め付けられるような思いで兄を見つめた。
私にはわかる。正論だけで世の中は動かない。どれほど正しい理想を掲げても、人々の「見栄」や「欲望」をコントロールできなければ、政治は行き詰まり、やがて反発という名の刃となって自分に返ってくる。
兄はそれを一人で、真正面から打ち破ろうとしている。
各国の使節たちも、そんなオーストリア内部の軋轢を冷ややかな目で見定めている。「隙あらば、帝国の領土と利権を切り崩してやろう」という視線が、祭壇に立つ兄に容赦なく突き刺さっていた。
「……アントワネット」
不意に、隣に立つルイが、低く優しい声で私の名を呼んだ。
彼は私の心中を察したように、黙ってコクリと一度だけ頷いた。
『君の好きにしなさい。どんな行動に出ようと、僕が君を、そしてフランスを背負って立っている』
その瞳が、そう語りかけていた。
ルイの足元には、静かに私のスカートの裾を握りしめている小さなジョゼフがいる。彼はこの異様な空気を感じ取ってか、じっとお行儀よくお利口にしている。
私は、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで、教会の冷たい空気が流れ込む。
私はフランスの王妃。
だが同時に、この祭壇で一人戦っている男の、たった一人の妹でもある。
私は、顔を覆っていた喪服の黒いヴェールを静かに払い、背筋をピンと伸ばした。
そして、静寂に包まれた堂内の石畳を、ヒールの音を高く響かせながら、ゆっくりと前へ進み出た。
カツン、カツン、カツン。
「……ッ。フランス王妃殿下が、なぜ……」
「女は後ろに控えているのがオーストリアの作法だぞ……」
「何を血迷ったか。神聖な儀式の最中だというのに!」
貴族たちや各国使節が、驚愕と非難の入り混じった視線を向ける。
だが、私は一切歩みを止めなかった。
今日私が身に纏っているのは、ローズ・ベルタンに特別に仕立てさせた漆黒のドレスだ。過剰なフリルや宝石は一切ない。しかし、フランスの最新織機で織り上げられたその布地は、光を吸い込むような深い黒でありながら、歩くたびに流線型の完璧なカッティングが芸術的なシルエットを描き出す。
それは、旧時代の過剰な装飾を否定し、機能美と圧倒的な技術力を見せつける「フランスの力」そのものを具現化した戦闘服だった。
私は祭壇の最前列――兄ヨーゼフのすぐ隣へと進み出て、ピタリと並び立った。
「……マリー? 何をしている。ここは女人禁制だ。下がれ……」
兄が驚いて小声で咎めようとした。その顔には、妹を周囲の非難から守ろうとする焦りが見えた。
だが、私は彼に向かって、ふっと小さく、しかし威厳に満ちた微笑みを向けた。
「お兄様。ハプスブルクの女は、家族が矢面に立たされている時、その後ろに隠れて震えているような教育は受けておりませんわ。……それに、私は今、ただの妹としてここに立っているわけではありません」
私は正面に向き直り、堂内を埋め尽くす貴族と各国の使節たちを、ゆっくりと、そして極めて冷徹な視線で見渡した。
フランス王妃としての圧倒的な覇気。
私の視線が氷の刃となって、ヒソヒソと囁いていた貴族たちや使節の目を次々と射抜いていく。
(いいこと? ヨーゼフ2世は決して孤立などしていない。この私の背後には、ヨーロッパ最強の経済力と技術力を誇るフランスという超大国がついている。……お兄様を侮ることは、我がフランスを敵に回すことだと知りなさい!)
私は言葉を一切発しなかった。
ただ、兄の隣に凜と立ち、ハプスブルクの誇りとブルボンの威信を一身に纏って、彼らを睥睨したのだ。
その無言の、しかし強烈な政治的パフォーマンスに、堂内の空気は凍りついた。
冷ややかだった貴族たちの視線が、明らかな「畏怖」と「警戒」へと変わり、各国の大使たちは慌てて視線を伏せた。
つい先日まで、イギリスの海上封鎖を飛行船と美味なる保存食で物理的に無力化し、万博でヨーロッパ中の富を吸い上げたフランス。
その王妃が、オーストリア皇帝とこれほどまでに強固な連帯を、白日の下に示している。
もしここでオーストリアに反旗を翻せば、あるいは外交的な隙を突こうとすれば、明日にでも自国の空がフランスの飛行船で埋め尽くされ、経済を制圧されるかもしれない。
この事実だけで、ウィーンの宮廷に渦巻いていた不穏な空気は、物理的に圧殺されたのである。
重苦しい沈黙の中、聖歌隊による追悼の賛美歌が、再び静かに鳴り響き始めた。
高く、澄み切った歌声が、高い天井へと吸い込まれていく。
「……見事なものだな」
読経の響く中、兄が前を向いたまま、微かに唇を動かした。
その声の震えが、彼がどれほどのプレッシャーから解放されたかを物語っていた。
「まるで、かつての母上がそこに立っているかのようだ。……お前が横に並んだ瞬間、私の背中に刺さっていた無数の毒矢が、すべて霧散してしまった」
「ふふっ。私はお母様ほど厳格にはなれませんわ。ただ、大切な家族の背中を守るための『睨み方』を、少しばかり知っているだけです」
私は、喪服の袖の下で、兄の冷え切った手をそっと握った。
兄の指先が、わずかに震え、そして私の手を強く、強く握り返してくれた。
言葉は交わさなくても、伝わるものがある。
血を分けた兄妹として。そして、新しい時代を背負う二つの大国の君主として。
追悼式典の荘厳な空気の中で、母の魂に見守られながら、私と兄の間に、決して何者にも壊せない強固な「政治的、そして家族としての絆」が、静かに、そして確かに結ばれていくのを感じていた。
……そして、この式典でのパフォーマンスが、オーストリアの未来を決める大きな決断へと繋がっていくのである。




