第125話 ウィーンへの帰郷①
秋の深まりを告げる冷たい風が窓を叩く中、私はトランクケースの最も大切な場所に、一つの「帽子」をそっと収めていた。
オーストリア産メリノウールで編まれた、真っ白な『サウナハット』
編み目が少し不格好に歪んでいるそれは、私にとって何よりも重い、愛する母の形見だった。
「……もう、一年になるのね。お母さん」
今日から私たち家族は、母・マリア・テレジアの一周忌の追悼式典に参列するため、オーストリアのウィーンへ向けて出発する。
一年前、私は母の最期を看取るため、アーサーたちと馬車で猛吹雪の中を強行軍で駆け抜けた。あの時は悲しみと焦燥に満ちた帰郷だった。
だが今回は違う。古いヨーロッパの王族たちに対する、「フランスは決して止まらない」という強烈な意思表示の旅でもあるのだ。
「アントワネット。準備はできたかい?」
静かに扉が開き、喪に服すための落ち着いた礼服を着たルイが入ってきた。
「ええ、ルイ。いつでも行けるわ」
「一年前、君をウィーンへ向かわせたこと、ずっと不甲斐なく思っていた。……でも今回は、僕とジョゼフも一緒だ。母上に、僕たちがどれだけ元気にやっているか、家族揃って見せつけに行こう」
「ルイ……ありがとう。本当に心強いわ」
私たちが宮殿の中庭へと歩を進めると、そこには信じられないほど巨大な黒い影が横たわっていた。
飛行船『ラ・ポム・ド・シエル号』
しかし、目の前にある機体は、あの時の外観から少し姿を変えていた。
「紹介しよう! 今回のウィーン訪問のために特別改修を施した、客船仕様『ラ・ポム・ド・シエル・エトワール』だ!」
丸眼鏡を光らせたオタク王が、ドヤ顔で両手を広げた。
「長距離の空の旅でも疲れないよう、ゴンドラ内部の居住性を高めた。特注の防音材に、蒸気機関の排熱を利用した『暖房システム』を完備! さらに、君のルーティンが崩れないよう、軽量ジュラルミン合金で鋳造した『組み立て式スクワットラック』も設置済みだ!」
「……追悼式典に向かう船に、スクワットラックを積む王様がどこにいるのよ。でも、ありがとう。その熱気、お母さんにもきっと届くわ」
「ママ! おっきいおふね! 飛ぶの!?」
私の足元で、子ども用のシックな礼服と革製スニーカーを身につけたジョゼフが、目をキラキラと輝かせている。
昨年、母が「歩くところを見たかった」と願いながら叶わなかった小さな足は、今ではこんなにも力強く大地を踏みしめている。
「ええ、飛ぶわよ。これからお空を飛んで、おばあちゃんに会いに行くの」
「うん! ぼく、おばあちゃんにお手紙かいたから、お空の上から渡すの!」
元気いっぱいにタラップを駆け上がろうとするジョゼフの前に、漆黒のコートに身を包んだアーサーが音もなく立ち塞がった。
「お待ちください。最終の安全確認が完了するまで、あと五分だけお待ちを」
「アーサー、もう三回もチェックしたじゃない?」
「王妃様。偉大なる女帝陛下が崩御されてから、ヨーロッパの情勢は水面下できな臭くなっております。オーストリア国内の保守派にも、フランスの『健康と技術の蔓延』を苦々しく思う者は多数。私は皆様の命を預かる身。万に一つの危険も排除せねばなりません」
アーサーの懸念は正しい。母の言った「理不尽な暴力」は、いつどこから襲ってくるか分からない。
数分後、「オールクリアです。どうぞご搭乗ください」という彼の声で、私たちは機内へと乗り込んだ。
蒸気機関の力強い産声を上げながら、私とルイ、ジョゼフ、アーサー、それに数人の精鋭兵を乗せた飛行船はパリの空へと舞い上がった。
数時間後。
安定した高度に達した飛行船の窓から、私は眼下に銀色のリボンのようにうねる大河を見下ろしていた。
フランスと神聖ローマ帝国を隔てる、ライン川。
「……去年、君が吹雪の中を駆け抜けた時とは、随分と違う景色だろうね」
ハーブティーのカップを手に、ルイが隣に並んだ。
「ええ。あの時はお母様の元へ一秒でも早く着くことしか考えられなくて、外の景色なんて見る余裕はこれっぽっちもなかったわ」
私は、トランクから取り出した真っ白なサウナハットを頭にすっぽりと被った。
羊毛の温もりが、私の頭を優しく包み込む。
「でも、今は違う。冷たい雪の代わりにお日様の光があって、隣にはあなたがいて、ジョゼフがいる。一年前の私に教えてあげたいわね、ちっとも孤独じゃないって」
ルイは優しく微笑み、私の肩を抱き寄せた。
「パパ! ママ! みてみて、雲が下にあるよ!」
窓の向こうの景色にはしゃぐジョゼフと、転ばないよう背中に手を添えるアーサー。
私はフランスの王妃マリー・アントワネットであり、ウィーンが育んだマリア・テレジアの娘でもある。
「エンジン出力最大! さあ、ヨーロッパの空に、我々の熱い蒸気を吹き込んでやろう!」
ルイの号令と共に、巨大なプロペラが回転数を上げ、分厚い雲を力強く引き裂いていく。
翌日の午後。
ハプスブルク家の離宮、シェーンブルン宮殿の上空に突如として飛来した巨大な漆黒の船に、ウィーンの街は前代未聞のパニックと歓声に包まれた。
巨大なゴンドラから『フランス王室の百合の紋章』と『ハプスブルク家の双頭の鷲』の旗が同時に翻ると、それが何者であるかを全員が理解したのだ。
宮殿の広大な庭園に着陸し、土煙が晴れるのを待ってタラップが下ろされた。
アーサーが安全を確認し、私とルイはジョゼフの手を引いてウィーンの土を踏んだ。私の頭には、真っ白なサウナハットが被られたままである。
「……よくぞ、戻ってきた。私の愛する妹よ」
着陸地点で私たちを待っていたのは、煌びやかな軍服に身を包んだ神聖ローマ帝国皇帝にして私の兄、ヨーゼフ2世だった。
「お久しぶりです、お兄様。お母様の一周忌に、こうして家族揃って参列できたこと、心から感謝いたしますわ」
私が完璧なカーテシーを見せると、兄は目を丸くし、私の頭の上の帽子と、引き締まった肉体をまじまじと見つめた。
「……アントーニア。お前、その頭の白い布はなんだ。それに……ひどく『逞しく』なっていないか? 一年前の姿とも、昔のひな鳥のように細かった姿とも全く違う」
兄が言葉を失うのも無理はない。今の私は「毎日のケトルベル・スイング」と「極上の肉とポテト」によって、最高に仕上がった健康体なのだから。
「ふふっ。この体は……フランスの土と、美味しいジャガイモが私を育ててくれたのですわ」
私は胸を張り、毅然と兄の目を見つめ返した。
「いざという時は、私がこの力で家族を守らなければなりません。お母様が言ったように、古いヨーロッパの冷たい常識は、私たちが溶かしてみせますわ」
その言葉を聞いた瞬間、兄の顔から驚きが消え、やがて空を仰いで豪快に笑い出した。
「……ははははっ!! 素晴らしい! 母上が最期に笑って逝けた理由が、今ようやく分かった! お前は、見事に『母親』になったのだな。それでこそハプスブルクの女だ。よくぞ、強く生きてくれた!」
兄は保守的な貴族たちの渋い顔など気にせず、私を力強く抱きしめてくれた。
その肩越しに見るシェーンブルン宮殿は、一年前の悲しみに暮れたあの時とは違い、優しく黄色い壁面を夕陽に輝かせていた。
(……ただいま、お母さん。ジョゼフも、こんなに元気に歩いているわよ)
私は心の中で、ウィーンの空に向かってそっと呟いた。
涙はない。なぜなら私は、彼女が望んだ以上の強さと幸せを手に入れて、母の遺志を胸に堂々とこの場所に帰ってきたのだから。
マリー・アントワネット、25歳。
空飛ぶ巨大船による前代未聞の「家族での里帰り」は、ウィーンの宮廷に強烈なインパクトと、古い常識をぶち壊す熱い蒸気を巻き起こしながら、幕を開けたのである。




