第120話 夜空に咲く平和の花
1781年、晩夏。
昼間の狂気的な猛暑が嘘のように、夜のパリには涼しい風が吹き始めていた。
チュイルリー宮殿の地下にある、薄暗いナポレオンの秘密部屋。
そこで彼は、再びランプの微かな明かりに照らされながら、設計図と『黒い粉』に向き合っていた。
「……平和とは、脆いガラス細工のようなものだ」
ナポレオンは、ヨーロッパ全土の地図を睨みつけながら、すり鉢で硫黄、木炭、硝石を神経質にすり潰していた。
「イギリスやプロイセンが我が国の圧倒的な経済成長を黙って見過ごすはずがない。いずれ必ず、武力による干渉が来る。……その時、我が国を守るための『絶対的な抑止力』が必要だ」
彼の目に宿っていたのは、紛れもなく「戦の天才」としての冷徹な光だった。
ナポレオンは、完成した黒色火薬に、さらにいくつかの『謎の金属粉末』を慎重に混ぜ合わせていく。
「青銅の削りカスに、岩塩、そしてストロンチウム鉱石の粉末……。これらを火薬に混ぜ込めば、燃焼時の化学反応で爆発の威力が底上げされるはず。この新型火薬を榴散弾に詰め込めば……敵の歩兵部隊など、一瞬で木っ端微塵だ」
神童が、自らの生み出した恐るべき殺戮兵器の完成に薄暗い笑みを浮かべた、その時だった。
「なーに物騒な独り言をブツブツ言ってるのよ、ナポレオン!」
バーン! と勢いよく鉄扉が開き、私とルイが地下室に突入した。
「マ、マリー!? なぜまたここに!」
「アーサーから報告があったのよ。あなたがまた夜中にコソコソと怪しい粉を調合しているって。……今度は何を伸ばそうとしてるの?」
「ち、違う! 今回は私のコンプレックスの話ではない! 国家防衛のための『新型大砲』と『高火力爆薬』の開発だ!!」
ナポレオンは慌てて地図と火薬を隠そうとしたが、私より先に、作業着姿のルイがその『粉』を指先でつまみ、匂いを嗅いだ。
「……ふむ。硫黄と硝石の純度を高めているね。でも、ナポレオン君。この『銅』や『ストロンチウム』の金属粉はなんだい? これを混ぜても、爆発の破壊力は上がらないよ」
「なっ……なんだと!? 違うのか!?」
「うん。これは『炎色反応』といってね。金属にはそれぞれ、燃やした時に特有の色を放つ性質があるんだ。……これを爆発させたら、威力が増すどころか、ただ赤や青の『派手で綺麗な火花』が散るだけだよ」
「派手で、綺麗な火花……?」
ナポレオンが呆然とする中、私の脳裏に「ある夏の風物詩」が強烈なフラッシュバックとなって蘇った。
(火薬を空高く打ち上げて、色とりどりの火花を散らす……。それって夏の夜空を彩った、アレじゃない!!)
「ナポレオン、あなたって本当に天才ね!!」
「えっ……。い、いや、私は兵器を作ろうと……」
「兵器なんて野蛮なものに使っている場合じゃないわ! その火薬と、大砲の才能……私たちが最高の『エンターテインメント』に昇華させてあげる!!」
数日後。夏の終わりの、ある夜。
チュイルリー宮殿の庭園は、無数の提灯とガス灯で明るく照らされ、何万人というパリの市民たちで埋め尽くされていた。
「……一体、何が始まるというのだ」
ナポレオンは、宮殿のバルコニーに設けられた特等席から、眼下に広がる異様な熱気を見下ろしていた。
「フフフ。我が国の『絶対的な抑止力』のお披露目ですわ」
隣に立つジャンヌが、扇子で口元を隠しながら妖艶に笑う。
「王妃様の発案による、夏の終わりの『大夜祭』。バルコニー席は貴族たちに一人金貨三枚で販売し、平民たちには庭園を無料開放。……そして、最も利益を上げているのが、あちらの『屋台』ですわ」
庭園のあちこちから、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂ってきている。
「ナポレオン、お待たせ! 特等席には、特別なご飯が必要でしょ!」
私は、お盆に出来立ての料理を乗せてバルコニーにやってきた。
「今日のメインは、小麦粉の生地に『極上の牛肉』ととろけるチーズを入れ、丸い鉄板で一口サイズに焼き上げた……名付けて『ビーフボール』よ!!」
丸くて熱々の生地の上には、甘辛い特製ソースと、濃厚な卵黄のソースがたっぷりとかけられ、青のりの代わりにパセリが散らされている。
「丸い……食べ物?」
ナポレオンは、爪楊枝でその熱い球体を突き刺し、恐る恐る口に放り込んだ。
「アツッ……!? ハフッ、ホフッ……!」
火傷しそうな熱さの中で生地がとろけ、中から溢れ出す極上牛肉の濃厚な肉汁とチーズのコクが、甘辛いソースと絡み合って口の中を支配する。
「う、美味い……! なんだこのソースのコクは! そして、ハフハフしながら食べるこの『熱狂』そのものが最高のスパイスになっている!!」
「でしょ? そしてデザートはこれ! 棒に刺したリンゴを、真っ赤でパリパリの甜菜糖の飴でコーティングした『りんご飴』よ!」
私が赤いりんご飴を手渡すと、ナポレオンは少年のように目を輝かせ、パリッと飴を噛み砕いた。
「……甘くて、酸っぱい。美味しい……」
ナポレオンが至福の表情を浮かべた、その時だった。
――ヒュルルルルルッ……!!
庭園の奥に設置された巨大な発射管から、一条の光が、甲高い音を立てて夜空へと打ち上げられた。
「なっ……! まさか、あれは私の大砲……!?」
ナポレオンが身構えた瞬間。
――ドォォォォォォォォォンッ!!!!!
パリの夜空のど真ん中で、鼓膜を震わせる轟音とともに、巨大な光の華が咲き誇った。
赤、青、緑、黄金。
ルイの緻密な計算と、ナポレオンが調合した「炎色反応」の金属粉が見事に連鎖し、夜空に直径百メートルにも及ぶ『巨大な光の菊』を描き出したのだ。
「「「うおおおおおおおおっ!!!!」」」
庭園を埋め尽くしていた何万という人々が、一斉に夜空を見上げ、歓喜の悲鳴を上げた。
「綺麗だ……! 神様の魔法みたいだ!」
「王妃様! 国王陛下! 万歳!!」
夜空に次々と打ち上げられる色鮮やかな『打ち上げ花火』。
その光に照らされたパリの市民たちの顔には、争いへの恐怖も、飢えへの不安も、何一つなかった。あるのは、ただ純粋な驚きと、隣の誰かと感動を分かち合う笑顔だけだった。
「……私の作った破壊兵器が、こんな……こんなに美しい光に……」
ナポレオンは、りんご飴を持ったまま、夜空に咲く花火を見上げて立ち尽くしていた。
その瞳には、光の反射だけでなく、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ねえ、ナポレオン」
私は、彼の隣に並び立って夜空を見上げた。
「あなたは『絶対的な抑止力』が必要だって言ったわね。確かに、他国を威嚇するための大砲も必要かもしれない。……でもね、本当に国を守る一番の力は、大砲の数じゃないのよ」
「大砲の、数じゃない……?」
「ええ。……こうして、同じ夜空を見上げて、美味しいものを食べて、みんなで一緒に笑い合えること。……『この幸せな国と、隣にいる家族を絶対に守りたい』って、国民全員が心の底から思えること。それ以上の最強の国防なんて、この世に存在しないのよ」
私の言葉に、ナポレオンはハッと息を呑み、そして眼下の市民たちを見た。
誰もが、隣の人と肩を組み、花火の光に照らされて笑っている。
(……そうか。私が歴史の授業で学んだ「恐怖による支配」や「軍事力による威圧」は、いつか必ず内側から崩壊する。だが……この『幸福の連帯』は、どんな大砲でも撃ち抜くことはできない……!)
「マリー。……ルイ陛下」
ナポレオンは、りんご飴をギュッと握りしめ、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……私の完敗です。私が設計した殺戮兵器よりも、あなた方が作ったこの『花火』と『ビーフボール』の方が、よほど強力な国家防衛兵器だ」
「ふふっ、分かればよろしい!」
私はナポレオンの頭をポンッと撫で、夜空に打ち上がる最後にして最大の『黄金のしだれ柳』を指差した。
「さあ、難しい顔は終わり! 花火が散る前に、ビーフボールのおかわりを食べて、この最高に平和な夏を焼き付けなさい!」
「……ええ。いただきます」
史実において、ヨーロッパ全土を血で染め上げるはずだった『戦の天才』ナポレオン・ボナパルト。
彼の心に宿っていた冷たく孤独な炎は、マリー・アントワネットの温かいジャンクフードと、夜空に咲き誇る平和の光によって浄化されたのである。
マリーアントワネット、25歳。
パリの夜空に響き渡る花火の音は、誰も死なない、腹いっぱい食える最強の経済国家・フランスの、果てしなく明るい未来を祝福する祝砲であった。




