第116話 はじめてのおともだち
チュイルリー宮殿の隣に設立された『基礎教育アカデミー』
そこには、読み書きや計算を学ぶ組のほかに、まだ勉強には早い小さな子供たちを預かる『保育ルーム』が併設されている。
ここは、工場で働く平民の労働者たちや、宮廷で公務をこなす貴族たちが、安心して子供を預けられる画期的な施設である。
そして現在、この保育ルームの「絶対的ボス」として君臨しているのが――我が息子、王太子ルイ・ジョゼフであった。
「……マリー。状況は極めて芳しくありません。殿下が『孤立』しています」
保育ルームを物陰からこっそりと視察していたナポレオンが、手帳を開きながら冷徹な声で報告した。
「孤立って……いじめられているわけじゃないわよね?」
私がハラハラしながら窓から覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
特注のデニム・サロペットを着たジョゼフが、部屋の中央で木製の積み木を組み立てている。
だが、彼の周りには「見えない円陣」ができていた。同じ三歳児の子供たちが、ジョゼフから半径一メートル以内に絶対に近づこうとしないのだ。
「どーぞ!」
ジョゼフが、近くにいたフリフリのドレスを着た貴族の女の子に、積み木を一つ差し出した。
女の子は、ビクッと肩を揺らした。積み木を受け取ろうとはせず、両手を背中にギュッと隠してしまう。
「……マ、ママが……でんかに、さわったらダメって……めっ、て……」
今にも泣き出しそうな顔で、後ずさりして壁際へ逃げてしまった。
「あう?」
ジョゼフは不思議そうに首を傾げ、今度は平民の男の子に向かって、自分のお気に入りの『木製の歯車』を差し出した。
「あそぼ?」
男の子は、怯えたように首をぶんぶんと横に振った。
「とーちゃんに、おこられるもん……。でんかの、さわっちゃダメなの……!」
顔を真っ赤にして、そのまま部屋の隅へパタパタと逃げて、膝を抱えて丸まってしまった。
「…………」
私は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「……ダメだわ。親たちが『絶対に王太子殿下の機嫌を損ねるな』って、家で徹底的に言い聞かせてるのね。まだ三歳の子供たちが、親の言いつけを守ってただ怯えきってるなんて、異常な光景よ!」
「当然です。相手は未来のフランス国王。おもちゃを取り合って殿下を泣かせでもしたら、親は不敬罪でギロチンにかけられると本気で思っているのでしょう。……これでは、殿下は『腫れ物』扱いです」
ナポレオンの指摘通りだった。
身分不問の学校を作ったとはいえ、何百年も続いた『身分制度の絶対的な壁』は、親たちの心の中に根強く残っている。三歳児たちは身分こそ理解していないものの、親の「絶対に近寄るな」という恐怖の顔色を読み取り、ジョゼフを避けているのだ。
(ジョゼフは、あんなに『どーぞ!』って、みんなと遊びたがっているのに……。これじゃあ、本当の意味での『おともだち』なんて、一生できないじゃない!)
前世で、泥んこになって友達と公園で遊び回っていた記憶を持つ私にとって、ジョゼフのこの「見えない牢獄」は、見ていてたまらなく可哀想だった。
「ピィーッ! さあみんな、お外の『お砂場』で遊ぶ時間よ!」
保母のホイッスルが鳴り、子供たちがワァッと中庭の巨大な砂場へと駆け出していった。
ジョゼフも「おしゅな! おしゅな!」と大喜びで走り出し、自分の顔ほどもある木製のシャベルを握りしめて、砂場のど真ん中に陣取った。
「ざしゅっ! ざしゅっ!」
ジョゼフは、ルイ譲りの驚異的な集中力で、砂を掘り始めた。
彼が作っているのは、ただのお山ではない。ポンプで水を引くための『水路』という、三歳児らしからぬ高度な土木工事である。
他の子供たちは、ジョゼフの作っている巨大な水路に興味津々だったが、やはり誰も「入れて」とは言えず、遠巻きに見つめているだけだった。
その時だった。
「……どけよ。そこ、オレがほるの」
砂場の端から、ドカドカと遠慮のない足音を立てて歩いてきた一人の男の子がいた。
年齢はジョゼフと同じくらい。着ているのは使い古されたツギハギだらけのシャツで、鼻の頭には黒い煤がついている。チュイルリーの地下で働く、配管工の息子だった。
「なっ……! 平民のガキが、王太子殿下の御前に……! 止めろ!」
護衛の近衛兵が慌てて飛び出そうとしたが、私はそれを「待って!」と強い声で制止した。
「マルセルって言ったかしら、あの子。親の言いつけなんてすぐ忘れちゃうような、見事な野ガキっぷりね。……少し、様子を見ましょう」
砂場のど真ん中。
ジョゼフの目の前に立ったマルセルは、バケツを持ってジョゼフを見下ろした。
「おみず、オレの!」
マルセルは、ジョゼフが「王太子」であることなど全く気にしていない様子だった。ただ目の前に、自分の遊びたい場所を使っている同い年の子供がいる。それだけだ。
「あう?」
ジョゼフが顔を上げた瞬間、マルセルは、ジョゼフが一生懸命シャベルで掘って溜めていた『水路の水』に向かって、自分の持っていたバケツの砂をバサァッと投げ込んだ。
「ああっ!!」
ジョゼフが悲鳴を上げた。彼が丁寧に作っていた水路の壁が、マルセルの乱暴な砂の投入によって決壊し、水が外へ溢れ出してしまったのだ。
「だめ!! じょじぇふの! おみず!」
ジョゼフは立ち上がり、顔を真っ赤にしてマルセルをポカポカと叩いた。三歳児の、全力の抗議である。
「やめろよ! すなば、みんなの!」
マルセルも負けじと、ジョゼフの肩をドンッと突き飛ばした。
「きゃああっ! 殿下!!」
見ていた貴族の母親たちが一斉に悲鳴を上げて卒倒しそうになった。
「マリー! これ以上の接触は危険です! 殿下が怪我を……」
ナポレオンが動こうとするが、私は彼の手首をガシッと掴んで止めた。
「手を出さないで! これは外交問題じゃない、ただの『三歳児の喧嘩』よ! ジョゼフが自分でどう解決するか、見守るの!」
突き飛ばされたジョゼフは、しりもちをついた。
普通ならここで大泣きして、大人に助けを求めるところだろう。だが、伊達にベルサイユの激動の時代を生き抜き、日々のサロペット生活で鍛え上げられたわけではない。
「……んぬっ!」
ジョゼフは、泣くのをグッとこらえ、自力でムクッと立ち上がった。
そして、両手に砂をぎゅっと握りしめ、マルセルの顔に向かって――バサァッ!! と容赦なく砂を投げ返したのだ。
「うわっ! ぺっ、ぺっ! やったなー!」
「じょじぇふ、まけない!!」
バサァッ! ドスッ!
フランス王国の次期国王と、配管工の息子。
身分も歴史も全てかなぐり捨てた、純度100パーセントの泥仕合が勃発した。
「……信じられない。王太子殿下が、あのように本気で怒りを露わにし、同年代の子供と対等にやり合っている姿など、かつてのベルサイユでは想像もできませんでした」
ナポレオンが、呆然としながらも、手帳に猛烈な勢いでメモを取り始めた。
「『領土(砂場)を巡る初期衝突において、殿下は一切の退却を拒否。物理的な砂の投擲によるカウンター攻撃を展開』……。素晴らしい闘争心だ。しかし、このままでは不毛な消耗戦に……」
「ふふっ。ナポレオン、子供の喧嘩を戦争と同じにしないで。……ほら、戦況が変わるわよ」
砂を投げ合い、取っ組み合いになって泥だらけになった二人。
だが、三歳児の体力は長くは持たない。数分後には二人ともゼェゼェと肩で息をし、砂場の上にペタンと座り込んでしまった。
「……えいって、いたかった」
マルセルが、鼻をすりながらハァハァと息をついた。
「じょじぇふも、いたかった!」
ジョゼフも、泥だらけの顔で言い返した。
限界までやり合って、お互いの力を認めた瞬間。子供同士の不思議な「絆」が芽生えるのは一瞬だった。
「……あのおみず、どうやるの? すな、なくなるの」
マルセルが、ジョゼフの決壊した水路を指差して聞いた。
「んーとね! ぺたぺた、するの!」
ジョゼフは、ルイが教えてくれた『地盤固めの基礎』を、小さな手のひらで砂をパンパンと叩いて見せた。
「オレも、ぺたぺたする! いっしょに、つくる!」
数分前まで砂の投げ合いをしていた二人が、今度は頭を突き合わせ、泥まみれになりながら一つの巨大な水路と山を作り始めたのだ。
配管工の息子の「泥を固める技術」と、オタク王の息子の「水路の設計能力」。
二人の三歳児のコラボレーションは、砂場に前代未聞の『巨大な泥のお山』を築き上げていく。
「……おい見ろよ、あそこ。もう一回水流すぞ!」
「殿下とマルセル、楽しそうだ!」
遠巻きに見ていた他の子供たちも、その圧倒的な楽しそうなオーラに抗えなくなった。
「あ、あの……オイラも、バケツでお水、もってくる……?」
平民の男の子がおそるおそる近づく。
「いいよ! お水、いっぱいいる!」とジョゼフが笑う。
「わ、わたくしも! 泥をペタペタするの、やりますわ!」
フリフリのドレスを着ていた貴族の女の子まで、親の制止を振り切り、泥の中に飛び込んだ。
気がつけば、砂場は数十人の子供たちが身分も性別も関係なく入り乱れ、みんなで泥だらけになって巨大な山を作る、最高の建設現場と化していたのだ。
「……素晴らしい光景ですね。身分という概念が、共通の『目的』の前に完全に溶解している」
いつの間にか隣に立っていたロベスピエールが、眼鏡の奥で感動の涙を光らせていた。
「これぞルソーの説いた『社会契約』の原風景! 共に泥にまみれ、平等に遊び、喜びを分かち合う! 王室の未来は、この泥の中にこそあるのです!!」
「やあ、なんだか楽しそうなことになっているね!」
そこへ、工房での作業を終えたルイが、油まみれの姿でやってきた。
砂場の大きなお山を見た瞬間、彼のオタクセンサーが激しく反応した。
「おおっ! この水路のカーブと、泥の壁による浸透圧の分散……! 三歳児の遊びの域を超えている! アントワネット、僕もちょっとあそこに入って『水門』の作り方を指導してきていいかい!?」
「ダメよ、ルイが入ったらただの土木工事になっちゃうでしょ!」
私はルイの襟首を掴んで引き止めた。
「……でも、最高ね。これが私の見たかった、フランスの本当の未来よ」
やがて、授業終わりのホイッスルが鳴った。
「ピィーッ! みんな、お片付けして手を洗うわよー!」
泥だらけの子供たちが、ワーワーと水道の方へ走っていく。
ジョゼフも、顔の半分を泥で真っ黒にして、私のところへトコトコと走ってきた。
その後ろには、同じく泥だらけのマルセルが、ちょっと照れくさそうについてきている。
「ママン! パパ!」
ジョゼフは、私の足にしがみつき、そしてマルセルの手をギュッと握りしめた。
「んーとね! ママン、紹介するの!」
ジョゼフは、泥だらけの顔で、世界一誇らしげな、あの「ニパッ!」という笑顔を弾けさせた。
「マルしぇる! じょじぇふの、おともだち!!」
「……お、おう! オレとジョゼフは、一緒にデッカイの作ったダチだぜ! 王妃様!」
マルセルが、鼻の下をこすりながら不敵に笑う。
「…………っ!!」
私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、思わず口元を手で覆った。
臣下でもなく、利用するためのコマでもなく。
初めて彼自身が、一人の子供として、喧嘩をして、泥にまみれて、自分の力で掴み取った『おともだち』。
「……ええ。よろしくね、マルセル。ジョゼフと遊んでくれて、ありがとう」
私は、膝をついて二人を力いっぱい抱きしめた。
「うわっ、王妃様、泥がつくぞ!」とマルセルが慌てるが、私は構わずに二人の泥だらけの頬にキスをした。
「泥なんて洗えば落ちるわ! それよりも、あなたたちが一緒に作ってくれたこの笑顔は、フランスの一番の宝物よ!!」
その日の夕方。
アカデミーの給食室に、これまでにないほど平和で、賑やかな声が響いていた。
「ジョゼフ! オレのポテト、半分やるよ! その代わり、お前のその甘いプリンを一口なめさせろ!」
「うんっ! マルしぇる、どーぞ!」
隣同士で座り、スプーンを交換し合いながら、口の周りを食べ物だらけにして笑い合う二人の三歳児。
「……マリー」
ナポレオンが、その光景を万年筆で書き留めながら、静かに呟いた。
「殿下は、素晴らしい外交手腕をお持ちですね。……武力でも、金でもなく、『泥団子』と『プリンのシェア』で、平民との間に絶対的な不可侵条約を結んでしまった」
「ふふっ。外交なんて難しい言葉を使わないで。あれはただの、最高にハッピーな『おともだち条約』よ」
私は、温かいハーブティーを飲みながら、この上なく満ち足りた気持ちで二人を見つめた。
マリー・アントワネット、25歳。
彼女の愛する息子は、身分制度という冷たく高い壁を、たった一個の泥団子と無垢な笑顔でやすやすと飛び越え、最強の「おともだち」を手に入れた。
この泥だらけの絆が、数十年後のフランスを支える強固な「礎」になることを、私たちはまだ、知る由もなかったのである。




