第115話 チュイルリー・アクアランド
1781年、夏。
フランスを襲ったのは、「殺人的な」猛暑だった。
例年なら優雅に扇子を煽っていれば済むレベルなのだが、今年の太陽は容赦がない。連日、不気味なほど青く澄み渡った空から、パリの石畳を焼き、工場の熱気を限界まで引き上げる熱線が降り注いでいた。
「……だめ。もう、一歩も動けないわ」
チュイルリー宮殿の執務室。私は机に突っ伏し、うなだれていた。
「マリー、行儀が悪いですよ。……と言いたいところですが、確かにこの暑さは計算外です」
隣のデスクでは、ナポレオンが、首に濡れたタオルを巻きながら猛然と団扇を動かしていた。彼の前には、熱波でインクが乾いて書けなくなった羽ペンが転がっている。
「工場の労働者たちの間でも、熱中症によるダウンが続出しています。生産効率は先週比で25パーセント低下。このままでは今月の黒字目標に届きませんわ」
銀縁眼鏡を曇らせたジャンヌが、幽霊のような足取りで現れた。彼女ですら、いつもの隙のない美貌が暑さで少し溶けかかっている。
(……あつい。暑すぎる。前世なら、迷わずエアコンの効いた部屋でアイスを食べて、週末はプールに飛び込んでいたのに……)
そこまで考えた時、私の脳内にひとつの「革命的なアイデア」が閃いた。
「……そうだわ。プールよ! プールを作りましょう!!」
「ぷ、ぷーる……? 溜め池のことですか?」
ナポレオンが訝しげに眉をひそめる。
「違うわよ、ナポレオン! ただの泥水が溜まった池じゃないわ。透き通った綺麗な水で満たされた、泳いで遊んで涼むための『市民のオアシス』よ!」
私はガタッと立ち上がり、鼻息を荒くしてプレゼンを始めた。
「いい!? 18世紀のフランス人は、水に浸かることを怖がりすぎなのよ! 『水に浸かると皮膚の毛穴が開いてペストが入り込む』なんて迷信、科学国家フランスの名が廃るわ! 暑い時は水に飛び込んで体を冷やす。それが一番の健康法であり、最強の娯楽なのよ!!」
「……なるほど。大規模な『人工水遊場』というわけだね」
数時間後。私の無茶振りに応えて現れたのは、これまた汗だくで設計図を広げるルイだった。
「ルイ、できる!? いつものオーバースペックな超兵器じゃなくていいの。ただ、清潔な水が循環して、みんなが安心して泳げる場所が欲しいのよ!」
ルイは顎に手を当て、真剣な目で庭園の地図を見つめた。
「任せてくれ、アントワネット。今回は原始的で確実な方法で行こう。セーヌ川から引き込んだ水を、細かい砂と炭の層を通した『重力濾過システム』で浄化する。循環には、工場の排水ポンプを少し改良した水車を使えば、水は腐らないよ」
(……さすがルイ! まさにエンジニアの鏡ね!)
「よし、建設場所はチュイルリー宮殿の中庭に決定! 労働者も、子供たちも、貴族も、みんなが『涼』を求めて集まれる場所にしましょう!」
「……ふふっ。王妃様、またしても『商機』の匂いがいたしますわね」
ジャンヌが眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせた。
「『プール』という未知の体験。その入場料は一人五スー。さらに、水に濡れても透けない水着の販売。……そして何より、泳いで腹を空かせた客たちへの食事販売。……これは、ひと夏で国庫を潤す『巨大なビジネス』になりますわ!」
「さすがジャンヌ、計算が早いわね!」
それから驚異的な突貫工事を経てチュイルリー宮殿の中庭に、フランス史上初となる人工プール『チュイルリー・アクアランド』が誕生した。
広々とした石造りの浴槽には、ルイの濾過システムを通った透き通るような水がなみなみと湛えられ、周囲には白いパラソルと、横になれるデッキチェアが並んでいる。
だが……。
「…………」
開場初日。集まったパリの市民や貴族たちは、プールの縁に立ち、困惑した顔で水面を見つめるばかりで、誰一人として中に入ろうとしない。
「やっぱり、みんな怖がってるわね。無理もないわ。服を脱いで水に浸かるなんて、彼らにとっては裸で戦場に飛び込むようなものなんだから」
私が呟くと、隣に立っていたナポレオンが、鼻で笑った。
「所詮は無知な民衆です。私が手本を見せてやりましょう。兵法においても、指揮官が率先して困難に飛び込むのが定石ですからね」
ナポレオンは、いつもの軍服ではなく、ローズ・ベルタンが今回のためにデザインした『少年用・耐水性水着』に身を包んでいた。
彼は誇らしげに胸を張り、プールの縁に立ったが……。
「……ん? ナポレオン、どうしたの? 飛び込まないの?」
「……い、いや。水深を確認しているだけです。……意外と深いな、これ。私の顎あたりまであるのではないか?」
そう、「身長コンプレックス」を経て以来、ナポレオンは『深さ』に対して非常に敏感になっていた。
「大丈夫よ、ナポレオン! 子供用エリアは浅くしてあるから!」
「うるさい! 私はもう子供ではない!!」
ナポレオンが意地を張っていると、その後ろから「ドカドカッ!」という景気の良い足音が響いた。
「退きな! ちびっ子将軍!! 水遊びってのは、こうやるんだよォォッ!!」
市場の女リーダー・カトリーヌである。彼女は丸太のような腕を振り回し、特注の超巨大水着をたなびかせながら、猛烈な勢いでダッシュした。
ドッバァァァァァァァンッ!!!!!
プールの水が、爆発したかのような水しぶきを上げて中庭に飛び散った。
「「「う、うわああああああああっ!!?」」」
見物客たちが一斉に水を浴びて悲鳴を上げる。だが、水中に浮上したカトリーヌは、顔を拭って豪快に笑い飛ばした。
「ハハハハッ!! 気持ちいいぃぃぃっ!! お前ら、何ビビってんだ! 灼熱の地獄から、天国にワープした気分だぜ!!」
その一言が、全てのブレーキを破壊した。
「お、俺も行くぞ!!」
「アタイもだ!!」
労働者たちが次々とプールに飛び込み、続いて子供たちが、そして最後には暑さに耐えかねた貴族の若者たちまでもが、次々と水の中へと消えていった。
「「「うおおおおおっ!! 冷てぇ!! 最高だァァァッ!!」」」
静かだった中庭は、一瞬にして歓声と笑い声、そして巨大な水しぶきに包まれた。
「……ふふっ。大成功ね」
私は、パラソルの下でジョゼフを膝に乗せながら、平和なプールの光景を見渡した。
「パパー! じょじぇふも、ちゃぷちゃぷしゅる!」
「よしよし。ジョゼフ、浮き輪の空気圧は僕が完璧に調整しておいたからね」
ルイが、木とパラゴムを組み合わせて作った『手作りアヒルさん浮き輪』をジョゼフに装着し、浅瀬で優しく遊ばせている。
「マリー。認めざるを得ません。……この『水の中』という空間は、地上のあらゆる重圧を無効化し、人間に純粋な幼児性を回帰させる効果があるようです」
気がつくと、ナポレオンもプールに入り、コルク板で作ったビート板を使って、一生懸命にバタ足の練習をしていた。
「これでフランスの公衆衛生の概念は、一世紀分は前倒しされましたね。……そして、何よりこれを見てください」
ジャンヌが、手に持った算盤をパチパチと鳴らしながら、プールの脇にある「売店」を指差した。
そこでは、泳ぎ疲れて腹を空かせた人々が、長蛇の列を作っていた。
「本日の目玉メニュー、『冷やし肉ぶっかけうどん・レモン添え』ですわ! 冷水で締めた強烈なコシのうどんに、冷たい醤油出汁と、ナポレオンの身長を伸ばすために開発された小魚のレモンフリットをトッピングしたもの。……一杯五スーという強気な価格設定にもかかわらず、飛ぶように売れております。さらに……」
ジャンヌはニヤリと不敵に笑った。
「ルイ陛下にお願いして、冬の間に貯蔵しておいた氷を細かく削り、甜菜糖のシロップをかけた謎の菓子……王妃様が仰る『かき氷』。これも爆発的な利益を叩き出していますわ」
「うう……ジャンヌ、本当に容赦ないわね。でも、確かにこの暑さで食べる『冷やしうどん』と『かき氷』は、麻薬的な美味さだもの……」
私は、自分の分のかき氷を一口掬って口に運んだ。
キィィィィィィンッ!!
(……ああっ、脳天を突き抜けるこの冷たさ! これよ、これが夏なのよ!!)
見渡せば、労働者も貴族も、みんなが口の周りを赤いシロップだらけにしながら、かき氷をハフハフと食べて笑っている。
そこには身分の壁も、国債のプレッシャーも、革命の不穏な影も、一切存在しなかった。
「アントワネット」
ジョゼフを遊ばせ終えたルイが、濡れた髪を拭きながら私の隣に座った。
「僕ね、機械を作るのは大好きだけど、こうして君のアイデアで『みんなの笑顔』が見られる場所を作るのは、もっと好きかもしれない。……科学っていうのは、きっとこういう瞬間のためにあるんだね」
「ええ、ルイ。最高の夏休みよ」
マリー・アントワネット、25歳。
彼女は、18世紀フランスの「水への恐怖」を、一夏の「プールとジャンクフード」の快楽によって粉砕した。
国家の不満を「水」で洗い流し、フランスの胃袋を「氷」で冷やす。
運命のギロチンすら凍りつかせるような彼女の生存戦略は、今日も弾けるような水しぶきとともに、どこまでもハッピーに加速していくのであった。




