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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第107話 見えないインクの罠

 工場の中央管理室。

 労働者たちが八時間のシフトを終え、足早に退勤していく中、ただ一人、残業を申請して机に向かっている女性がいた。


 彼女の名前は、ジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミ。

 かつてフランス王室に連なる由緒正しきヴァロワ家の血を引いていると自称する、没落貴族の末裔である。


(……ふふっ。愚かな労働者ども。いくら王妃が甘やかそうと、底辺は底辺。汗水流して日銭を稼ぐことしか頭にない。……だが、私は違う。この高貴な血筋にふさわしい富と権力を、必ず私の手で取り戻してみせる!)


 ジャンヌは、美しいブロンドの髪を几帳面にまとめ、冷たいブルーの瞳で分厚い在庫管理台帳を睨みつけていた。


 彼女の指先は、まるで魔法のように羽根ペンを操り、数字の列を踊らせていく。

 第三生産ライン、スプリング靴底用の特殊鋼コイルスプリング、完成品五十個。そのうち三個を『熱処理時の亀裂発生により廃棄』として帳簿上で抹消。

 時計工房ライン、トゥールビヨン用真鍮歯車、完成品十個。うち一個を『研磨ミスによる規定サイズ未達で廃棄』と計上。


 実際には完璧な精度で仕上がっている部品を、彼女は堂々と『廃棄品』へと分類していくのだ。


(王妃マリー・アントワネット。平民に媚びを売る下品な女。……あの女が生み出した莫大な利益は、本来なら私のような由緒正しき貴族が享受すべきものよ。だから、私が少しばかり『上前』を撥ねてあげても、文句は言われないはずよね?)


 ジャンヌは、書類の処理を終えると、周囲に誰もいないことを確認し、管理室の奥にある『不良品保管箱』へと近づいた。

 彼女は懐から取り出した絹のハンカチで、廃棄箱の中に隠しておいた『本物の完成品』――コイルスプリングと歯車――をそっと包み込み、自分のドレスの深いポケットへと忍ばせた。


(プロイセンやイギリスの産業スパイどもは、このフランスの技術の結晶を喉から手が出るほど欲しがっている。……私が『王妃の極秘の資金作りのため、特別に横流ししてやっている』と耳打ちすれば、奴らは王妃の裏の顔を信じ込み、相場の倍の金貨を喜んで支払うわ。……なんてチョロいのかしら!)


 彼女の口元に、野心と金への執着に満ちた、妖艶で残酷な笑みが浮かんだ。


 史実において、王妃の偽の手紙を書き、枢機卿を騙して何百万リーブルものダイヤモンドの首飾りを巻き上げた希代の詐欺師。

 その天性の話術と、緻密な計画性、そして何より『数字と金に対する異常なまでの嗅覚』は、この工場という巨大なシステムの中でも、いかんなく発揮されていたのである。


 その頃、チュイルリー宮殿の国王専用工房では、私とルイ、そしてナポレオンとアーサーが、ジャンヌを現行犯で捕らえるための『罠』の最終調整に入っていた。


「……マリー。アーサーの諜報網からの報告によれば、ジャンヌは今夜、パリ市内の裏路地にある酒場で、外国の産業スパイと接触する予定です。彼女はまんまと部品を持ち出し、売り捌くつもりでしょう」


 ナポレオンが、懐中時計を見ながら状況を報告する。


「アーサー、スパイの素性は分かっているの?」


「はい、王妃様。イギリスの資本家連盟が放った残党と、プロイセン軍部の過激派が雇った裏社会のブローカーです。……ジャンヌは彼らに、『王妃マリー・アントワネットが、国王の目を盗んで秘密の裏金を作るため、私に部品の売却を命じた』と嘘を吹き込み、信用させているようです」


「……はぁ!? 私の裏金作り!?」


 私は思わず大声を上げた。


「私がどれだけ節約に命を懸けてると思ってるのよ! だいたい、私が本当に裏金を作るなら、もっと堂々と合法的に搾り取るわよ!!」


「その通りだ! アントワネットはそんなケチな小悪党じゃない!」

 ルイが何故か誇らしげに私を庇う。


(それはそれで少し複雑だが)


「『首飾り事件』と手口が全く同じね……。自分の利益のために、私の名前と権威を勝手に使って相手を騙す。相手も『あの王妃なら裏金を作りかねない』という偏見があるから、コロッと信じてしまうのよ」


 私はギリッと奥歯を噛み締めた。

 歴史の強制力は、ダイヤの首飾りがなくても、別の形で私に『濡れ衣』を着せようとしてくるのだ。


「絶対に許さないわ。彼女のその化けの皮をひん剥いてやる! ……ルイ、お願いしていた『アレ』の準備はできているわね?」


「もちろんだとも、アントワネット!」


 作業着姿のルイが、自信満々にドンッと二つのガラス瓶を机の上に置いた。

 一つの瓶には『無色透明の液体』が。もう一つの瓶には、スプレー式のノズルが取り付けられた『わずかに黄色がかった液体』が入っている。


「これは……?」

ナポレオンが訝しげに瓶を見つめる。


「フフフ。僕の化学の知識の集大成、『没食子酸鉄もっしょくしさんてつ反応』の応用だよ!」


 ルイは、ドヤ顔で黒板に化学式のようなものを書き始めた。


「この時代、公文書を書くためのインクは、木のコブに含まれる『タンニン酸』と、『硫酸鉄』を混ぜることで、真っ黒に発色させて作っている。……僕はこれを、別々の液体のまま利用することにしたんだ!」


 ルイは、無色透明の液体の入った瓶を持ち上げた。


「この透明な液体は『硫酸鉄の水溶液』だ。水のように無色透明で、金属部品に薄く塗って乾かせば、見た目には絶対に分からないし、匂いもない。……だが!」


 ルイは、その透明な液体を自分の手のひらに少しだけ塗り、乾くのを待った。見た目は全く普通の肌だ。


 そして、もう一つのスプレー付きの瓶を手に取った。


「このスプレーの中身は、『タンニン酸の水溶液』だ。これを、先ほど透明な液体を塗った場所に吹きかけると……」


 シュッ、シュッ。


 ルイが自分の手のひらにスプレーを吹きかけた瞬間。

 透明だったはずの彼の手のひらが、化学反応を起こし、一瞬にして『漆黒のインクのような真っ黒な色』に染まり上がったのだ!


「「「おおおっ!!」」」


「すげえ……! 手のひらに黒いインクが浮かび上がったぞ!」

 アーサーが感嘆の声を上げる。


「陛下。完璧な『不可視のマーキング・トラップ』ですね」

 ナポレオンも、オタク王の化学知識に舌を巻いた。


「そう! だから昨日、工場長に命じて、今日の生産ラインから上がってきた完成品の歯車とスプリングのすべてに、この『透明な硫酸鉄』をコーティングさせておいたのよ!」


 私は、扇子をバチンと鳴らして不敵に笑った。


「ジャンヌが不良品と偽ってその部品を素手で触り、ポケットに入れれば、彼女の手とドレスには見えない硫酸鉄がべっとりと付着する。そして、それを買い取るスパイの手にもね。……取引の現場に踏み込んで、この『タンニン酸スプレー』をぶっかけた瞬間、彼らの手は真っ黒に染まり、絶対に言い逃れができない『動かぬ証拠』となるわ!!」


「完璧な計画です、マリー。……さあ、ネズミ捕りの時間です。アーサー、部隊を率いて取引現場を完全に包囲しなさい。……一匹たりとも逃してはなりませんよ」


「イエス、ボス!」


 夜のとばりが下りたパリの裏路地。

 冷たい風が吹きすさぶ中、私たちはフードを深く被り、アーサー率いる精鋭の国民衛兵たちとともに、目標の酒場へと音もなく忍び寄っていった。


 酒場の薄暗い地下室。

 そこでは、ランプの微かな灯りの下、数人の外国の男たちと、豪奢なマントで身を包んだジャンヌが、緊迫した面持ちでテーブルを囲んでいた。


「……これが、要求されていた品よ。チュイルリー地下工場の心臓部、蒸気機関用特殊合金のギアと、サスペンションのコイルスプリング。寸法も材質も、完璧な本物よ」


 ジャンヌは、ハンカチに包んだ部品をテーブルの上に広げた。

 イギリスとプロイセンから放たれた産業スパイたちは、持参したルーペでその部品を食い入るように確認し、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「……間違いない。信じられない精度だ。これを本国に持ち帰り、合金の配合比率を解析できれば、我々もフランスと同等の機械を量産できる……!」


「当然でしょう。私が誰だと思っているの? 王妃マリー・アントワネットの最も信頼する『裏の腹心』よ。……王妃は、表面では『ホワイト企業』などと綺麗事を並べているけれど、裏では国庫の金を自分の宝石代にするため、私にこうして技術を横流しさせて金貨を作らせているのよ」


 ジャンヌは、さも可哀想な王妃の尻拭いをしているといった風情で、嘆息してみせた。


「あの頭の軽い王妃は、数字のことなど何も分かっていないわ。だからこそ、由緒正しきヴァロワの血を引く私が、こうして代わりに外交の裏取引を仕切って差し上げているのよ。……さあ、約束の金貨を渡しなさい」


 スパイの一人が、ずっしりと重い金貨の入った革袋をテーブルに押し出す。


「確かに。……しかし、マダム・ジャンヌ。あなたのその見事な手腕、フランスに仕えさせるには惜しい。もしよければ、この取引を機に、我々と共にイギリスへ……」


「そこまでよ、ネズミども!!」


 ドガァァァンッ!!


 地下室の木の扉が、アーサーの強烈な蹴りによって蝶番ごと吹き飛んだ。


「な、何者だ!?」


 スパイたちが慌てて立ち上がり、短銃を抜こうとするが、それよりも速く、国民衛兵のマスケット銃の銃口が一斉に彼らの眉間に突きつけられた。


「動くな! 全員、壁に手をつきなさい!」


 圧倒的な制圧力。

 私は、護衛の兵士たちをかき分け、フードをバサリと脱ぎ捨てて地下室へと足を踏み入れた。


「……王妃!? ま、マリー・アントワネット……!?」


 ジャンヌの顔から、血の気が引いた。

 彼女の計算外の事態。絶対にバレるはずのない完璧な帳簿操作が、なぜバレたのか。彼女の優秀な脳内がパニックを起こしているのが手に取るようにわかった。


「ご機嫌よう、ジャンヌ・ド・ヴァロワ。……随分と楽しそうなお茶会ね。私の名前を使って、随分と景気のいい『裏金作り』の妄想話に花を咲かせていたようだけど?」


 私が冷ややかに見下ろすと、ジャンヌは一瞬だけ唇を震わせたが、すぐに持ち前の「天才的な詐欺師の度胸」を取り戻し、堂々と胸を張った。


「……何のことでしょうか、王妃殿下。私はただ、工場の不良品として廃棄された鉄屑を、こちらの外国の殿方たちが『どうしても骨董品として譲ってほしい』と仰るので、親切に差し上げていただけですわ。帳簿の記録も、すべて適正に処理されております。……私を横領で捕らえるというなら、その『証拠』をお見せなさい!」


 ジャンヌの言葉に、スパイたちもハッとして同調する。


「そ、そうだ! 我々はただの美術商だ! 落ちていたゴミを拾っただけで、何が罪になる!」


「不良品だというなら、それはただの鉄屑だ! 我々が何をしようと勝手だろう!」


 彼らは強気に言い張った。

 確かに、帳簿上は「廃棄された不良品」であり、彼女が盗んだという直接の証拠はない。裁判になれば、彼女の卓越した話術で証拠不十分として無罪を勝ち取る算段なのだろう。


 だが、私は扇子を口元に当て、冷酷な笑みを深めた。


「……証拠? ええ、あるわよ。あなたの手と、その男たちの薄汚い手に、ハッキリと刻まれているわ」


「は……? 何を馬鹿な……」


 ジャンヌが自分の手のひらを見下ろした、その瞬間。


「ルイ! 今よ!」


「くらえッ! 科学の鉄槌!!」


 背後に控えていたルイが、両手に持った『タンニン酸溶液入り・特製真鍮スプレー』を、ジャンヌとスパイたちの手元に向けて、シュッシュッシュッ! と猛烈な勢いで噴射した。


 微細なミストが、彼らの手に降り注ぐ。


「な、なんだこの水は!? 目潰しか!」


 スパイたちが顔を庇うが、すでに遅い。

 透明な液体の雨を浴びた彼らの手のひら、そして部品をポケットに入れていたジャンヌのドレスの生地が――。


 ジュワァァァァッ……!!


 硫酸鉄とタンニン酸が激しく化学反応を起こし、『漆黒のインク』のように真っ黒に染まり上がったのだ!


「ひっ!? な、なんだこれは!! 手が……手が真っ黒に!!」


 スパイたちが悲鳴を上げて自分の手を擦るが、化学反応で染み付いた没食子酸鉄の黒色は、そう簡単には落ちない。


「い、いやぁぁぁぁっ!! 私の、私の手が……ドレスが……!!」


 ジャンヌもまた、真っ黒に染まった自分の両手と、部品を隠し持っていたポケット周りの黒い染みを見て、腰から崩れ落ちた。


「これが動かぬ証拠よ、ジャンヌ」


 私は、真っ黒に染まったテーブルの上の歯車を指差した。


「昨日、工場の生産ラインから上がってきた完成品にはすべて、目に見えない『硫酸鉄』のコーティングを施しておいたの。あなたが不良品だと偽って素手で触り、持ち出した部品……その見えない足跡が、今、科学の力で可視化されたのよ!」


「か、科学の……力……! そんな、そんな馬鹿な……! 私の完璧な計算が、こんな得体の知れない水鉄砲一つで……!!」


 天才詐欺師のプライドは、18世紀のオタク王が放った『見えないインクの化学トラップ』の前に、完膚なきまでに打ち砕かれたのである。


「アーサー、スパイどもを連行しなさい。国際問題として、イギリスとプロイセンにたっぷりと賠償金を請求してやるわ」


「イエス、ボス!」


 絶望して項垂れるスパイたちが連行されていく中。

 私は、真っ黒になった手を見つめて震えているジャンヌの前に、ゆっくりと歩み寄った。


「……殺しなさいよ」


 ジャンヌは、顔を上げ、憎悪と諦めが入り混じった瞳で私を睨んだ。


「どうせ、私のような没落貴族が、王妃様の美しい工場を汚した罪で、ギロチンにかけられるんでしょう? ……いいわよ。貧乏のどん底で泥水をすするくらいなら、一思いに首を撥ねて頂戴!」


 彼女の言葉は、強がりでありながら、その奥底には社会に対する深い絶望が横たわっていた。

 ヴァロワ家の血を引きながら、極貧の幼少期を過ごし、這い上がるためには嘘も泥棒も厭わなかった彼女の人生。その「金と数字への異常なまでの執着」は、生きるための彼女なりのサバイバルだったのだ。


(……史実では、私を破滅の淵に追い込んだ最悪の女。でも、今の彼女は……)


「誰が殺すと言ったかしら?」


 私が静かに告げると、ジャンヌはハッとして顔を上げた。


「え?」


「あなたがやったことは、国家反逆罪に等しい重罪よ。普通なら、バスティーユ牢獄行きどころじゃ済まないわ」


 私は、彼女の目の前でしゃがみ込み、その真っ黒に染まった手を、自分の手でガシッと力強く握りしめた。


「……王妃様!?」


「でもね、ジャンヌ。私はあなたのその『才能』を、このまま牢屋の中で腐らせるなんて、もったいなくて絶対にできないわ」


「才能……? 私の、詐欺の才能ですか?」


「違うわ! あなたのその『狂気的なまでの数字の管理能力』と、『一ミリの隙もない完璧な帳簿操作のスキル』よ!」


 私は、目を丸くするジャンヌに向かって、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。


「ネッケルが去った今、フランスの財務部門は、優秀な官僚が不足しているの。……ジャンヌ・ド・ヴァロワ。あなた、明日から『財務省の特別監査局長』として働きなさい!」


「……はぁっ!?」


 ジャンヌは、理解が追いつかずに素っ頓狂な声を上げた。

 後ろで見ていたルイとナポレオンも、「マリー、本気ですか!?」と息を呑んでいる。


「あなたのその異常な金への執着心と、他人の嘘を見抜く嗅覚。それを、他国の銀行家や、税金をごまかそうとする強欲な商人たちから『合法的に税金をむしり取る』ために全振りしなさい!」


「わ、私に、国の金を管理させると!? 冗談でしょう! また私が裏で着服したらどうするんです!」


「させないわよ。……だって、あなたの上司は彼だから」


 私が指差した先には、分厚いファイルを持ち、氷のように冷たく、一切の不正を許さない漆黒の瞳を持ったナポレオン・ボナパルトが立っていた。


「……ご安心を、マダム・ジャンヌ。あなたの作成した帳簿は、すべてこの私が毎日一リーブルの誤差も逃さずトリプルチェックします。もし少しでも不正があれば……その時は、サウナの薪割り労働を一生やっていただきますからね」


 ナポレオンの絶対零度のプレッシャーに、希代の詐欺師であるジャンヌすら「ヒィッ」と小さな悲鳴を上げて後ずさった。


「……ふふっ。ジャンヌ、あなたにはこれから、フランスの借金を全額回収するまで、死ぬほどホワイトに、そして死ぬほど厳密に働いてもらうわ。……よろしくね、私の新しい『金庫番』さん!」


 マリー・アントワネット、25歳。

 史実最大の汚点となるはずだった「首飾り事件」の首謀者を、化学の罠で完璧に論破し、あろうことかその異常な才能を『国家の財務長官』として強制的にスカウトすることに成功したのである。


 毒を以て毒を制す。

 フランスの経済は、この最凶の「数字の魔女」の加入により、さらに恐るべきスピードで黒字化への道を爆走し始めるのであった。

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