第106話 泥だらけの甘味と、消える精密部品
パリ北東部、見渡す限り広がる平原地帯。
かつては小麦の不作で荒れ果て、冷たい風が吹きすさぶだけだったその大地は今、インディゴブルーの『特製スクール・サロペット』に身を包んだ何百人もの子供たちの、元気な歓声に包まれていた。
「そーれ、引っ張れー!!」
「うわっ、すっげぇデカいぞ! カブのお化けみたいだ!!」
『王立・基礎教育アカデミー』のカリキュラムの一環である農業体験学習。
子供たちが泥だらけになりながら、畑から力いっぱい引き抜いているのは、赤紫色や白色をしたゴツゴツとした巨大な根菜――ナポレオンが前世の記憶から導入を指示した『甜菜』である。
「みんな、根っこを傷つけないように気をつけてね! その不格好な泥の塊の中に、あなたたちが待ち望んでいた『甘いケーキ』の素がたっぷり詰まっているんだから!」
私もサロペットの袖をまくり上げ、子供たちと一緒に泥にまみれて甜菜を引き抜いていた。
サトウキビが育たないフランスの寒冷な気候でも、この甜菜は見事に根を張り、大地の栄養を極上の『ショ糖』として内部に蓄え込んでくれたのだ。
「王妃様! こんな根っこから、本当にあの白くて甘い『お砂糖』ができるんですか!?」
一人の男の子が、自分の顔ほどもある巨大な甜菜を掲げながら、信じられないという顔で聞いてきた。
「ええ、もちろんよ! でも、ただかじっても甘い大根みたいな味しかしないわ。ここから先は、ルイ先生の『科学の魔法』の出番よ!」
私がウインクをすると、畑の端に設営された巨大なテントの中から、シュゴォォォン!というけたたましい蒸気の音が響いた。
「さあ、未来のエンジニアたち! 収穫した甜菜を、こっちのベルトコンベアに乗せるんだ!」
白衣の代わりに革エプロンを身につけた「ルイ先生」が、メガホン片手に子供たちを誘導する。
テントの中に鎮座していたのは、ルイがこの日のためにチュイルリーの地下工房で徹夜で組み上げた『糖分抽出プラント』である。
「いいかい、みんな! まず、この『回転式スライサー』で甜菜をポテトチップスのように細かく裁断する! 表面積を増やすことで、細胞壁の中にある糖分を水に溶け出させやすくするんだ!」
ルイがレバーを引くと、蒸気機関の動力が歯車に伝わり、巨大な刃が猛烈な勢いで甜菜を千切りにしていく。
「次に、その千切りにした甜菜を温水に浸して、糖分だけを抽出した『糖液』を作る! しかし、この液体にはまだ土の不純物やエグみが混ざっている。そこで登場するのが『石灰乳』と『炭酸ガス』だ! これを混ぜて不純物を沈殿・濾過させる化学反応を起こすんだよ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
濁っていた液体が、フィルターを通るたびに透明な琥珀色へと変わっていく様に、子供たちは目を輝かせて歓声を上げた。
「そして最後にして最大の難関! この糖液を煮詰めて水分を飛ばすんだが、普通の鍋でグツグツ煮込むと、熱で糖が焦げて苦いキャラメルになってしまう!」
ルイは、ドヤ顔でプラントの最後尾にある、巨大な密閉された銅製の釜をバンッと叩いた。
「そこで、僕が設計したこの『真空蒸発缶』の出番さ! 釜の中の空気を抜いて気圧を限界まで下げることで、なんと水が『低い温度』で沸騰するようになる! これなら、糖分を一切焦がすことなく、純白の結晶だけを取り出すことができるんだ!!」
(……出たわね! 減圧沸騰の原理を利用した真空蒸発缶! 19世紀の製糖工場で使われるはずのオーバースペック技術を、理科の実験感覚で再現しちゃったわ!!)
数時間後。
遠心分離機にかけられ、最後に残ったのは――サラサラとした、雪のように純白で美しい『砂糖の結晶』だった。
「完成したよ、アントワネット! フランスの大地と科学が生み出した、完全国産の『純白の甘味』だ!」
ルイが、銀のスプーンですくった砂糖を私と子供たちの前に差し出した。
子供たちが恐る恐るその白い粉を指につけ、口へ運ぶ。
「……あ、甘ぁぁぁぁぁいっ!!!」
「すげえ! 魔法だ! 」
これまで、貴族の食べる高級な焼き菓子でしか味わえなかった「純粋な甘味」が、自分たちの手と大地の力によって生み出された。その感動に、子供たちは飛び跳ねて喜んだ。
「よくやったわ、みんな! これからは、給食の林檎のコンポートも、ご褒美のおからクッキーも、このお砂糖でたっぷりと甘くしてあげるからね!」
私が宣言すると、畑は割れんばかりの歓声に包まれた。
「……完璧です。これで、イギリスやスペインが支配する熱帯植民地のサトウキビ農園に依存せずとも、フランスは自給自足で甘味を無限に量産できる。……マリー、あなたはまた一つ、大国から『経済的交渉のカード』をもぎ取りましたね」
傍らで、ナポレオンが、純白の砂糖をルーペで観察しながら不敵に笑った。
これで、給食の満足度は限界突破し、子供たちの学習意欲も爆上がりするだろう。国家の基礎体力を底上げする「義務教育」と「食育」のピースが嵌ったのだ。
――しかし。
私たちが「甘き革命」の成功に酔いしれ、意気揚々とチュイルリー宮殿へ帰還したその日の夜。
宮殿の地下から、冷え切った絶望の報告が舞い込んできたのである。
「……異常事態です、王妃様、陛下」
執務室に足を踏み入れたナポレオンの顔には、いつもの余裕はなく、氷のように冷たく、険しい怒りが張り付いていた。
彼の手には、分厚い工場の『在庫管理台帳』が握られている。
「ナポレオン? どうしたの、そんなに怖い顔をして。まさか、またどこかの国が関税をかけてきたの?」
私が尋ねると、彼は台帳を机にドンッと叩きつけた。
「外部からの攻撃ではありません。……『内部』です。我がチュイルリー地下工場の心臓部が、見えない白蟻に食い荒らされています」
「内部って……ストライキ!? でも、みんな給料とサウナで満足してくれているはずじゃ……」
「労働争議ではありません。『横領』です」
ナポレオンの冷徹な言葉に、私とルイは息を呑んだ。
「ここ一ヶ月の、生産ラインの部品在庫を徹底的に再監査しました。……結果、完成品に組み込まれる前の『極めて高価で精密な部品』が、継続的に、かつ大量に消失していることが判明したのです」
ナポレオンは、台帳の数字を指差した。
「消えているのは、ただの鉄屑ではありません。陛下が徹夜で削り出した『トゥールビヨン懐中時計用の真鍮製・極小歯車』。ベビーカーのサスペンションに使われる『特殊鋼のコイルスプリング』。そして、ラジエーター用の『高純度銅管』。……これらはすべて、我が工場の『最高機密』であり、他国が喉から手が出るほど欲しがっているテクノロジーの結晶です」
「な、なんだって!?」
ルイがガタッと椅子から立ち上がった。
「僕が調整した歯車が盗まれている!? もしそれがイギリスやプロイセンの産業スパイの手に渡れば、分解して構造を解析されて、僕たちの規格化技術がコピーされてしまうぞ!!」
「その通りです、陛下。これは単なる窃盗事件ではない。国家の根幹を揺るがす『産業スパイによる機密漏洩』です」
私は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
私たちは、労働者たちを信頼し、「ホワイト企業」として彼らを家族のように扱ってきた。だが、その信頼の隙を突き、あろうことかこの宮殿の地下から、最高機密の部品を堂々と外へ持ち出している裏切り者がいるというのだ。
「でも、ナポレオン。地下工場の出入り口は、アーサー率いる元スパイの物流チームが厳重にチェックしているはずよ。金属探知機こそないけれど、そんな大量の真鍮や銅管をポケットに隠して持ち出せるわけがないわ!」
「ええ。物理的に持ち出すのは不可能です。……『正規のルート』を通れば、ですが」
ナポレオンは、台帳のページをパラパラと捲り、ある特定の項目を指で叩いた。
「王妃様。犯人は、極めて巧妙で、数字の扱いに異常なほど長けた人物です。……この台帳を見てください」
私が覗き込むと、そこには各ラインの生産数と、材料の消費量がびっしりと書き込まれていた。
「……数字の辻褄は、完璧に合っているわ。部品の数が減っているようには見えないけれど?」
「そこが罠なのです。犯人は、部品を盗む前に『不良品による廃棄処理』の書類を偽造しているのです。……旋盤の誤差や、材質の不具合を装い、完璧に仕上がった極秘部品を『廃棄ボックス』へと書類上スライドさせている。そして、廃材として工場外のゴミ捨て場へ運び出されるルートを使って、堂々と検問をすり抜けているのです」
「……不良品を装って、廃材ルートから横流ししている!?」
私は驚愕した。
「つまり、犯人は工場のシステム全体を把握し、在庫管理の台帳に自由にアクセスできる権限を持った『管理部門』の人間ということだね……」
ルイが、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「その通りです」
ナポレオンは、冷たい瞳で台帳のサイン欄を見つめた。
「私はアーサーの諜報網を使い、この一ヶ月間で『不良品廃棄』の承認サインを出したシフトと、管理部門の事務員の出勤記録を照らし合わせました。……結果、すべての不正な廃棄処理が行われた日時に、必ず『ある一人の女性事務員』が勤務していたことが判明しました」
「女性の……事務員?」
「ええ。最近、没落した地方貴族の末裔だと名乗り、読み書きと計算が完璧にできるということで、工場の中央管理室に採用された女です。……手元の作業は一切せず、ひたすら数字の計算と書類の整理だけを請け負っている」
ナポレオンが、その事務員の名前が書かれた雇用契約書を机の上に置いた。
「彼女の名前は、ジャンヌ。……ジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミと名乗っています」
「――ッ!!!」
その名前を聞いた瞬間、私の心臓が、まるで鷲掴みにされたように激しく跳ね上がった。
ジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミ。
歴史に詳しい現代人なら、絶対に忘れることのない名前。
史実において、フランス王妃マリー・アントワネットの評判を地の底へと叩き落とし、革命の決定的な引き金の一つとなった前代未聞の特大詐欺事件……『首飾り事件』の首謀者。
(……なんでよ! 私は無駄遣いをやめて、あんな何百万リーブルもする『重くて肩がこりそうなダイヤモンドの首飾り』なんて絶対に買わないし、そもそも宝石商を宮殿に出入りすらさせていないのに!!)
歴史の強制力というやつか。
ダイヤの首飾りが存在しないこの世界線で、彼女はなんと「ホワイト工場の優秀な事務員」として潜り込み、あろうことかダイヤよりも価値のある『フランスの産業革命の心臓部』を盗み出すという、とんでもない産業スパイへとジョブチェンジを果たしていたのだ。
「……ジャンヌ。没落貴族の血筋を笠に着て、金への異常な執着を持つ女……」
私がうわ言のように呟くと、ナポレオンが訝しげに眉をひそめた。
「王妃様、彼女をご存知で?」
「……いいえ。でも、その女がどれほど狡猾で、言葉巧みに人を騙す天性の詐欺師かということは、想像がつくわ」
私は、震える手を強く握りしめ、自分を奮い立たせた。
史実の私は、彼女の詐欺に巻き込まれ、無実の罪を着せられて民衆の憎悪の的となった。
だが、今の私は違う。ただの世間知らずのお姫様ではない。
泥にまみれ、サウナで汗を流し、大国の資本家たちを経済の力でねじ伏せてきた「最強のホワイト企業経営者」だ。
「……ナポレオン。ルイ。彼女を今すぐ捕らえて尋問するのは簡単よ。でも、それじゃダメ。彼女の背後にいる『部品の買い手』――つまり、我が国の機密を買い取ろうとしている外国の産業スパイの元締めごと、一網打尽にしなければ意味がないわ」
「その通りです。だからこそ、私はまだ彼女を泳がせています。……王妃様、何か策が?」
「ええ」
私は、不敵な笑みを浮かべ、扇子をバチンと開いた。
「ダイヤの首飾りならぬ、『真鍮の歯車事件』。……彼女がどれだけ巧妙に数字を誤魔化そうと、私がこの手で、現行犯でその化けの皮をひん剥いてやるわ!ルイ! 廃材ボックスに、あなた特製の『絶対に逃れられない罠』を仕掛けるわよ!!」
マリー・アントワネット、25歳。
史実最大の汚名とスキャンダルの元凶である「ジャンヌ」との直接対決。
暴力と、緻密なロジックが交差する、暗闇の工場ミステリーの幕が、今まさに上がろうとしていたのである。




