第105話 開校! 基礎教育アカデミー
チュイルリー宮殿に隣接する広大な敷地に、真新しいレンガとガラスで建てられた巨大な施設。
その門前には、朝早くから信じられないほどの人だかりができていた。
「しっかり先生の言うことを聞くんだよ!」
親たちが我が子の背中を叩き、あるいは涙ぐみながら見送っている。
集まってきたのは、パリの街角を裸足で走り回っていた平民の子供たちだ。彼らは今、私がベルタンにデザインさせた「インディゴブルーの特製スクール・サロペット」に身を包み、少し緊張した面持ちで真新しい校門をくぐろうとしていた。
今日は、フランス史上初となる身分不問の完全無料義務教育施設、『フランス王立・基礎教育アカデミー』の記念すべき開校日である。
「みんな、おはよう!!」
私がバルコニーからメガホンで呼びかけると、何千人という子供たちが一斉に顔を上げた。
「今日からこの学校は、あなたたちのお城よ! ここで文字を読み、数字を計算し、世界の不思議を学ぶの! 誰にも奪われない『知識』という最強の武器を、その頭と体にたっぷりと詰め込んでいきなさい!」
「「「わぁぁぁぁぁっ!! 王妃様、おはようございます!!」」」
子供たちの元気な声が、パリの青空に響き渡る。
これまで「平民の子供は労働力」としか見なされていなかった社会で、彼らが机に向かって学ぶ機会を得たのだ。親たちも最初は「仕事の手伝いをさせたい」と渋っていたが、「毎日昼食が無料で食べられる」という圧倒的な福利厚生の前に、喜んで子供を送り出すようになった。
午前中の授業が始まった。
私は校舎の廊下を歩きながら、各教室の様子を見て回った。
国語の教室では、修道院や失業中の知識層から集められた教師たちが、黒板にアルファベットを書き、子供たちに大きな声で復唱させている。
「AはアプリコットのA! BはビスケットのB!」
食べ物に結びつけた覚え方は、食いしん坊な彼らに効果てきめんだ。
算数の教室では、木製のそろばんや、小さな木の実を使って足し算と引き算の基礎を教えている。市場で親の手伝いをしていた子供たちは、お金の計算となると驚異的な集中力を発揮し、「これなら工場の歩合給もごまかされないぞ!」と目を輝かせていた。
そして、ひときわ異常な熱気を放っていたのが、ルイ16世が自ら教壇に立つ『理科』の教室だった。
「さあ、みんな見てごらん! このフラスコに入った水をアルコールランプで熱すると、水は『蒸気』に変わる! その蒸気の体積は、元の水の千七百倍にも膨れ上がるんだ! この圧倒的な膨張力こそが、チュイルリーの工場を動かしている高圧蒸気機関の秘密さ!!」
ルイは白衣を羽織り、髪を振り乱しながら、教卓の上でガラス管と真鍮のピストンを組み合わせたミニチュアの蒸気機関を稼働させていた。
シュゴォォォン! ポッポー!
小さな煙突から勢いよく蒸気が吹き出し、ミニチュアの車輪が猛烈な勢いで回転し始める。
「「「うおおおおおっ!! すげえええ!!」」」
「水がお湯になるだけで、あんな重い鉄の車輪が回るのか!?」
子供たちは目を皿のようにして身を乗り出し、食い入るように実験を見つめている。
「その通り! 魔法じゃない、これは『物理』だ! 世界は目に見えないルールで動いている。そのルールを知れば、君たちだって空を飛ぶ船や、無限に動く機械を作れるんだよ!!」
オタク王の熱弁は、子供たちの好奇心の導火線に完璧に火をつけていた。
国王という雲の上の存在が、自分たちと同じ目線で、目をキラキラさせながら科学の面白さを語ってくれる。これほど贅沢で、刺激的な教育が他にあるだろうか。
(……最高よ、ルイ。あなたのその熱意が、数年後のフランスに何百人もの天才エンジニアを生み出す種になるのね)
私は満足げに頷き、次の教室――いや、広々とした中庭へと向かった。
そこでは、私の担当する『体育』の時間が始まろうとしていた。
「はい、みんな広がって! 隣の子とぶつからないようにね! 今日は、体を柔らかくして怪我を防ぐ『基礎柔軟・ベルサイユ体操』をやるわよ!」
私はサロペット姿で壇上に立ち、お手本を見せた。
「大きく息を吸って、腕を上に! 肺の奥まで新鮮な空気を入れるのよ! はい、吐きながら前屈! 膝の裏をしっかり伸ばして、血流を脳みそまでガンガン巡らせるの!」
子供たちは見よう見まねで一生懸命に体を動かす。
当時の平民の子供たちは、幼い頃から過酷な姿勢での労働を強いられ、骨格が歪んでいたり、栄養不足で筋肉が固まっていたりすることが多かった。
だからこそ、無理な筋トレではなく、関節の可動域を広げ、全身の血行を良くする体操が不可欠なのだ。
「いっち、にー! さん、しー!」
元気な掛け声が中庭に響き渡る。
頭を使い、体を動かせば、当然お腹が空く。
正午の鐘が鳴ると同時に、アカデミー全体が地響きのような歓声に包まれた。
「「「給食だぁぁぁぁぁっ!!!」」」
大食堂に駆け込んできた子供たちの前に、ズラリと並べられたのは、王室の厨房が総力を挙げて作り上げた『完全栄養・給食メニュー』である。
本日のメインは、豆類とたっぷりの季節野菜を鶏のブイヨンで長時間煮出した、とろりと濃厚な『大地の恵みのスープ』
そして、じゃがいもを練り込んだモチモチの生地に、細切りにした豚肉とキャベツを甘辛く炒めて挟み込んだ、ボリューム満点の『ポテトドッグ』
「うわっ、パンがモチモチだ! 中の肉も甘辛くて最高!」
「野菜スープなのに、すごくコクがある! これならいくらでも飲めるぞ!」
その光景を、私は厨房の入り口からエプロン姿で誇らしげに見守っていた。
だが、食事の終盤に差し掛かった頃、一人の小さな女の子が、空になったお皿を見つめながらポツリと呟いた。
「王妃様……ご飯、とっても美味しかったです。でも、あの……」
「どうしたの? お腹いっぱいにならなかった?」
「ううん。あのね、デザートの林檎のコンポート、もう少しだけ……『甘く』ならないかなって。酸っぱくて、ちょっとお口がキュウッてなっちゃうの」
その言葉に、周りの子供たちも「俺ももっと甘いのが食べたい!」「ケーキみたいなお菓子がいいな!」と無邪気に声を上げ始めた。
「……甘いもの、ね」
私は苦笑いを浮かべながら、子供たちの頭を撫でてその場を濁した。
――その日の夕方。チュイルリー宮殿の執務室。
「……というわけで、子供たちがもっと『甘いデザート』を欲しがっているのよ。でも、今の給食の予算じゃ、これ以上甘味を増やすのは厳しいのよね」
私が大きなため息をついて椅子に深く腰掛けると、書類の束から顔を上げたナポレオンが、ピシャリと冷酷な現実を突きつけてきた。
「当然です。現在のフランスにおいて、純粋な『砂糖』は、金や銀に匹敵するほどの超高級な輸入品です。西インド諸島などの熱帯の植民地で、過酷な奴隷労働によって生産され、莫大な関税と輸送費をかけられて海を渡ってくる。……そんなものを何千人という平民の子供の給食に毎日出せば、国庫の教育予算など吹き飛びます」
「分かっているわよ。だから、フルーツの自然な甘みやハチミツで代用しているんじゃない。でも、子供の脳の疲労を回復させるには、もう少しダイレクトな『糖分』が必要なのよね。……それに、私自身もたまには、甘い甘いケーキを罪悪感なくドカ食いしたいし……」
私が本音をポロリと漏らすと、ナポレオンはフッと短く息を吐き、羽ペンをインク壺に置いた。
「……マリー。あなたはなぜ、砂糖を『輸入』しなければならないと思い込んでいるのです?」
「え?」
「高い関税を払って海の外から買うから、砂糖は金に等しい高級品なのです。……ならば、このフランスの冷たい土で、我々自身の手で『砂糖』を作ればいい」
神童の言葉に、私は目を瞬かせた。
「ナポレオン、あなた疲れてるの? サトウキビは熱帯の強い日差しと高温多湿な環境でしか育たないわ。この冬の寒さが厳しいフランスで、サトウキビを栽培するなんて不可能よ」
「ええ、サトウキビなら不可能です」
ナポレオンは、立ち上がって巨大なヨーロッパ地図の前に歩み寄り、フランスの北部からドイツにかけての冷涼な平原地帯を指差した。
「私が言っているのは、サトウキビではありません。……私が前世で、イギリスの大陸封鎖令に対抗するため、フランスの自給自足を絶対条件として国家主導で栽培を奨励した『ある根菜』のことです」
ナポレオンの瞳の奥に、かつての「フランス帝国皇帝」としての、圧倒的な国家戦略の記憶が燃え上がった。
「……寒冷な気候を好み、土の奥深くに極上の『糖分』を蓄える奇跡の植物。……『シュガービート』です」
「シュガー……ビート!?」
私はガタッと立ち上がった。
前世の現代日本でも、北海道などで大規模に栽培され、日本の砂糖の大部分をまかなっている、あの「甜菜」のことだ。
「待って! 確かに甜菜から砂糖が作れるのは知っているわ。でも、史実でそれが実用化されて普及するのは、もっとずっと先……まさにあなたの時代に入ってからじゃないの!?」
「その通りです」
ナポレオンは不敵に笑った。
「史実では、ドイツの化学者マルクグラーフがビーツからショ糖の結晶を取り出すことに成功したのが1747年。しかし、それを工場規模で大量生産する技術が未熟だったため、長らく実用化されていませんでした。……私が前世で莫大な懸賞金をかけ、精製工場を乱立させるまでは」
ナポレオンは、机の上に置かれていた白紙の羊皮紙を引き寄せた。
「ですが、今の私たちには『私の前世の記憶』と、『陛下の高圧蒸気機関と精密な機械技術』があります。……本来なら数十年後に起きる『甘味の革命』を、今、この1780年代のフランスで強制的に前倒しするのです」
ナポレオンの言葉に、私の心臓が早鐘のように鳴り始めた。
もし、フランス国内で砂糖を安価に大量生産できるようになれば。
それは単に「給食のデザートが甘くなる」という次元の話ではない。
これまで王侯貴族しか口にできなかった「砂糖」という特権を、平民の食卓へと解放する。
甘いお菓子が、労働者の疲労を癒し、子供たちの笑顔を作る当たり前のインフラになる。
そして何より、イギリスなどの植民地支配による「奴隷労働の砂糖」に依存しない、人道的な甘味の供給源を世界に示すことができるのだ。
「……やるわ、ナポレオン。やりましょう!」
私は拳を力強く握りしめた。
「ルイを呼んで! 甜菜から糖分を絞り出し、煮詰めて結晶化させるための『超大型・高圧プレス機』と『真空蒸発缶』の設計を急がせるわ!
私はすぐに、農業アカデミーの卒業生たちを動員して、フランス北部の休耕地に甜菜の種を一斉に作付けさせる!」
「承知しました。栽培から精製、そして流通までの完全な『シュガー・サプライチェーン』を構築します。……これぞまさに、血を流さない『甘き革命』の始まりです」
神童と、スイーツオタクの王妃が、固く握手を交わした。
マリー・アントワネット、25歳。
教育の現場から生まれた子供たちの「もっと甘いものが食べたい」という無邪気な願いは、ナポレオンの前世の記憶と結びつき、世界史の食文化を根底からひっくり返す『砂糖の民主化プロジェクト』へと、猛烈な勢いで舵を切ったのである。
しかし。
私たちが輝かしい未来の味覚に向けて突き進んでいたその裏側で、チュイルリー宮殿の地下工場に、ある「不気味な影」が忍び寄りつつあった。
「……ふふっ。馬鹿な王族と成金ども。いくら工場で富を生み出そうと、管理の隙を突けば、黄金なんていくらでも私のポケットにこぼれ落ちてくるというのに……」
工場の薄暗い資材置き場で、高級な真鍮の部品を懐に忍ばせる、一人の女の影。
彼女の暗躍が、のちにフランスを揺るがす「巨大なミステリー」の幕開けとなることを、この時の私たちはまだ知る由もなかった。




