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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第104話 読み書きの魔法

 1781年、春。

 チュイルリー宮殿には、これまでにないほど安定した活気と平和が訪れていた。


 絶望的な国家の借金は、コントロール可能な数字へと縮小していた。


 宮殿に広がる『王立巨大工場』は、今日も高圧蒸気機関の力強い重低音を響かせ、フル稼働を続けている。


 パリの街からは、飢えた浮浪者や暴動の気配は消え去り、市民たちは私が定めた「一日八時間労働・完全週休二日制」を謳歌し、極めて健康的なルーティンを確立していた。


 まさに、我がフランスは「筋肉と健康のユートピア」として、世界の頂点に君臨しつつあったのだ。


 ……しかし。

 歴史というものは、一つの壁を越えれば、必ず次の、壁を用意して待ち構えているものらしい。


「……ダメです。これでは規格に合いません。この歯車の直径は指定より二ミリも大きい。使い物にならない鉄屑です」


 ある日の午後、工場。

 第二生産ラインの検品所に、最高執行責任者ナポレオンの氷のように冷たい声が響き渡った。


「ひっ……! 申し訳ねえ、ナポレオンの坊っちゃん……じゃなくて、長官殿! 俺ぁてっきり、いつもと同じサイズで削ればいいのかと……」


 屈強な体格をした石工上がりの労働者が、巨体を縮こまらせて平謝りしている。彼の足元には、規格外となって弾かれた真鍮の歯車がいくつも転がっていた。


「昨日、新型の『高効率型洗濯脱水機』の図面と、寸法変更の指示書を各ラインに配布したはずです。あなたはあの指示書を読んでいなかったのですか?」


 ナポレオンが、容赦のない言葉を投げつける。


「指示書……ああ、あの紙切れですか。いや、その……俺たち、配られた紙を見ても、そこに書かれてる細かい数字や文字の並びが、どうにもチンプンカンプンでして……」


 労働者は、油まみれの手で後頭部を掻きながら、ひどくバツの悪そうな顔をした。


「文字が読めない……? ならば、なぜ周りの者に聞かなかったのですか。分からないまま勘で機械を動かせば、材料の無駄になるだけでなく、重大な事故に繋がるのですよ」


「面目ねぇ……。でも、同じ班の連中も、誰も文字なんて読めやしねえんです。だから、いつも通り『大体これくらいだろう』って、感覚で削っちまって……」


 そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた私は、ハッとして息を呑んだ。


 そうか。

 私は、前世の現代日本での「当たり前」を、無意識のうちにこの18世紀のフランスに当てはめてしまっていたのだ。


 現代の日本では、工場のマニュアルや作業指示書は「誰もが読めて当たり前」のものだ。

 しかし、ここは1780年代のヨーロッパ。特権階級である貴族や、一部の裕福なブルジョワを除き、一般的な平民や農民、日雇い労働者たちのほとんどは、文字の読み書きができない「非識字者」なのだ。簡単な足し算や引き算はできても、複雑な計算や、ミリ単位の設計図の数字を読み取ることなど、彼らにとっては外国語を解読するのと同じくらい不可能なミッションだったのである。


(……いけない。これまでの単純な作業なら、見よう見まねの勘でどうにかなっていたわ。でも、ルイが次々と開発する最先端の蒸気機関や、精密な歯車を組み合わせた製品を量産していくためには……労働者たちの『基礎的な学力』が絶対に必要になってくる!)


 私は、メガホンを置いて足早にナポレオンと労働者の間へ割って入った。


「ナポレオン、彼を責めないで。文字が読めないのは、彼の怠慢じゃなくて、この国のシステムのせいよ」


「マリー。しかし、このままでは工場の不良品率は上がる一方です。高度な機械を作るためには、高度な理解力が求められます。……彼らの脳は、まだ中世のまま止まっているのですよ」


 ナポレオンは、容赦なく、しかし極めて的確な現状分析を下した。


「ええ、分かっているわ。……だからこそ、次のステップに進むのよ」


 私は、その場にいた労働者の肩をポンと優しく叩き、執務室へと足早に向かった。


 数十分後。

 チュイルリー宮殿の執務室には、油まみれのルイと、ナポレオンが集められていた。


「アントワネット、急な呼び出しだけど、何か新しい製品のアイデアかい? それとも、またどこかの国から巨大な受注が来たのかな?」


 ルイが、ワクワクとした目で私を見る。


「いいえ、ルイ。今日はモノ作りの話じゃないわ。……『人作り』の話よ」


 私は、机の上に真っ白な羊皮紙を広げ、羽ペンで大きく、力強い文字を書き込んだ。


「フランス全土の子供たち、そして希望するすべての大人たちを対象とした、『完全無料の学校』を設立するわ。……名付けて、フランス王立・基礎教育アカデミー。身分や貧富の差に関係なく、誰もが平等に『読み書きと計算』を学べる、義務教育の制度をスタートさせるのよ!」


「……ぎむ、きょういく?」


 ルイが、聞いたことのない単語に目を丸くした。


 当時の教育といえば、家庭教師を雇える貴族の特権か、あるいは修道院で聖書を読むためのごく初歩的な教えを受けるくらいしかなかった。国家が主導して「すべての国民に同じ水準の学問を授ける」という発想は、まだこの時代には存在しない、極めて革命的な概念である。


「マリー。言っている意味は分かりますが……」


 ナポレオンが、すぐさま現実的な問題点を指摘した。


「学校を建てる資金は現在の国庫なら十分に捻出できます。しかし、平民の親たちは、子供を『重要な労働力』と見なしています。畑の手伝いや、工場での簡単な作業をして日銭を稼ぐべき子供を、わざわざ学校へ通わせるでしょうか? 『文字など読めなくても、生きていける』。そう反発されるのがオチです」


「だから『義務』なのよ。……でも、無理やり通わせるんじゃ反感を買うわね。なら、彼らが『絶対に子供を学校に行かせたい!』と思えるような、メリットを用意すればいいじゃない」


 私は、不敵な笑みを浮かべて扇子を広げた。


「給食制度を導入するわ!」


「きゅうしょく?」


「そう! 学校に来た子供には、毎日お昼に、王室の厨房が監修した栄養バランスの取れた健康的な食事を無料で食べさせるのよ!」


 私の言葉に、ナポレオンの目がスッと細められた。


「……なるほど。家で子供に食べさせる食費が浮くどころか、食事が毎日タダで提供されるとなれば、親たちはこぞって子供を学校へ送り出すでしょう。……相変わらず、大衆を掌握する恐ろしい手腕ですね」


「健康な体と、満たされた胃袋があってこそ、脳みそはフル回転するのよ! 栄養不足のまま詰め込み教育をしたって、何も頭に入らないわ」


 私は、さらに羊皮紙にカリカリとカリキュラムを書き込んでいく。


「教える科目は、単なる読み書きだけじゃないわ。国語、算数……ここまでは基本ね。でも、ただの座学ばかりじゃ子供たちは飽きてしまう。体を動かす『体育』の時間も必須よ! 全身の関節と筋肉をバランスよく動かす『基礎柔軟体操』から始めるわ!」


「アントワネット、待ってくれ!!」


 突然、それまで黙って話を聞いていたルイが、机にバンッと両手をついて立ち上がった。彼の瞳は、かつて私が「蒸気機関」のアイデアを話した時と同じくらい、いや、それ以上にメラメラと燃え上がっていた。


「国語や算数、体操だけでは不十分だ! なぜそこに『理科』と『技術』の授業がないんだい!?」


「え? 理科?」


「そうだ! なぜ空は青いのか、なぜ水は沸騰すると蒸気になって膨張するのか! 滑車とテコの原理を使えば、どれだけ重いものを持ち上げられるのか! そういう『世界の物理法則』を知ることこそが、子供たちの瞳に最も純粋な好奇心の火を灯すんだ!!」


 オタク王の教育への情熱が、大爆発を起こした。


「僕が教鞭をとろう! いや、僕に教えさせてくれ! 子供たちに、ただ文字の並びを暗記させるんじゃない。実際に目の前で水素ガスを発生させて小さな気球を飛ばし、レンズで太陽の光を集めて火を起こす『実験キット』を全員に配るんだ!

そうすれば、フランスの子供たちは全員、数年後には立派なエンジニアや発明家に育つぞ!!」


 ルイの顔は、かつてないほど生き生きと輝いていた。

 彼は本気だ。一国の王という立場でありながら、未来を担う子供たちに、自分の愛する「科学と技術の面白さ」を直接伝えたいと、魂の底から願っているのだ。


(……凄い。歴史上、国王自らが小学校の理科の先生をやるなんて、前代未聞すぎるわ! )


「最高よ、ルイ!! あなたのその情熱があれば、子供たちは絶対に科学が大好きになるわ!! 理科と工作の授業のカリキュラムは、全部あなたに一任するわね!」


「任せてくれ! すぐに『安全で楽しい王立実験セット』の設計図を引くよ! ああ、忙しくなるぞ!!」


 ルイは嬉々として工房へと駆け出していった。


 残された私とナポレオンは、顔を見合わせてクスッと笑った。


「……マリー。労働力の底上げという観点から見ても、この義務教育投資の『費用対効果』は計り知れません。五年後、十年後、この学校を卒業した子供たちが工場や行政の現場に出た時……フランスは、『世界最先端の頭脳集団』を抱える超大国となりますよ」


 ナポレオンが、すでに十年先の未来の帳簿を脳内で計算し、深い満足の息を吐いた。


「ええ。筋肉で土台を作り、胃袋で心を満たし、そして最後に『知識』という最強の武器を彼らに授ける。……これこそが、誰も血を流さない、真のフランス革命よ」


 私は、窓の外に広がるパリの街並みを見下ろした。

 煙突からは工場を動かす白い蒸気が立ち上り、通りにはサロペット姿の人々が活気にあふれて行き交っている。


 ここに、もうすぐ、鞄を背負って元気に学校へ通う子供たちの笑い声が加わるのだ。


 マリー・アントワネット、25歳。

 彼女のサバイバルはついに、自分自身の命を守る戦いから、何百年先まで続く「国家の未来」を根底から創り上げる、壮大で優しさに満ちた教育改革へと、その舵を大きく切ったのである。

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