第103話 新時代
霧の都、ロンドン。
大英帝国の中枢であるバッキンガム宮殿とウェストミンスター宮殿の周辺は、前代未聞のパニック状態に陥っていた。
「しゅ、首相! 上空に! フランスの巨大な空飛ぶ要塞が、我がロンドンの頭上を制圧しております!!」
議事堂のバルコニーから空を見上げたイギリスの首相と資本家たちは、絶望に顔を歪めた。
ドーバー海峡に展開していた無敵のロイヤル・ネイビーが、フランスの「瓶詰めの飯テロ空爆」によって戦意喪失し、水兵たちが一斉にストライキに突入したという報告は、すでに早馬で届いていた。
そして今、その元凶である漆黒の巨大飛行船『ラ・ポム・ド・シエル号』が、一切の抵抗を受けることなく、ロンドンのど真ん中、高度三百メートルに悠然と滞空しているのだ。
「もはやこれまでか……! あそこから爆弾を雨あられと落とされれば、ロンドンは一瞬にして火の海だ! 迎撃の手段は何一つない!」
反仏強硬派の筆頭であり、イギリスの資本家トップであるサー・ウィリアムも、顔面を蒼白にして膝をついた。
「我々の海上封鎖が、まさか空から突破されるなど……! オーストリアの女狐め、どこまで悪魔的な頭脳を持っているのだ!」
だが、空から降ってきたのは、街を焼き尽くす爆発物ではなかった。
パラララッ……。
ゴンドラのハッチから大量に投下されたのは、小ぶりのパラシュート付きの木箱と、まるで雪のようにロンドンの街に舞い降りる無数の「紙吹雪」だった。
「……なんだこれは。ビラか? それに、分厚い冊子……カタログだ。フランスの『ベルサイユ・ライフスタイル・コレクション』の最新号……!」
一枚のビラを拾い上げた首相が、呆然と呟く。
そこには、フランスが誇る最新式の『完全密閉式・瓶詰保存食』の定期便サービスと、工場労働者向けの『福利厚生アウトソーシング契約』、さらには『蒸気機関のライセンス提供』の案内が大々的に載っていた。
『イギリスの資本家、並びに政府の皆様へ。
大砲の弾を撃ち合うより、美味しいポテトと健康的なサウナをシェアしませんか?
私たちが空からいつでもお食事をお届けできることは、すでに海軍の皆様に証明されたはずです。
さあ、無駄な封鎖を解いて、武器を捨て、このカタログの注文書にサインを! フランスはいつでも、皆様の国の健康と胃袋、そして労働環境のホワイト化をサポートいたします!』
「……脅迫だ。これは、『いつでも貴様らの頭上に爆弾を落とせるぞ』という、フランス流の冷酷極まりない脅迫状だ!」
首相がビラを握りつぶして震える。
だが、サー・ウィリアムたち資本家の反応は違った。彼らは、そのカタログと同時に投下された木箱の中身――試供品の『真空パック版Vバーガー』と『美肌クレイパック』を見て、別の意味で震え上がっていた。
「首相! すぐに降伏……いや、平和的通商条約の使者を出すのです!」
ウィリアムが血走った目で叫んだ。
「我が国の労働者たちが、この『極上の美味い飯』と『八時間労働』の存在を知ってしまった今、我々がフランスと敵対し続ければ、国内の工場労働者が一斉に暴動を起こして国が内部から崩壊します!」
「それに、あの飛行船の圧倒的な技術! フランスがすでに空の輸送網と高圧蒸気機関を確立しているのなら、我々の旧態依然とした海運と帆船など、数年で時代遅れのガラクタになります! 今すぐ彼らと和睦し、あの技術と飯のライセンス契約を結ばなければ、大英帝国の産業は死滅する!!」
圧倒的な航空戦力による「物理的な恐怖」と。
兵士と労働者の「胃袋とモチベーションの完全掌握」
二つの絶対的なイノベーションを突きつけられたイギリス政府と資本家たちは、ここに戦意を喪失した。
数日後。
飛行船による凱旋帰国を果たし、歓喜に沸くパリ市民に迎えられた私たちが待つチュイルリー宮殿に、イギリスからの特命全権大使が白旗を掲げて到着した。
「……我が大英帝国は、フランスに対する一切の海上封鎖を解除し、敵対行動を永久に放棄します」
特使は、屈辱に唇を噛み締めながら、分厚い講和条約と通商条約の書類をテーブルに置いた。
「素晴らしい判断よ」
私は、サウナ上がりのようなツヤツヤの笑顔で、深く頷いた。
「そしてもちろん、このカタログに記載された『ベルサイユ保存食の独占輸入契約』と、『工場設備の技術ライセンス契約』にも、言い値の満額でサインをいただくわよ」
「……承知いたしました。我が国の海軍の士気維持と、労働者の暴動を抑えるためにも、もはや貴国の『Vバーガー』と『ポタージュ瓶詰』は必要不可欠です」
特使が震える手でサインを書き殴るのを、部屋の隅でナポレオンが懐中時計を弄りながら冷徹に見届ける。
「これで、イギリスからの莫大な関税収入と、何十年にもわたる継続的なサブスクリプション利益が確定しました。……マリー、陛下。我々の完全な勝利です。対仏大同盟は、この瞬間に崩壊しました」
ナポレオンが淡々と宣言すると、ルイが感極まって、私の肩を力強く抱き寄せた。
「やった……やったぞ、アントワネット! 君の料理のアイデアと、僕たちの機械が、本当に戦争を止めたんだ!」
「ええ、ルイ! もう二度と、フランスの海が塞がれることも、材料がなくて工場が止まることもないわ!」
イギリスという最大の脅威が「胃袋と技術で屈服」したというニュースは、プロイセンやスペインなど、他の包囲網諸国にも強烈な衝撃を与えた。
『あのイギリスが、空から飯を落とされて降伏しただと!?』
『フランスを敵に回せば、上空から何が降ってくるか分からんぞ! 爆弾か、それとも美味い飯による自国兵士の洗脳か!』
恐怖と、フランスの圧倒的な技術・食の魅力に抗えなくなった各国は、次々と同盟から離脱。手のひらを返したように、フランスとの間に平和的な貿易協定を結ぶべく、我先にとパリへ使者を送り込んできた。
ネッケルが残した二十億リーブルの絶望的な借金。
それは、飛行船がもたらした世界規模の「圧倒的な外貨獲得インフラ」と、諸外国への技術輸出ライセンスによって、もはや数年で完済可能なただの数字へと成り下がっていた。
「あーうー! ぶーん! ぶーん!」
執務室の床で、二歳になったジョゼフが、ルイの作った木製の飛行船のおもちゃを手に、元気に走り回っている。
「ふふふ。これからは、あなたたちが自由に大空を飛んで、世界中に美味しいものと平和を届けに行く時代になるのよ、ジョゼフ」
私は、窓の外に広がる、火山灰の雲が完全に晴れた青空を深く見上げた。
ギロチンの幻影に怯え、自分が生き残るためのダイエットと節約から始まった私のサバイバル。
それがいつの間にか、サロペットとスニーカーを流行らせ、労働環境をホワイト化し、大地の恵みを蘇らせ、ついには空を飛んで世界を平和に導いてしまった。
「……なんだか、本当に遠くまで来ちゃったわね」
「君となら、もっと遠くまで行ける気がするよ。次は、月まで飛べるロケットでも設計してみようか?」
「もう、ルイったら! まずはパリの美味しい空気をたっぷり吸って、家族でゆっくりピクニックに行くのが先よ! ジョゼフも外で遊びたがってるわ!」
チュイルリー宮殿には、これまでにないほど温かく、明るい笑い声が響いていた。
マリー・アントワネット、24歳。
彼女の泥臭くも力強い生存戦略は、歴史の死神を大空の彼方へ完全に吹き飛ばした。
フランスを「世界で一番健康的で、一番美味しい国」へと導き、絶対的な平和と繁栄の時代を切り開いた彼女の物語は、これからも、笑いと筋肉とポテトの香りに包まれて続いていくのである。
第五章 空飛ぶ要塞と平和の食卓編 完




