第102話 極上の空爆
冬のドーバー海峡。
そこは、灰色の空と鉛色に波打つ冷たい海に挟まれた、荒涼たる軍事の最前線だった。
大英帝国が世界に誇る無敵艦隊『王立海軍』。
その旗艦である百門の大砲を備えた三層甲板の巨大戦列艦『HMSヴィクトリー』の甲板で、若い水兵のトーマスは、凍える手でカチカチに硬くなった「ビスケット」を齧ろうとしていた。
「……痛っ」
口に入れた瞬間、歯茎からジワリと血が滲む。
長期間の海上封鎖任務による極度のビタミンC不足――当時の水兵たちを恐怖のどん底に陥れていた死の病、『壊血病』の初期症状だった。
彼の食事は、塩漬けにされて木片のように硬くなった豚肉と、コクゾウムシが湧いたビスケットのみ。野菜や果物など、この数ヶ月間、一度も口にしていない。
「クソッ、フランスの港を塞げば奴らは数週間で音を上げるって話だったじゃねえか。なんでいつまでも白旗を上げねえんだよ……。このままじゃ、敵の弾に当たる前に、俺たちの体が干上がっちまうぞ」
トーマスが血の滲む歯茎を押さえて呪詛を吐いた、その時だった。
「お、おい! 上を見ろ!! 太陽が……隠れたぞ!?」
見張り台からの悲鳴に近い叫びに、甲板にいた水兵たちが一斉に空を見上げた。
雲の切れ間から、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を持って姿を現した巨大な黒い影。
全長五十メートル。大空に浮かぶ漆黒の流線型の気嚢と、後部で異様な唸りを上げて回転する巨大な木製プロペラ。
フランス王室が放った空の要塞、『ラ・ポム・ド・シエル号』であった。
「て、提督!! 上空に、巨大な船が!!」
「馬鹿な!? 雲の隙間から……船が空を飛んでいるだと!? 幻覚か!」
甲板に飛び出してきた提督も、空を覆う漆黒のバケモノを指差して言葉を失った。当時の彼らにとって、「空を巨大な物体が自らの意思で進んでくる」という光景は、悪魔の襲来か神の怒りにしか見えなかっただろう。
「だ、大砲を撃て! 撃ち落とせ!! まさかフランスの新兵器か!?」
提督の怒号に、訓練された水兵たちが反射的に動き、側面に並ぶ三十二ポンド砲の仰角を限界まで上へと向けた。
ドォォォン! ドォォン!!
艦隊から一斉に迎撃の砲火が放たれる。
すさまじい轟音と硝煙が海面を覆い尽くした。
だが。
「……届かねえ! 弾が、落ちてくるぞ!!」
当時の前装式滑腔砲では、真上に向かって弾を撃ち出すことなど物理的に不可能だ。限界まで角度をつけても、放たれた重い鉄球は高度二百メートル付近で失速し、虚しい弧を描いて再び海面へとドチャッと落ちていった。
上空三百メートルの絶対安全圏。
ゴンドラの縁から身を乗り出した私は、特大のメガホンを握りしめ、強風に煽られながらも不敵な笑みを浮かべた。
「ふふふ、残念だったわね! 絶対的なアウトレンジからの攻撃……これぞ『航空優勢』という三次元の暴力よ!」
「よし、敵の対空砲火は無効! 射程外を確保しました!」
アーサーが羅針盤から顔を上げ、冷徹な声で報告する。
「アーサー、投下準備!!」
「了解しました! ゴンドラ床下ハッチ、ロック解除! 『第一波・飯テロ・オペレーション』、開始します!!」
アーサーが、ゴンドラの底に設置された真鍮製の巨大なレバーを力強く引いた。
ガコンッ!
パラララッ……!
飛行船の底のハッチが開き、無数の「木箱」が空へ向けて一斉に吐き出された。
だが、ただ落下して甲板で粉々に砕けるわけではない。木箱の上部から、パラゴムとシルクで作られた色鮮やかな『パラシュート』が次々と開き、空中に美しいキノコのような花を咲かせたのだ。
「……なんだあれは? 爆弾か!? 爆弾が降ってくるぞ!!」
「総員退避ィィッ!! 甲板から離れろ!!」
イギリス軍の甲板は阿鼻叫喚に包まれた。
ゆっくりと、風に乗って降下してきた無数の木箱が、トンッ、トンッと音を立てて、旗艦ヴィクトリーをはじめとする戦列艦の甲板に次々と安全に着地していく。
爆発に怯え、頭を抱えてマストの陰で震えていたトーマスたち水兵が、数分経っても何も起きないことに気づき、おそるおそる目を開けた。
「……爆発、しないぞ?」
トーマスが恐る恐る近づき、一番近くに落ちた木箱の蓋をそっと開けた。
「……なんだ、この瓶は。何かドロドロしたものが入っているぞ?」
そこには火薬でも砲弾でもなく、藁の緩衝材に厳重に包まれた『分厚いガラス瓶』が行儀良く並んでいた。
そして、その瓶には、英語で書かれた一枚の美しいビラ――『ベルサイユ・ライフスタイル・コレクション』のチラシが括り付けられていた。
『勇敢なるイギリス海軍の兵士諸君! 冷たい海風と、塩漬けの肉、石のように硬いビスケットだけの悲惨な食事にご同情申し上げます。
あなた方の歯茎から血が出るのは、祖国があなた方を使い捨ての部品として扱っているからです!
これはフランス王室からの、ささやかなお見舞い。さあ、蓋の真鍮クリップを外して、本物の「美食」を味わいなさい!』
「……食い物、だと?」
「おい、やめろ! 触るな! 敵の罠だ、毒が入っているに決まっている! そのまま海へ投げ捨てろ!!」
提督が甲板の奥から怒鳴る。
だが、極限状態の飢えと、壊血病の苦痛に支配されたトーマスの手は、無意識のうちに瓶の真鍮クリップへと伸びていた。
カチャッ……プシュッ!
瓶の中の「真空密閉」が解かれた瞬間。
冷たい潮風が吹き荒れる殺伐とした甲板の上に、暴力的なまでの『香り』が大爆発を起こした。
「な……ッ!! なんだこの匂いは!!」
トーマスだけでなく、周囲を取り囲んでいた水兵たち全員の鼻腔を、極上マッシュルームの深い旨味と、焦がしバターの芳醇な香りが直接殴りつけた。
さらに別の瓶からは、赤ワインとトマトでホロホロに煮込まれた、ブルゴーニュ風コンフィの圧倒的に肉々しい匂いが立ち昇る。
「い、いい匂いだ……! 胃袋が、内臓が悲鳴を上げている……!」
トーマスはたまらず、提督の制止を無視して瓶の中に指を突っ込み、その分厚い肉の塊をすくい上げて口に放り込んだ。
――サクッ。トロォッ……。
「――ッッッ!!!」
トーマスは目を見開き、あまりの衝撃に甲板の上に膝から崩れ落ちた。
「う、美味ぇぇぇぇっ!! なんだこれ、肉がとろける! ソースの深い旨味が、空っぽの胃袋に染み渡る! 冷え切っていた体が、芯から燃えるように温かい……ッ!!」
彼の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
その光景を見た他の水兵たちも、もはや理性を保つことなど不可能だった。軍の規律など、この圧倒的な「カロリーと旨味の誘惑」の前にはチリ紙ほどの価値もない。
「俺にもよこせ!!」
「こっちの瓶は甘いぞ! リンゴのコンポートだ! うおおお、歯茎の痛みが引いていく気がする!」
彼らは我先にとパラシュートで降ってきた木箱に群がり、次々と瓶の蓋を開け、手掴みで極上のフレンチを貪り食い始めた。
「美味い! なんだよこれ、俺たちが命を懸けて守ってる本国の上層部は、俺たちに豚の餌みたいな飯を食わせてたってのに! 敵国が、こんな天上の美食を降らせてくれるなんて!!」
「おい! こっちの瓶は『極上ポテトの濃厚チーズ・アリゴ』だ! ビヨーンって伸びるぞ! 塩気がたまらねえ!! 誰かバゲットを持ってこい!!」
イギリス海軍の規律は、わずか数分で崩壊した。
大砲に弾を込める者など誰一人いない。提督が剣を抜いて「食べるな! 持ち場に戻れ!」と怒鳴り散らしても、極限の飢えと「究極の旨味」の前にひれ伏した水兵たちには、もはや士官の命令など雑音でしかなかった。
「提督! 邪魔をするなら、あんたでも容赦しねえぞ!」
屈強な甲板長が、半分食べかけのアリゴの瓶を握りしめながら、血走った目で提督に凄んだ。
「な、貴様ら……反逆する気か!」
「反逆? 冗談じゃねえ。俺たちは『ストライキ』に入るんだよ! こんな美味い飯を食わせてくれる国と、誰が好き好んで戦争なんかするか!!」
上空三百メートルの飛行船のゴンドラから、私は特大のメガホンで、ダメ押しの演説を放った。
「どう!? イギリス海軍の皆さん! 美味しいでしょう! フランスの港の封鎖を解いて平和条約を結べば、毎日それを熱々の状態で、たっぷり食べさせてあげるわ! さあ、くだらない戦争なんてやめて、美味しいご飯を食べにおいで!!」
甲板の上から、何百人、何千人というイギリス兵たちが、空になったガラス瓶を空高く掲げて叫び返してきた。
「「「フランス王妃、万歳!! 激ウマの飯、万歳!! もうこんなクソみたいな封鎖任務やってられるかァァァッ!!」」」
「提督! 今すぐ船をUターンさせろ! この瓶詰めの定期購入を国が保証しないなら、俺たちはもう大砲に火の粉一粒近づけねえからな!!」
大英帝国の誇る無敵の艦隊は、一発の砲弾を撃ち込まれることもなく、たった一トンの『極上の瓶詰保存食』と『労働者の胃袋への直接訴え』によって、戦意を完全に喪失し、内部からのストライキによって機能不全に陥ったのである。
「……作戦、大成功ね、アーサー!」
私はゴーグルを額に押し上げ、興奮冷めやらぬ笑顔で振り返った。
「ええ、王妃様! 兵士の胃袋と労働環境の不満を突くことこそ、最強の戦術です。……彼らはもう、我々の工場への物資輸送を邪魔することはありません。それどころか、本国の上層部に『さっさとフランスと和睦しろ』と猛烈な突き上げを行うでしょう」
アーサーが、元・大英帝国のスパイとは思えないほど晴れやかな顔で笑った。
「さて、アントワネット。海軍の士気は完全に粉砕した。……次はどうするんだい?」
ボイラーの火力を調整しながら、ルイが頼もしい声で尋ねる。
「決まっているわ」
私は、前方に見えてきた灰色の分厚い雲と、その下にあるであろう「霧の都」の方角をビシッと指差した。
「海軍の胃袋を掴んだだけじゃ、まだ根本的な解決にはならないわ。一番偉そうにしている、ロンドンの資本家と政治家たちの度肝を抜いて、彼らから『降伏文書』をもぎ取らなきゃ!」
「目標、ロンドン中心部! バッキンガム宮殿と国会議事堂へ向けて、全速前進!!」
ルイが蒸気バルブを全開にする。
シュゴォォォォォンッ!!
巨大な木製プロペラがさらに激しく空気を掻き出し、『ラ・ポム・ド・シエル号』は、海の要塞を嘲笑うかのように飛び越え、ついに大英帝国の中枢、ロンドンの空へと侵攻を開始した。
マリー・アントワネット、24歳。
彼女の生み出した「真空密閉瓶詰」と「空飛ぶ要塞」は、軍事の歴史を書き換えた。そして今、彼女は敵国の首都の頭上へ、絶対的な死の恐怖――ではなく、圧倒的な「健康と通販カタログの雨」を降らせるべく、最後の大勝負へと向かっているのであった。




