第101話 大空の船
ゴォォォォォォォォッ!!!
鼓膜を震わせ、腹の底まで響き渡る強烈なバーナーの燃焼音。
パリ郊外、シャン・ド・マルス練兵場の中央で、全長五十メートルに及ぶ漆黒の怪物――『ラ・ポム・ド・シエル号』が、その巨体をギチギチと軋ませながら、ゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで大地から足を引き剥がした。
「係留ロープ、すべてパージ完了! 水素ガス圧、安定しています!」
ゴンドラの先端で、アーサーが鋭い声を上げる。
「よし! 下部バーナーの火力を維持! モンゴルフィエ兄弟、風の抵抗と気嚢の内圧変化をミリ単位で監視してくれ! アントワネット、手すりにしっかり掴まっていて!」
操縦桿を握るルイが、顔を煤だらけにしながら叫んだ。
「大丈夫よ! さあ、行くわよパリの空へ!」
私は、特注の革製フライトジャケットに身を包み、ゴンドラの太い藤ヅルの縁を力強く握りしめた。
ズンッ、と内臓がフワリと浮き上がるような特有の感覚。
次の瞬間、眼下に広がる何万というパリ市民たちの歓声が、遠ざかる風の音とともに急速に小さくなっていく。
「おおおおおっ!!」
「飛んだぞ! 本当に空へ……!」
群衆のどよめきが、まるでミニチュアの箱庭から聞こえるざわめきのように変わっていく。
私はゴンドラから身を乗り出し、地上で手を振っているであろう小さな影を探した。
見えはしないが、あの天幕の奥には、ナポレオンとランバル夫人、そしてスヤスヤと眠っている私の愛するジョゼフがいるのだ。
(……待っていてね、ジョゼフ。ママとパパは、あなたが明日も明後日も、ずっと笑って美味しいものを食べられるように、空の向こうの意地悪な海軍どもを退治してくるからね。……絶対に、生きてあなたの元へ帰るわ)
胸の中で我が子への誓いを立てていると、セーヌ川のうねり、チュイルリー宮殿の庭園、そして無数に立ち並ぶパリの煙突が、みるみるうちに眼下にパノラマとなって広がっていった。
「高度百メートル! さらに上昇します!」
エティエンヌ・モンゴルフィエが高度計を読み上げる。
だが、パリの上空には依然として、はるか北欧のラキ火山から流れ着いた分厚い火山灰の雲が、鉛色の蓋のように重く垂れ込めていた。
「ルイ! 雲の中に入るわ!」
「案ずるな! 計器類はすべて防水・防塵仕様だ! このまま一気に雲海を突き抜けるぞ!!」
ゴンドラが、湿気を帯びた灰色の雲の中へと突入する。
視界が真っ白に染まり、冷たい水滴と細かい灰の粒子が顔に打ち付けた。周囲の音が極端に鈍くなり、ただ蒸気機関の力強いピストン音「シュゴォォォン、シュゴォォォン」という鼓動だけが、この巨大な船が生きていることを証明していた。
数分間、息の詰まるような白濁の世界を上昇し続けた、その時だった。
――パァァァァァッ……!
突然、視界を覆っていた灰色のベールが引き裂かれ、強烈な光がゴンドラ全体を包み込んだ。
「……あ……」
私は、思わず息を呑んだ。
雲を抜けた先。そこにあったのは、どこまでも果てしなく続く、抜けるようなコバルトブルーの青空と、眼下に広がる雪原のような純白の雲海だった。
太陽だ。
何ヶ月もの間、火山灰に遮られて地上からは見ることのできなかった、本物の、眩しすぎるほどの太陽の光が、私たちの船を黄金色に照らし出している。
「……抜けたぞ。雲の上だ!」
ルイが操縦桿から片手を離し、額の汗を拭いながら感嘆の声を漏らした。
「見ろアントワネット。気圧計も安定している。君の考案したパラゴムとシルクの多層コーティングが、上空の強烈な気圧差と強風を完璧に弾き返しているんだ。布の引き裂けは一切ない!」
「ええ……! それに、全然揺れないわね。馬車に乗っている時よりもずっと静かで、滑らかだわ」
「それがこの『流線型気嚢』と『水平維持サスペンション』の力さ! さあ、いよいよ前進するぞ! 蒸気弁、全開! プロペラ駆動開始!!」
ルイが真鍮の太いレバーを押し込むと、ゴンドラの後部に設置された巨大な木製スクリューが、猛烈な唸りを上げて回転し始めた。
ブォォォォォォォンッ!!
強烈な風切り音とともに、風に流されるだけだった気球が、明確な「推進力」を持って雲海の上を滑るように進み出す。
「対地速度、時速三十五キロ! 計算通り、いや、それ以上のスピードです!」
アーサーが羅針盤を覗き込み、興奮気味に報告する。
「復水器も完璧に機能しています! 排出された蒸気が上空の冷気で一瞬にして水に戻り、ボイラーへと還流している……! 陛下、これなら水と石炭の消費量は当初の十分の一以下です!!」
ジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエが、計器盤を見て涙ぐんでいる。
物理法則の矛盾をクリアし、18世紀の空に放たれたオーバーテクノロジーの結晶。
私たちは今、正真正銘「大空の覇者」として、イギリスへ向けて飛翔していた。
「ふぅ……。軌道に乗ったようね。みんな、少し休憩にしましょう」
私は、ゴンドラの中央に設置された固定式の木製テーブルのカバーを外し、中から手回し式の保温ボックスを取り出した。
「ルイ。ドーバー海峡まではまだ数時間あるわ。空の上で、冷えた体を温めましょう」
「おっ! 実は朝から緊張で、何も喉を通っていなかったんだ」
ルイが嬉しそうに操縦席を離れ、テーブルについた。
私が取り出したのは、ボイラーの廃熱パイプに這わせてアツアツに保温されていた『新じゃがと代替肉のミートパイ』と、日本から届いた奇跡の調味料・醤油を隠し味に使った『特製マッシュルーム・コンソメスープ』である。
「さあ、アーサーも、モンゴルフィエ兄弟も遠慮しないで! 腹が減っては戦はできないわよ!」
私は、揺れないゴンドラの安定性を活かし、銀のティーポットから琥珀色のスープをカップに注いでいった。
「か、神に感謝を……! まさか高度三百メートルの空の上で、こんなに温かくて極上の飯が食える日が来るとは……!」
モンゴルフィエ兄弟が、パイを頬張りながら咽び泣いている。
「美味い……! 肉汁とキノコの旨味が、上空の冷え切った内臓に染み渡ります! イギリスの海軍どもは今頃、甲板で塩漬けの硬い肉を齧って歯茎から血を出しているというのに……なんと圧倒的な『兵站の格差』か」
アーサーが、祖国の軍隊を心底憐れむような目でスープを啜った。
「美味しいわね。地上でどんなに大国同士が睨み合っていても、空の上では世界がこんなにも穏やかだなんて」
私は、温かいティーカップを両手で包み込みながら、隣でパイをリスのように頬張っているルイに微笑みかけた。
「……信じられないわ」
「ん? なにがだい、アントワネット」
「私が初めてベルサイユの庭園の土をクワで掘り返した時、まさか数年後に、あなたと一緒に空を飛んでお茶会をしているなんて、想像もしていなかったわ」
前世の記憶を思い出し、ギロチンの恐怖に震えていた18歳のあの日。
重いコルセットを脱ぎ捨て、泥にまみれ、ジャガイモを育て、サウナで汗を流してきた。
ただ「死にたくない」「自分の命を他人に握られるのが嫌だ」という自己防衛の本能から必死に足掻き続けてきた結果が、この規格外の巨大飛行船と、国を背負う最強の仲間たちだ。
「僕だってそうさ」
ルイは、油で汚れた手袋を外し、ティーカップを持ち上げた。
「君がオーストリアから嫁いできた時、僕はどうやって君と会話すればいいか分からず、ただ部屋にこもって冷たい鉄の錠前ばかりを弄っていた。……でも、君がその錠前を力ずくで壊して、僕を外の『生きた世界』へと引っ張り出してくれたんだ」
ルイの瞳には、かつての気弱で自信のなかった少年の面影はない。
一国の王として、そして天才エンジニアとして、愛する家族と国を守るためにあらゆる困難を技術で粉砕してきた、頼もしい大人の男の顔があった。
「君が『美味しいもの』を求め、『健康』を求めたからこそ、僕の技術は初めて『人の命を救い、幸せにするため』の熱を持ったんだ。……アントワネット。君こそが、僕という人間を動かす最強の蒸気機関だよ」
少しキザな、けれど彼らしい理系全開の口説き文句に、私は思わず吹き出してしまった。
「もう、ルイったら! そんな熱力学みたいな褒め言葉、私にしか通じないわよ?」
「ははは! 君に通じれば、それで十分さ」
私たちは、雲の上という絶対的な静寂の中で、声を上げて笑い合った。
借金と飢餓、そして対仏大同盟という理不尽な暴力に押し潰されそうになった日々。
だが今、私たちはそのすべての壁を越え、文字通り「世界を見下ろす」高みに到達している。
「……王妃様、陛下。感動的なお茶会のところ申し訳ありませんが、前方をご覧ください」
アーサーの、鋭く引き締まった声がゴンドラ内に響いた。
彼が指差す先。
果てしなく続いていた純白の雲海が途切れ、その眼下に、濃紺の海が広がっていた。
フランスとイギリスを隔てる絶対防衛線――『ドーバー海峡』である。
「見えたわね……」
私はティーカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
海峡の最も狭い部分。そこには、目を疑うような異常な光景が広がっていた。
海面を埋め尽くすように、無数の白い帆を張った巨大な戦列艦とフリゲート艦が、『木の壁』となって何重にも陣形を組んでいる。
大英帝国が誇る、世界最強の『王立海軍』の海上封鎖網だ。
あの無数の大砲の筒口が、フランスの息の根を止めるために、海鳥一羽すら通さないという凶悪な殺気を放って海を睨みつけている。
「……すごい数。あれが全部、私たちの工場の材料を止め、フランスを飢えさせようとしている元凶ね」
私がゴンドラの窓からその威容を見下ろすと、アーサーが冷ややかな目で望遠鏡を覗き込んだ。
「ええ。中央に陣取っている一際巨大な三層甲板の船が、海峡封鎖艦隊の旗艦『HMSヴィクトリー』です。……あそこに、今回の封鎖作戦の指揮官が乗っています。大英帝国のプライドそのものと言える艦隊です」
アーサーの横顔には、かつての祖国の軍隊に対する感傷は微塵もない。
彼の中にあるのは、労働者をブラックな環境で使い潰す国家への静かな怒りと、自分を人間として救ってくれた『ホワイトな健康大国・フランス』への絶対的な忠誠心だけだ。
「さあ、お茶の時間は終わりよ。仕事の時間だわ!」
私は、ゴーグルをカチリと装着し、革の手袋をはめた。
「モンゴルフィエ兄弟! 高度三百メートルを厳守して! あいつらの積んでいる前装式の滑腔砲じゃ、仰角の限界で絶対にこの高さまでは弾が届かないわ!」
「了解しました! バーナーの火力を調整し、水素ガスの浮力とバランスを取ります!」
私はゴンドラの床下にあるハッチの固定具に手をかけ、不敵な笑みを浮かべた。
「ルイ、艦隊の真上をクロスするように航路を取って!」
「任せてくれ! 蒸気圧、最大出力! 一気に敵の頭上を取るぞ!!」
ブォォォォォォォンッ!!
プロペラが咆哮を上げ、『ラ・ポム・ド・シエル号』は一気に加速した。
眼下の海軍どもは、まだ空から忍び寄る巨大な黒い影に気づいていないだろう。
彼らは、海兵たちにカチカチのビスケットと塩漬けの腐りかけた肉を食わせながら、自分たちの無敵を信じているのだ。
(……待っていなさい、イギリス海軍。あなたたちが今まで味わったこともない、圧倒的な『暴力的なまでの旨味』と『健康』を、その頭上から叩き込んでやるわ!)
高度三百メートルの絶対安全圏。
極上の保存食という名の爆弾を積んだ巨大な飛行船が、ついにイギリス無敵艦隊の真上へとその巨体を滑り込ませた。
マリー・アントワネット、24歳。
大英帝国の海上封鎖を胃袋から破壊する、人類史上初となる『第一波・飯テロ・空爆オペレーション』の火蓋が、今まさに切って落とされようとしていたのである。




