第100話 大空の覇者
パリのチュイルリー宮殿、その広大な庭園に設営された極秘の巨大天幕の中。
時計の針が深夜の三時を回った頃、何週間も絶え間なく鳴り響いていた金属を叩く音と、ミシンを踏む音が、ピタリと止んだ。
静寂。
オイルランプの薄暗い灯りの中で、何百人もの職人、労働者、そして私たち王族が、一様に息を呑んで「それ」を見上げていた。
「……完成、した。僕たちの……いや、フランスのすべての技術と誇りの結晶だ」
煤と機械油で顔を真っ黒にしたルイが、震える声で呟いた。
全長五十メートル、最大直径十五メートル。
見上げるほど巨大な流線型の気嚢が、パラゴムで幾重にもコーティングされた漆黒のシルクの輝きを放ちながら、巨大な天幕の天井ギリギリまでそびえ立っている。
パリのコルセット職人たちが「絶対に空気を逃さない」という執念で、数万針に及ぶダブルステッチと蜜蝋の擦り込みを施したその表面は、もはや布というより、強靭な生物の皮膚のような滑らかさと威圧感を持っていた。
そして、その巨大な気嚢の下部。
強靭かつ軽量な竹と藤ヅルで編み上げられたゴンドラが、特殊鋼のコイルスプリングによるサスペンションを介して吊り下げられている。
「アントワネット、見てくれ。これが君の『気化熱ラジエーター』のアイデアと、パリの宝飾職人たちの神業が生み出した心臓部だ」
ルイが指差したゴンドラの後方。
そこには、極限まで肉抜きされた真鍮製の高圧ボイラーと、その後ろに連結された『芸術品』のような冷却装置が鎮座していた。
宝飾職人たちがルーペを覗き込みながら、銀ロウ付けで一本一本、ミクロン単位の精度で接合した数百本の極細銅管。それが幾重にも折り重なり、美しい金色の網目を形成している。このラジエーターが、排出された蒸気を瞬時に水に戻し、再びボイラーへと循環させるのだ。
「素晴らしいわ……! パイプの並びが均一すぎて、まるでベルサイユ宮殿のシャンデリアみたいにキラキラ光ってるじゃない!」
「ああ。そして、この船が八トンもの絶望的な重量を抱えながら空を飛べる最大の秘密……それが、この気嚢の内部構造だ」
ルイは、ドヤ顔で黒板に図解を描き始めた。
「単なる熱気球では浮力が足りない。だから僕は、気嚢を上下二つの部屋に分けたんだ。上部の巨大な部屋には、鉄屑と硫酸を反応させて発生させた『可燃性水素ガス』を限界まで充填する! 水素の圧倒的な軽さが、六トン以上の基本浮力を生み出す!」
(……出たわね! 史実における水素ガス気球の発明者、ジャック・シャルルの理論! それを熱気球と合体させた『ロジェ気球』のハイブリッド構造を、この時代に完璧に再現したのね!)
「そして下部の部屋には、これまで通り石炭を燃やした『熱気』を送り込む。水素ガスは一度入れたら抜けないが、下部の熱気をバーナーでコントロールすることで、水素を捨てることなく自在に『上昇と下降』の浮力調整ができる仕組みさ!」
「物理法則の矛盾を、二つの気体の特性を掛け合わせることで論破したのね! ルイ、あなたは本当に、歴史上最強のエンジニア王よ!!」
私がルイの首に抱きついて歓喜の叫びを上げると、周囲を取り囲んでいた職人や労働者たちからも、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。
「俺たちが削った鉄の歯車が、空を飛ぶんだ!」
「アタイらの縫った布が、イギリスの海軍の頭上を越えていくんだね!」
誰もが、泥と汗と油にまみれながら、自分たちの手で作り上げた「未来」を誇らしげに見上げていた。
「喜ぶのはまだ早いです、皆様」
歓声の中、ナポレオンが、冷静極まりない声で場を引き締めた。彼の手には、緻密な計算がびっしりと書き込まれた『フライト・マニュアル』と『兵站リスト』が握られている。
「これより、作戦の最終段階……『積み込み』を開始します。アーサー物流管理部長、準備は?」
「イエス、ボス! 既に搬入ルートは確保済みです!」
アーサーの号令とともに、屈強な労働者たちが次々と木箱をゴンドラへと運び込み始めた。
「王妃様特製の『極上マッシュルーム・ポタージュ』、および『代替肉のブルゴーニュ風コンフィ』の真空密閉瓶詰、総計一・二トン! 重量バランスを均等に保つため、ゴンドラの床下コンテナに隙間なくパッキングします!」
「さらに、ボイラー用の燃料! 廃油と石炭粉末を圧縮した『高効率ブリケット』一・五トン! これも後方の燃料庫へ!」
ナポレオンが、まるで積み木のように完璧な重心計算を行いながら、積載物の配置を指示していく。巨大な飛行船のバランスは、空の上では命に直結する。彼の軍事的なロジスティクス能力が、ここで最大限に発揮されていた。
「マリー。投下用の『ベルサイユ・ライフスタイル・コレクション』最新号カタログ十万部も、パラシュート機構をセットして爆撃用ハッチの上に配置完了しました。……いよいよですね」
「ええ。私たちの『圧倒的な美味と健康』で、イギリス海軍の胃袋と戦意を物理的に降伏させる時が来たわ」
私は、サロペットの上から動きやすい革製のフライト・ジャケットを羽織り、ゴーグルを首にかけた。
「アントワネット、本当に君も乗る気かい? 上空の寒さと風圧は、想像を絶する過酷さだ。それに、もしイギリス艦隊の対空砲火が届いてしまえば……」
ルイが心配そうに私の手を握る。
「何を言っているの、ルイ。この作戦の最高責任者は私よ。私が現場に行かずして、誰がイギリスの兵士たちに最高のプレゼンテーションをするっていうの? それに、私がいれば謎の悪運で絶対に撃ち落とされない気がするでしょう?」
私がウィンクをして見せると、ルイは深くため息をつきながらも、どこか諦めたような、そして頼もしげな笑みを浮かべた。
「……分かった。君のその無敵の生存本能に賭けよう。僕が機関長として、何があってもこの船と君を守り抜いてみせる」
搭乗員は、機長兼・主任機関士のルイ。
風を読み、高度をコントロールするナビゲーターのモンゴルフィエ兄弟。
海峡の気象とイギリス海軍の陣形を熟知している投下担当のアーサー。
そして、総合指揮官にして特命プレゼンターの私、マリー・アントワネット。
「マリー。私は地上に残り、もしもの時の予備計画と、帰還後の外交交渉の準備を進めておきます。……必ず、生きて帰ってきてください。あなたの『次の一手』を、私はまだすべて学びきっていませんからね」
ナポレオンが、小さな手で私に敬礼をして見せた。
「ええ、任せてちょうだい。……ジョゼフのことも、お願いね」
私は、ランバル夫人に抱かれてスヤスヤと眠っているジョゼフの柔らかな頬に、そっとキスを落とした。
「さあ、夜明けだ! 出港の準備をしろ!!」
ルイの号令が響く。
天幕が大きく開かれ、朝の冷たい空気が流れ込んできた。
パリの空は、ラキ火山の灰色の雲が晴れ、どこまでも高く澄み切った青空が広がっていた。
シャン・ド・マルス練兵場には、歴史的瞬間を見届けようと、夜明け前にも関わらず数万人のパリ市民が詰めかけていた。彼らは皆、自分たちが育てたキノコや、自分たちが削った歯車が、空を飛ぶ姿を一目見ようと集まってきたのだ。
「係留ロープ、最終確認ヨシ!」
「水素ガス圧、安定! 下部バーナー、点火します!!」
ゴォォォォォォォォッ!!!
エティエンヌ・モンゴルフィエがバーナーのバルブを開くと、巨大な青い炎が気嚢の下部に吸い込まれていく。
熱せられた空気が膨張し、漆黒の巨大な船体が、まるで生き物のようにギチギチと軋みながら、ゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで浮き上がり始めた。
「……浮いたぞ!! 船が、空に浮いている!!」
「奇跡だ……! 王妃様と国王陛下の作った要塞が、空を飛ぶぞ!!」
数万の群衆から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「係留ロープ、パージ!!」
アーサーが斧を振り下ろし、大地と船を繋いでいた太い麻縄が切断された瞬間。
ズンッ、という内臓が浮き上がるような特有の感覚とともに、私たちの乗ったゴンドラは、一気に空へと引っ張り上げられた。
「高度百! 二百! 上昇気流に乗ります!」
風の音が耳元をかすめ、パリの街並みがみるみるうちにミニチュアの模型のように小さくなっていく。
セーヌ川のきらめき、ノートルダム大聖堂の尖塔、そしてチュイルリー宮殿。私たちが血と汗を流して守り抜いた美しい街が、足元にパノラマとなって広がっていた。
「……すごい。本当に、空を飛んでいるわ……!」
私はゴンドラの縁から身を乗り出し、冷たい風を全身に浴びながら感動に打ち震えた。
「感動するのはまだ早いよ、アントワネット! ここからが本番だ!……蒸気弁、開けッ!! プロペラ駆動開始!!」
ルイが、真鍮の巨大なレバーを力強く押し込んだ。
シュゴォォォォンッ!! ガシャン、ガシャン、ガシャン!!
高圧ボイラーから送り出された蒸気の圧力がシリンダーを突き動かし、その動力がクランクシャフトを介して、ゴンドラ後部に設置された直径五メートルの巨大な木製スクリュープロペラへと伝達される。
ブォォォォォォォンッ!!
凄まじい風切り音とともに、プロペラが空気を切り裂き始めた。
その瞬間、風に流されるだけだった気球が、明確な『推進力』を持って、向かい風を押し除けながらグンッと前へ進み出したのだ。
「……進んだ! 風に逆らって、船が自らの意思で進んでいるぞ!!」
モンゴルフィエ兄弟が、抱き合って涙を流している。
「ラジエーターの冷却効率、計算通り完璧だ! 排出された蒸気が一瞬で水滴に戻り、タンクへ還流している! これなら燃料と水は、ドーバー海峡の往復に十分すぎるほど保つぞ!!」
ルイが各種メーターを睨みつけながら、オタク特有の早口で絶叫した。
「目標地点、イギリス海峡封鎖艦隊の旗艦上空! 進行方向、北西! ……現在の対地速度、およそ時速三十キロ! 圧倒的なスピードです!」
アーサーが羅針盤と地図を見比べながらナビゲートする。
「最高よ、みんな!!」
私はゴーグルを目深に装着し、前方に広がる果てしない大空を指差した。
「大英帝国の誇る無敵艦隊に、フランスの『胃袋を支配する最強の兵器』をお見舞いしてやるわ!
さあ、行くわよ!! 『第一回・大空の飯テロ・オペレーション』、全速前進!!」
「「「イエス、マイ・マム!!」」」
漆黒の流線型の船体は、プロペラの轟音と蒸気の白い尾を引きながら、フランスの大地を越え、真っ白な雲海の中へと力強く突入していった。
マリー・アントワネット、24歳。
彼女の「絶対に飢えない、殺されない」という泥臭い執念は、物理の壁と18世紀の技術限界を突破し、ついに人類未踏の『航空優勢による超ド級の宅配デリバリー』へと、その舞台を大空へ移したのである。
待ち受けるのは、荒れ狂うドーバー海峡の風と、イギリス最強の艦隊。
フランスの存亡を懸けた、前代未聞の空爆作戦が、今まさに幕を開けようとしていた。




