第96話 ジョゼフのはじめてのおつかい
兄ヨーゼフの軍事的な陽動と、極寒の雪山をも己の筋肉と気合いで強行突破したフェルセンの決死の密輸作戦のおかげで、対仏大同盟の圧力は一時的に緩和されていた。
チュイルリー宮殿の大広間に広がる『王立工場』は、外部からの干渉を一切遮断した「ホワイト自給自足要塞」として、今日もけたたましく、そして規則正しい稼働音を響かせている。
イギリスからの木綿輸入ストップに対抗するため、国内産の亜麻を使った新しい『自動紡績機』のライン構築が急ピッチで進められていた。
「……計算が合いません。第3ラインの紡績機の回転数が、理論値より5パーセント低下しています」
管理室で、ナポレオンが懐中時計と計算尺を手に眉をひそめた。
「ああ、それは僕のせいだ!」
煤だらけの作業着姿のルイが、慌てて図面から顔を上げた。
「動力の伝達に使っているメインギアの摩耗が予想以上に早くてね。今、より硬度の高い特殊鋼で『マスターギア』を削り直したところなんだ。これを第3ラインの動力部に組み込めば、回転数は完璧に元に戻る!」
ルイは、ピカピカに磨き上げられた直径十センチほどの重厚な歯車を掲げた。
「よかったわ! じゃあ、すぐに第3ラインの責任者のカトリーヌに届けて……」
私が言いかけたその時、管理室の扉がバンッと元気よく開き、「ママン! パパ!」と甲高い声が響いた。
「ジョゼフ!」
特注のデニム・サロペットに身を包み、頭には「安全第一」と書かれた革製のミニ・ヘルメットを被った我が息子。
彼はタッタッタッと、2歳児特有の小走りで、しかし極めて体幹の安定した足取りで駆け寄ると、ルイの手からその『マスターギア』を両手でガシッと奪い取るように受け取った。
「ジョゼフがやる! はい、どーぞする!」
ジョゼフは、自分がパパの作った部品を届けるのだと言わんばかりに、小さな胸を張ってドヤ顔を決めた。
さらに彼は、私が労働者たちの休憩時間のためにバスケットに詰めていた『特製・大豆とポテトのスタミナマフィン』の取っ手も、短い腕に引っかけた。
「お、おいジョゼフ! それは2歳には重すぎるぞ! パパが持っていくから……」
ルイが慌てて手を伸ばすが、ジョゼフは「イヤ! ジョゼフの!」と体を捻って拒否し、マフィンと歯車をしっかりと抱え込んだ。自己主張の塊、恐るべきイヤイヤ期である。
「……王妃様、陛下」
ナポレオンが、ふと面白い実験を思いついたような目を細めた。
「これは良い機会かもしれません。殿下に『はじめてのおつかい』を任せてみてはいかがですか?」
「おつかい!? 工場の第3ラインまで!? ジョゼフにはまだ早いわ、あそこは巨大な機械が動いていて危険だし……走って転んだりしたら!」
「ご安心を、アントワネット!」
ルイが、壁際に設置された巨大な潜望鏡のような『複数の鏡と真鍮の筒』が組み合わさった装置を指差した。
「僕が工場全体の動線を監視するために作った『全天候型・多角反射式モニター』だ! これを使えば、管理室にいながらにして、ジョゼフの足取りを死角ゼロで見守ることができる!」
(……出たわね、過保護なオタクパパの執念の監視カメラ!! 18世紀になんて物を作ってるのよ!)
「それに」とナポレオンが冷徹に付け加える。
「現在の労働者たちの疲労度はピークに達しつつあります。次期国王たる殿下自らが、部品と慰問の品を届ける……。これ以上の『福利厚生』と『士気の向上』の起爆剤はありません」
私は少し悩み、ジョゼフのキラキラと輝く自信に満ちた瞳を見つめた。
過保護に育てるだけが愛情じゃない。彼はフランスの未来を背負う男の子なのだ。
「……分かったわ。でも、走っちゃダメよ! 危なくなったら私が1秒でダッシュして助けに行くわよ!」
「わかったー!」
ジョゼフは元気よく返事をすると、ヘルメットの紐をキュッと直し、管理室の扉から広大な地下工場へと意気揚々と駆け出していった。
管理室の巨大なペリスコープのモニターの前で、私とルイは息を呑んでジョゼフの姿を追っていた。
「……ああっ! 蒸気パイプの段差が! 転ぶ、転んでしまうぞ!」
ルイがハンカチを噛み締めながら悲鳴を上げる。
だが、モニターの中のジョゼフは、私が徹底的に叩き込んだ『幼児用パルクール・トレ』と、『一升芋の儀式』で鍛え上げられた強靭な下半身のバネを活かし、「とうっ!」と見事に段差をジャンプして乗り越えた。
「よ、よしっ……! 着地で体幹がブレていない! さすが僕たちの息子だ!」
「当たり前よ! 毎日のポテトと大豆プロテインの賜物だわ!」
ジョゼフが地下工場の通路をずんずんと進んでいく。
その周囲では、屈強な労働者たちが巨大なハンマーを振るい、熱い蒸気が立ち込めている。
だが、ジョゼフの姿を見た瞬間、工場内の空気が劇的に変化した。
「お、おい見ろ……! 王太子殿下だ!」
「天使……いや、妖精さんが歩いているぞ……!」
ドカッ! バキィッ!
労働者たちは、ジョゼフの進行方向にある少しでも危なそうな資材や工具を、目にも留まらぬ速さで――ある者は筋肉の力で、ある者はスライディングで――道端へとスワイプし始めたのだ。
「殿下のお通りだァァッ!! 道を開けろ! 埃を立てるな!!」
「おいそこのお前! 殿下の耳に響くから、ハンマーを叩く音を三オクターブ下げろ!!」
「「「イエス、ボス!!」」」
モーセの十戒のごとく、ジョゼフの行く先から一切の障害物が消え去り、ピカピカに掃き清められた「絶対安全な花道」が形成されていく。ジョゼフは両脇に控える大男たちに向かって「おちゅかれー!」と愛想よく手を振って歩を進めた。
屈強でむさ苦しい男たちが、ジョゼフが通り過ぎるたびに「ああっ……尊い……」「今日の疲れが全部吹き飛んだ……」と、涙を流しながら膝から崩れ落ちていた。
「……なんという光景だ。恐怖による支配ではなく、『愛らしさ』による大衆掌握。殿下は、生まれながらにして人の心を操る天才的カリスマをお持ちのようだ」
ナポレオンが、戦術ノートに『可愛さは最強の兵器なり』とメモを取っている。
「しゅっしゅっぽっぽー!」
ジョゼフは、時折吹き出す蒸気に「あちち、だね!」と眉を下げながらも、ついに目的地の第3ラインへとたどり着いた。
「……あ、あれ? 部品の到着が遅いね。このままじゃ今日のノルマが……」
自動紡績機の前で、額の汗を拭いながらカトリーヌが焦っていた。
そこへ、背後からタタタッ! と元気な足音が近づく。
「カトリーヌ! はい、どーぞ!」
「ん? 誰だい……って、えええええっ!?」
振り返ったカトリーヌは、自分の膝の高さにいる小さな現場監督を見て、目玉が飛び出んばかりに驚愕した。
「殿下!? ど、どうしてこんなむさ苦しい工場に!?」
ジョゼフは「ニパッ!」と極上の笑顔を浮かべると、両手で大事に抱えていたピカピカの『マスターギア』を、カトリーヌの大きな掌にコロンと乗せた。
さらに、腕に引っかけたバスケットの中から、まだほんのり温かい『ポテトと大豆のマフィン』を取り出し、「んま! たべる!」と言って差し出した。
「これ……陛下が削り直した主歯車! それに、王妃様特製の差し入れ……! それを、殿下がご自分の足で、アタイらに届けてくれたっていうのかい……ッ!?」
カトリーヌの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「お、おいみんな! 見ろよ!! 王太子殿下が、わざわざおつかいに来てくださったんだぞ!!」
カトリーヌの叫びに、第3ラインの労働者全員が振り返った。
過酷な肉体労働で張り詰めていた彼らの心が、二歳児の無垢な優しさと、王室からの圧倒的な「信頼と感謝」によって、打ち砕かれた。
「うおおおおおっ……!! 殿下ぁぁぁぁっ!!」
「俺たちは、俺たちはなんて幸せな労働者なんだ! 王室の宝が、俺たちの職場を気にかけてくださるなんて……!」
屈強な男たちが、油まみれの顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、ジョゼフの前で次々と膝をつき、男泣きに泣き崩れた。
「泣いてる暇はねぇぞ野郎ども!! 殿下からの差し入れを腹に入れな!! そして、陛下が削ってくれたこの完璧な歯車を機体に組み込むんだ!! 今日からアタイらは、ただの労働者じゃねえ! 殿下の笑顔を守る『親衛隊』だ!!」
「「「オオォォォォォォォッ!! 王太子殿下、万歳!! ホワイト工場、永遠なれェェェッ!!」」」
ガシャンッ! グオォォォォォンッ!!
組み込まれたマスターギアが完璧に噛み合い、自動紡績機がこれまで以上の、凄まじいスピードと滑らかさで稼働し始めた。
労働者たちの目は血走り、疲労感など微塵もない。
「殿下のために1ミリのミスも許さねえ!」と、彼らはアドレナリンとドーパミンを全開にして、鬼神のごときスピードで亜麻を紡ぎ始めたのだ。
ペリスコープのモニター越しにその光景を見ていた私は、感極まってルイの胸に飛び込んだ。
「やったわ、ルイ! ジョゼフのおつかい、大成功よ!」
「ああ! みんなの心が一つになった! 君の言っていた『福利厚生』の究極の形が、ここにあったんだね!」
ナポレオンは、猛烈な勢いで跳ね上がる生産量のグラフを見つめ、震える声で呟いた。
「……生産効率、驚異の300パーセント増。疲労度によるミス、ゼロ。……信じられない。給料を倍にするよりも、休日を増やすよりも、たった一人の二歳児の『はい、どーぞ』が、これほどの労働意欲を爆発させるとは。……計算式が、根底から崩れ去っていく」
冷徹な合理主義者であった九歳の神童は、この日、「人間の感情と愛」という、数字では決して測れない強大なパワーを、その身に深く刻み込んだのであった。
「ママン! パパ! できたー!」
しばらくして、空っぽのバスケットを腕に引っかけ、満足げなドヤ顔で元気いっぱい走って戻ってきたジョゼフを、私とルイは涙と鼻水まみれになりながら力いっぱい抱きしめた。
「偉かったわね、ジョゼフ! 最高の現場監督よ!」
「ありがとう、君はフランスの英雄だ!」
「きゃはははっ!」
マリー・アントワネット、24歳。
四面楚歌の封鎖網の中で、彼女の息子は「世界で一番尊いおつかい」を成し遂げ、労働者たちの心を完璧に一つに束ね上げた。
国内の自給自足ラインは限界突破の稼働を始め、フランスはついに、大同盟への『経済的反撃』に向けた巨大なエネルギーを充填し終えたのである。




