33 クスノキの祝福
マルスは、館に戻って来た主の変化にいち早く気付いた。
「お帰りなさいませ」
玄関から入ってきたヴェーヌの隣にユリウスがぴったりと付いている。主の性格なら、内心は喜びつつも「離れろ」と言葉と手で制しながら距離を取る。ところが、今のヴェーヌは、それを安心して受け入れているのだ。
主を刺激したいわけではないが、今、言わなければ一生言いそびれて終わる。マルスが機会を逃すわけはなかった。
「ヴェーヌ様、ユリウス様、おめでとうございます」
「あ…ああ」
ヴェーヌがぎょっとしてマルスを見、赤面して下を向き、小さく応えた。
ユリウスは、いつもと変わらぬ優雅さで、頷く。
「ありがとう、マルス。先程、結婚の誓いを立てた。今日からはヴェーヌの夫だ」
「ユリウス様、我が主を末永くよろしくお願いいたします」
「ああ、こちらこそ、よろしくお願いするよ」
ユリウスは、ヴェーヌに寄り添いながら、心底嬉しそうな笑顔になった。
ユリウスが自分にぴったりと寄り添っているお陰で、ユリウスの表情は気配でしか分からない。気配でしかなければ、その美しく歓喜に輝く笑顔に射殺されることはない。ヴェーヌは暫くユリウスの顔を見ないようにしようと心に決めた。
さて、一週間の休暇だ。逆に言えば、一週間後には、否が応でも先王夫妻とホワイエ侯爵一家を暗殺した犯人を突き止めるために動かなくてはならないのだ。
もともとが定職を持たず、関わる人々を見守りながら祝福を与えてきたユリウスも、北の館で魔法の研鑽と研究の傍らアウフ王国を人知れず守護してきたヴェーヌも、休暇と決めたからには疲れを癒し、先のことに思い煩わずにゆっくりと過ごしたい。二人は互いに確認はしなくとも、それぞれにそう思っていた。
「マルス!マルス!」
ヴェーヌが二階の私室から大声でマルスを呼んだ。いつものことだ。
「どうされましたか、お嬢様」
部屋の入口に礼儀正しく立ち、マルスが応える。
「お嬢様はやめろ!」
いつもの雑然とした部屋の資料の山の陰から、ヴェーヌのいつもの台詞が飛び出す。
マルスは、気を取り直して問い直した。
「では、改めまして、どうされましたか、奥様」
ヴェーヌは、マルスの言葉に驚き、資料の山から頭を上げて聞き返す。
「お…奥様?何だそれは」
思わず聞き返したヴェーヌだったが、そうだった…結婚したのだった。
「奥様もやめろ。マルスはわたしの使い魔だ。ユリウスの使い魔ならともかく、奥様呼びはやめろ」
何だ、つまらない。マルスはわざとそんな表情を作って見せた。
「資料探しを手伝ってくれ」
「ヴェーヌ様、もうすぐお昼ですよ。お食事をされてから探し物をされてはいかがですか?」
ヴェーヌは、部屋の壁に掛かる時計を見た。なるほど、昼食を先にした方が捗りそうだ。
「ユリウス様にもお声掛け下さい。5分もあればお昼の支度ができますから」
そういえば、ユリウスはどこだろう?近くを散策してくると出て行った気がする。ちょっと気になる魔法があって、資料探しを始めたらユリウスに声をかけられた気がする。しかし、よく憶えていない。まあ、腹が減ったら自分で帰って来るはずだ。ヴェーヌは、そう結論づけた。
「まさか、放っておけば、そのうちにユリウス様が帰ってくると思っていらっしゃいますか。今すぐに、魔法で居所を突き止め、お迎えに行ってくださいな」
マルスの、使い魔というよりもガヴァネスのような威厳たっぷりの言葉に、ヴェーヌは従わざるを得なかった。
さて、魔法の鏡は割ってしまったし、どうやってユリウスを探すか…。
ヴェーヌがぽんやり考えていると、マルスがぴしゃりと言い放った。
「水晶でも水鏡でも、鳥の目でもいいじゃないですか。ウーヌスを呼びつけて飛ばしてもいいですよ。迷っていないで、とっととおやり下さい。5分後に昼食ですよ」
マルスは、そのまま台所に姿を消した。
ヴェーヌは、そのまま外に出た。手近に鳥がいれば、その目を借りて北の地一帯を上空から眺めても良かったが、生憎、鳥の気配はない。
森中の動物達に思念を飛ばしてユリウスの行方を尋ねることもできたが、だったら自分の思念をそのままユリウスに飛ばすか。突然、思念を飛ばされて、たじろぐユリウスではなかろう。
ヴェーヌは、魔法で小さな空気の球を作る。透明だから人が見ても見えない。その空気の球に自分の声を吹き込む。
「ユリウス、ユリウス、昼食だ。すぐに戻ってこい。今すぐだ。遠いか?どこにいるか伝えてくれたら、迎えに行くぞ」
声を閉じ込めた空気の球を、今度はぐんぐん膨らます。ヴェーヌの背丈程に膨らんだ空気の球を、頭上高くに魔法で持ち上げて指をぱちんと鳴らすと、空気の球は破裂して親指程の小さな空気の球になって四方八方に飛び散った。
館から半径3キロ周辺に満遍なく届くように調節してある。生き物にぶつかると弾けてヴェーヌの声が聞こえるはずだ。ユリウスにもきっと届くだろう。
あちこちで空気の球が弾け、ヴェーヌの声が響いた。響いたと言っても、声はささやかで、まるで風が通り抜けるように消えてゆく。
返事を待つヴェーヌの耳元に、ユリウスの声が弾けた。空気の球は返事の声を包むと、ヴェーヌの元に戻ってくる仕掛けだ。
「館から北東にある一番大きなクスノキの所にいる。迎えに来てもらえるかな」
北東のクスノキなら、ためらわず飛んで行ける。ヴェーヌは短い呪文を唱え、すぐさま北東のクスノキまで魔法で移動した。
果たして、ユリウスはクスノキの前に立ち、そのすぐ後ろにヴェーヌが現れた。
「ヴェーヌ、迎えに来てくれてありがとう」
ユリウスは、ヴェーヌの気配に振り返り、礼を言う。大きなクスノキがさわさわと葉を揺らす。いつもと様子が違う。ヴェーヌは、思った。
「ユリウス、クスノキに何かしたか?いつもと違うが…」
「少し…クスノキにしては元気がなかったから、祝福をしたよ」
ヴェーヌは、ユリウスの祝福について、少し運がよくなる程度の認識だったが、どうやら違うらしい。見上げるクスノキは一見いつも通りだが、側に立つと不思議な存在感を放ち、その生命力に圧倒された。気持ちのよい波動がヴェーヌにも届く。葉ずれの音も、クスノキが纏う鳥や虫、小さな生き物達も、クスノキの力で満たされていた。
「凄いな」
ぽつりとつぶやいたヴェーヌの言葉をユリウスが拾う。
「ヴェーヌの魔法に比べたらささやかなものだよ」
静かに、ユリウスはヴェーヌに肩を寄せた。ヴェーヌはクスノキを見上げたまま、ユリウスと共に魔法で北の館の玄関ホールへと、一瞬で移動した。




