31 口づけ
ヴェーヌは、マルスがユリウスに放った言葉を気にしないように努め、食事を済ますと足早に館の外に出て行った。
館の外は緑に溢れ、心地よい空気が広がっている。北の館は街から少し外れた森の入口に建っている。ヴァルムートとレイシアが慈しんだ北の森だ。
起きてすぐ朝食を取り、外に出て深呼吸をすると、森を散歩する、これがヴェーヌの日課だ。
歩き出したヴェーヌの横に当然のようにユリウスが並んだ。気持ちの良い木々の間に続く小道を、ヴェーヌは、ゆったりとした気分で歩く。大好きな場所に、永く再会を待ち焦がれたユリウスと共にいる。緊張や興奮は昨日済ませた。今はただ、静かな幸福で全身が満たされている。
並ぶユリウスは、平静を装いながら、僅かに緊張していた。一度決めたことは翻さない頑固なヴェーヌに、婚約解消を取り消させたい。これまで、ユリウスの周囲には、ユリウスの言葉に否という人間はいなかった。それは、全てのものに祝福を与えることのできるユリウスにとって当然の環境だった。その美しさも、人を惹きつける魅力も、生まれながらに神から与えられていたものだった。
そんなユリウスに、ヴェーヌだけが否と言うのだ。
一緒に歩こうと手を差し出しても、払いのけ、一人で歩けると言い、先に歩を進める。転んだヴェーヌに手を差し出しても、一人で起きられると言い、気付くと軽やかに走り出している。それが、十七年前の、ユリウスが知っている小さなヴェーヌだった。自分の手の中で護ろうとしても、自分を曲げずに自由に進んでいく。
しかし、ユリウスは、ヴェーヌからの快い返事が欲しいのだ。進む小道の周囲に視線を向けながら楽しげに歩くヴェーヌに向かって、ユリウスは思い切って口を開く。
「ヴェーヌ」
「何だ?」
ユリウスに顔を向けたヴェーヌは、朗らかに返事をする。
「さっき、マルスが言っていた、一週間の滞在。許可をくれるかい?」
「ああ、構わない」
何だ、そんなこと。ユリウスなのだから断らずともいいのにとヴェーヌは思う。いつでも構わない。ずっといてくれて構わない。ユリウスなのだから当然だ。婚約解消を申し出たヴェーヌが、しかしユリウスの心理的立ち位置が全く変わっていないことに気付いていない。
「一週間後に、一緒に城に行って調査に協力してくれるかい?」
「ああ、構わない」
ヴェーヌは、ユリウスと一緒に仕事が出来ることが嬉しい。
「扉も、北の館と城を繋げてくれる?」
「ああ、構わない」
城と行き来できれば、ユリウスがいつでも会いに来てくれる。頼まれずとも繋ぐ気でいた。
「十七年待たせたけれど、わたしと結婚してくれるかい?」
「あ…あ?」
ヴェーヌの足が止まった。隣に並ぶユリウスも足をとめ、ヴェーヌの顔を覗き込み、もう一度同じ言葉を伝えた。
「わたしと結婚してくれるかい?」
ヴェーヌは、内心、あまりの驚きに大声を出しそうになるが、努めて冷静に言葉を返した。
「婚約は昨日、解消を申し出た。忘れたわけではないだろう?」
ヴェーヌの言う言葉に頷けば、話はそれまでだ。引くわけにはいかない。引かず、折れず、ひたすら伝えるしかない。ユリウスは、心を決めていた。
「分かっているよ。だから、いま、結婚を申し込んでいるんだ。『はい』と言ってくれないか」
「婚約は解消した。神様のお告げのお陰で、ユリウスの婚約者になって、幼い頃のわたしはホワイエ侯爵家のみんなに愛され、守られて幸せに暮らすことが出来た。わたしは、約束は十分に果たされたと思っている」
ヴェーヌの表情は、半ば泣きそうで、でもユリウスを気遣うものだった。
「ユリウスは、自由にしていい」
「そうだよ。わたしは自由にしている。だから、こうして、自分の幸せのためにヴェーヌに結婚を申し込んでいるんだよ」
怯まないユリウスに、ヴェーヌが怯む。
「結婚っていうのは、もっと、こう、なんて言うかさ…」
「なんて言うか?」
ヴェーヌの言葉をユリウスが優しく繰り返す。
「だから、もっと側にいたいとか、ずっと一緒にいたいとか、愛しくてたまらないとか…」
自分の挙げた言葉に、ヴェーヌは照れる。そして、言いながら、自分の気持ちが、その表現全てに当てはまり、ぎくりとする。
「わたしは、もっとヴェーヌの側にいたい。ずっと一緒にいたいんだ。ずっと愛しくてたまらないよ」
まるで、決められた芝居の台詞のように、照れもなくすらすらと愛の言葉を口にするユリウスを、ヴェーヌは空々しいと思う反面、嘘でもその言葉を自分に向けてくれたことが嬉しい。
しかし、そんな、ユリウスの言葉にヴェーヌは応えない。応え方が分からない。無言でただユリウスを見た。
先程まで、落ち着いて見えたユリウスの表情が、僅かに憂いを帯びた。自分が何の反応もしないことで、ユリウスを不安にさせたのだと、ヴェーヌには分かった。
ユリウスと会えなくなる前。物心ついてから八歳でユリウスと別れるまで、ユリウスはよく、ヴェーヌの額に口づけて言った。「大丈夫だよ、ヴェーヌ。ずっと側にいるよ」と。
「大丈夫だ、ユリウス。ずっと側にいる」
思い出を反芻し、思わず出た言葉だった。だから、その言葉を言ったヴェーヌ本人が驚き、赤面した。しかし、一度口から出たその言葉は、否定するわけにはいかない程、ヴェーヌの本心だった。
ユリウスは、一度瞬きをしてから、するりとヴェーヌを引き寄せて、思い出と同じように、その額に口づけた。そして、ヴェーヌの言葉を繰り返した。
「ああ、大丈夫だよ、ヴェーヌ。ずっと側にいる。もう二度と離れない。だから、赦してくれるかい」
結局は抗えない。ユリウスにも、神のお告げにも。ヴェーヌは、ユリウスに出会わせてくれた神に感謝した。
「ああ、構わない」
ユリウスがヴェーヌの手を取った。ヴェーヌは、ユリウスの両の瞳から視線を外すことが出来ない。二人は、惹き合うように顔を近づけ、今度は額ではなく、互いの唇に口づけた。




