30 朝の訪問者
北の館に戻ったヴェーヌは、そのまま自分のベッドにダイブした。ふかふかの布団は、マルスの手腕だ。洗い立てのシーツに、柔らかい掛け布団。しっかりと頭を支える枕の高さはジャストフィットだ。
「ヴェーヌお嬢様、お帰りなさいませ」
マルスは、既に布団に飛び込んだヴェーヌに声を掛ける。
「寝巻きにお着替え下さい」
「ああ、分かった」
いつもなら「お嬢様はやめろ」とひとこと言わずにはいられないヴェーヌだか、もう、そんな気力もない。
マルスの言うことを素直に聞き、しかし、不精をして着替えを魔法で済ます。
「あらあら、お嬢様、日常的な事柄は極力魔法を使わずに行うよう、ヴァルムート様に言い遣っておりますのに」
「今日は…いいんだ」
マルスは呆れ顔で自分の主人を見ていたが、すぐに静かな寝息が聞こえてきたので、聞きたかったことを諦めた。
「ユリウス様にお会いになって、どうされたのか…」
婚約を解消したか、結婚を決めたか、どちらかに違いないとマルスは考えていた。どちらに転んでも、大事な主人のために動くことは決まっている。マルスは、ヴェーヌのかわいい寝顔を見ながら、その幸せを願った。
「おはよう、ヴェーヌ。いい朝だよ」
意外にも、朝に強く早起きのヴェーヌだが、そのヴェーヌを起こす声がした。声の主が誰かを考えるより早く、反射的に体を起こす。寝起きがよいのがヴェーヌの取り柄だ。
ヴェーヌのベッドの脇に立っていたのは、にこやかだが、少し眠そうな顔をしたユリウスだった。北の館から王城のある王都まで、馬で一週間はかかる。一体どうやってここまで来たんだ?
「ホワイエ侯爵邸から来たんだよ」
ヴェーヌの疑問を見透かしたように、ユリウスが答えた。そうだった。あそこの扉は北の館に続いているのだ。
「昨日、約束しただろう?明日の朝、会いにくると」
「婚約は解消だ。だから、約束ももう必要ない」
「十七年経っても、婚約者として扱ってくれるなんて思ってもみなかった」
少し眠気が残るのか、ぼんやりした笑顔のユリウスに、ヴェーヌでなくとも毒気を抜かれるだろう。しかし、ヴェーヌは、ユリウスに僅かに視線を向けただけで、さっさとベッドから下り、くるりと人差し指を回して、小さな魔法を次々繰り出した。
歩きながら寝巻きを黒いワンピースに着替え、ぼさぼさの髪を整え、温かい蒸しタオルを現して顔を拭き、使い終わったタオルを消し、私室の扉を静かに開け、滑るように階下へと降り立った。どれも一つ一つはささやかな魔法だが、まるで息をするように自然に繰り出された魔法は、やはりヴェーヌでなければ出来ない魔法だった。
そして、そのまま、台所兼居間のダイニングテーブルに着席すると、当然のようにマルスが朝食を運んでくるのを待った。
ヴェーヌの向かい側には、これもまた、何故か当然のようにユリウスが追いついて座った。
ヴェーヌの顔は笑っていないが、しかし、怒っているわけではない。自分の気持ちもユリウスの気持ちも測れず、困惑しているだけだ。
ほどなくマルスが朝食を運んでくる。ワンプレートにスクランブルエッグ、厚切りのベーコン、レタスと人参のサラダが添えられている。パンは別でカゴに盛られている。いつも通り、マルスの料理はシンプルなのに美味い。
食べているうちに、ヴェーヌは機嫌がよくなる。これも、いつものことだ。
向かい合い座るユリウスも、黙ってマルスの出した朝食を口に運ぶ。朝食を味わいながら、ヴェーヌの表情を観察し、ヴェーヌの頬が少しずつ頬の弛んできた頃合いで口を開いた。
「朝食が済んだら、王城と北の館を扉で繋げてくれないか」
優しく美しい声で、ユリウスが願いを口にすれば、誰でも喜んで了承する。
ヴェーヌとて、ユリウスの願いを断る気はない。それでも、食べる手は止めず、食べながら頷いた。
「あら、ユリウス様、扉なんて要りませんわ」
食事をする二人の側に、いつでも給仕ができるよう控えていたマルスが、しれっと口を挟む。
「ユリウス様がこのままこちらに住めばよろしいではありませんか」
「マルス、素敵な提案をありがとう」
ユリウスは、美しい笑みでマルスに感謝を伝えた。
「でも、国王陛下から、前国王の死因について調べるよう依頼された。調査が終わるまでは、ヴェーヌと一緒に城暮らしになる」
「わたしもか!?」
食べることに集中していたヴェーヌが顔を上げ、思わず大きな声で問い返した。
「ああ、陛下からの勅命だよ」
「…だから、迎えに来たのか」
内心、ユリウスの訪問に気持ちをくすぐられていたヴェーヌは、たちまち自分の気持ちが萎むのを感じた。
ユリウスは、分かりやすいヴェーヌの反応が嬉しい。しかし、ここで自分がその可愛らしさにくすりと笑えば、ヴェーヌは反発して天邪鬼な受け応えをすると容易に想像がついた。だから、努めて真顔で話を続けた。
「いいや。陛下は調査に関しては、それほど急いではいない。ヴェーヌが扉を作らず北の館に帰ったと報告したら、馬車を出すからヴェーヌを迎えに行けと頼まれた。でも、馬車で一週間もかけてはいられない。せっかく再会できたヴェーヌとできるだけ一緒にいたいからね。だから、急いだんだよ」
ユリウスの甘い言葉を真に受けて、口元を弛めるわけにはいかない。ヴェーヌは、ユリウスの言葉に無関心を装った。
「マルス、ご馳走様。美味しかった」
マルスが、食器を下げにテーブルまで進み出た。
「ユリウス様、馬車で一週間かかるなら、この一週間は休暇と思って北の館でごゆっくりお過ごし下さい」
マルスの頭は猫だが、手は人のそれだ。猫の手は仕事に向かない。
ヴェーヌとユリウスがそれぞれ使った2枚のプレートを重ねて、その上にカトラリーを載せると、空いたもう一方の手でパンの入っていたカゴを持ち、ちらりとユリウスを見た。
「ヴェーヌ様のベッドは大きいですから、ユリウス様が一週間ご一緒に使って頂いて大丈夫ですわ。枕を追加いたしますね」
二人の反応も見ずに、マルスは台所に向かった。
ヴェーヌは、マルスの言葉に内心狼狽えたが、カゴのパンに手を伸ばし、聞こえなかった風を装う。ユリウスは、ヴェーヌのそんな姿を愛でながら、マルスの言葉を笑顔で受け取り礼を言った。
「マルス、ありがとう」




