29 ユリウスの祝福
「ヴェーヌ、わたしは、この小さいレイシアに贈り物をしたい。少し待ってくれるか?」
シーシャの部屋から退出しようとするヴェーヌに、ユリウスが願い出た。
「ああ、少しなら待とう」
貰うばかりのユリウスが、珍しい。ヴェーヌは、そう思った。
ユリウスは、シーシャに抱かれたレイシアにそっと近づくと、その小さな額に手をかざし、何かを呟いた。淡い光のような何かがユリウスの手からレイシアの額に溢れ、そしてレイシアの中に入っていったように見えた。これは…。ヴェーヌは、ユリウスの横顔を見た。ユリウスのレイシアを見つめる眼差しは温かかった。
「今の手かざしと呪文は、何かの魔法ですの?」
シーシャに尋ねられると、何のこともなくユリウスが美しい笑顔で答えた。
「レイシアさまの誕生と幸せを願う、とりなしの祈りのようなものです。ルーウィツ公爵、公爵夫人、失礼した」
ユリウスは、ヴェーヌの方を向くと、微笑み、先に立って扉を開けた。ヴェーヌの後ろにジールが続き、その背後で、扉の内側に立っていた侍女の手により、静かに扉が閉められた。
三人は、ルーウィツ公爵邸のかつてのヴェーヌの部屋の扉をくぐり、城に戻ってきた。
「わたしは、これから急ぎ宰相に会い、兄上の死因の確認をしたい。扉の件はヴェーヌ殿に任せた。ユリウス卿も見届けてくれ。明日、報告を頼む。では、失礼する」
ジールは落ち着かない様子で、二人の元から去った。
ヴェーヌは、ヴォルトの作った出来損ないの扉を、自分の魔力で力任せにべりべりと剥ぎ取ると、左の人差し指でくるりと小さく円を描き、もともとの扉に戻した。
「これでいい」
ヴェーヌは、両手を腰にあて、元通りになった扉を仁王立ちで眺めて満足そうに頷いた。
「うん。これで元通りだ」
「ありがとう、ヴェーヌ」
ユリウスが礼を言う。
「礼は不要だ。これは、ルーウィツの失態の後始末だからな。わたしにも責任がある。それより…」
それより、長かった一日がやっと終わる。昨夜、魔法の鏡を覗きながら、ルディウス王子を奪うついでに、ユリウスに会うと決めた。
「わたしは、北の館に帰る!」
ユリウスの存在に後ろ髪を引かれつつ、温かい布団にくるまり眠る欲求にはヴェーヌも抗えない。
「扉を作って帰ればいいよ」
扉を望んだのは国王だ。しかし、ヴェーヌは国のために働く意志はない。そして、扉がなくてもヴェーヌは帰れる。ただし、扉がなければ、自分からユリウスに会いに城に来なければいけない。
「…扉を作ったら、ユリウスは北の館に来るか?」
小さな声でぼそぼそとヴェーヌが言った。自分らしくない言葉だと、ヴェーヌは思う。
「毎朝、ヴェーヌの顔を見に行くよ」
優しい眼差しでユリウスが言った。
「いっ…今すぐ、城から扉を作るのは難しい。北の館にはあまり扉がないから…。わたしが北の館に戻って向こうから、この西奥の扉を繋げる。ジール王にそう伝えてくれ」
別に愛の告白をしているわけではないのに、ヴェーヌは恥ずかしくて、どんどん顔が赤くなっていくのが分かる。全身がむずむずして、今すぐここから逃げ出したい気持ちを、ぐっと堪えた。
ユリウスは、そんな風に赤くなるヴェーヌを十七年前はよく見ていた。今更だが、ヴェーヌを愛しく感じていた。
「ヴェーヌは、大人になっても愛らしいね」
するりと本音が漏れて、ユリウス自身も驚いた。
「!?」
ヴェーヌは、ユリウスより更に驚き、真っ赤になって二の句も告げぬまま、魔法で姿を消そうとしたが、先程の光景を思い出し、この場に止まった。そして、ゆっくりと深呼吸をして態勢を整えると、今度は目を逸らすことなく、ユリウスを見た。
ヴェーヌは一歩、前に進み出た。ユリウスに対峙する形だ。二人の距離が近い。
「ユリウス」
真面目な顔でヴェーヌがユリウスの名を呼んだ。
「何だい?ヴェーヌ」
ユリウスの応える声はびっくりするほど甘い。
「レイシアへの贈り物は祝福だった。あれはユリウスの加護か?」
ヴェーヌのその問いは、ユリウスにとってさほど大事ではなかった。期待していたのは、ヴェーヌからの甘い言葉だった。ユリウスは期待外れで少しばかりがっかりした気持ちで答えた。
「わたしは、人に祝福を与えるように定められているんだよ。神様のお気に召すように働いているのさ」
「いつから?」
「ずっとだよ」
「そうか…気付かなかった」
「それは、ヴェーヌの前では、誰かに祝福を贈ったことがなかったからだよ。ああ…でもサッシャに祝福を贈ったのは気付かなかった?」
「豚になったときか?あの口付け…」
ユリウスは、にこりと微笑みヴェーヌの顔に両の手を伸ばした。
「ヴェーヌにも、祝福を」
ユリウスの顔が近づいてきた。このまま、なされるがまま身を任せれば、ユリウスはヴェーヌに優しく口付けるに違いない。
間近に迫るユリウスの美しい顔に、ただ魅入られただけの女なら、目を閉じてその唇を迎え入れただろう。しかし、ヴェーヌが欲しいのは、祝福ではない。ユリウスの心が自分を求めていなければ、意味がないのだ。
「祝福は不要だ」
ユリウスの両の手を引き離すように、ヴェーヌは険しい顔で、一歩後ろに退いた。
「お前には、ルゼがいる」
別に、亡くなった妻を永遠に愛し続けろとは言わない。しかし、ヴェーヌとユリウスは十七年の年月を経て、今日、やっと再会したばかりだ。懐かしさや同情や、ましてや婚約者としての義務で口付けられるなんて、ヴェーヌには耐えられなかった。
「婚約は解消する」
こんなことは言いたくなかった。ユリウスの側にいることを許されるただ一つの約束だったのに…。口に出した言葉に、ユリウスよりもヴェーヌが傷ついた。その証拠に、ヴェーヌの両の目から、はらはらと涙が溢れ落ちていた。
ユリウスを睨みつけながら 涙を溢すヴェーヌの姿に、ユリウスの胸は痛んだ。憎悪ならば思い切り頬を叩かせてやればよかった。哀れみならば縋るように跪けばよかった。しかし、ヴェーヌの涙は悲しみに満ちていて、再び会えたことで安堵したユリウスの心を大きく揺さぶった。
そんなユリウスを残し、ヴェーヌの姿は不意に掻き消えた。




