23 鏡の向こう
「わたくし、ザウツ帝国のクロイスハルト・フォン・アルトマイヤー殿下の元に輿入れ致しますわ」
見も知らぬ他人の名前「クロイスハルト・フォン・アルトマイヤー」を口にしたとき、モニカの心にちりちりと、微かな歓喜が走った。どうしたのかしら?モニカは訝り、もう一度、その名を口にしてみた。
「クロイスハルト」
モニカの記憶の中から、ふいに、一夜を共にした男の顔が立ち上がった。「まさか」と思う。
「お祖父様、わたくしが嫁ぐクロイスハルト様の姿を魔法で映すことはできますか?」
モニカは祖父に頼んだが、祖母レイシアが応えた。
「それなら、魔法の鏡に見せて貰えばいいわ」
ヴァルムートは黙って魔法の鏡を持ってきた。
居間の壁に立て掛けた古惚けた鏡に向かって、モニカは話しかけた。モニカはもちろん、鏡をおだてるために、恭しく話しかけた。
「賢く、気高い鏡よ。この愚かな力無き娘にその尊い力をお貸し下さい」
モニカの言葉に、気を良くした鏡が生意気な口調で応える。
「なんだ娘。お前の願いを言ってみろ」
「ザウツ帝国のクロイスハルト・フォン・アルトマイヤー殿下の姿を、映して頂けませんか」
「なんだ、そんなことか。お易いご用だ」
モニカの顔を映していた鏡面がぐにゃりと歪む。歪んだ鏡面の映像がゆっくりと歪みを解くと、鏡にはモニカの見知らぬ場所が映し出されていた。その部屋は、パルフェ家の素朴で簡素な室内とも違い、ルーウィツ公爵家の明るく華やかな室内とも違う。重厚で落ち着いた誰かの私室だ。低く静かな扉を開く音。いや、鏡は音までは伝えない。扉が開いたとき、モニカには、なぜか静かな音が響いた気がしただけだ。
するりと部屋に入って来た黒髪の男の顔が、こちらに向かないかとモニカは男を凝視した。
「この方がクロイスハルト?」
モニカは鏡に問うように小さな声で呟いた。
鏡が映していたのは、誰かの私室の左奥、壁に沿って置かれた姿見に映された景色だった。姿見から離れた、その部屋の扉を開けて部屋へ入って来た男が、モニカの呟きに反応したように、ちらりと鏡に視線を向け、つかつかと鏡の前まで進み出た。
それは、やはり、モニカと一夜を共にしたあの男だった。
クロイスハルトは、鏡越しにこちらを覗き込むように、こちらへ視線を向けた。
モニカとクロイスハルトの視線が合った。
クロイスハルトから視線を逸らせないまま、モニカは鏡に尋ねた。
「わたくしの姿は、あちらへは見えないはずよね?」
「まぁね。極々たま〜に、魔力の強いのや、覗いてる相手と波長の合う奴には、こちら側が見えちゃうみたいだけどね」
クロイスハルトがにこりと微笑んだ。その唇がゆっくりと動く。
「早く、わたしの元へおいで」
声は聞こえない。でも、確かにクロイスハルトは鏡の向こうのモニカに向かって、柔らかな笑顔を作り、そう言った。
モニカは目を伏せ、鏡に背を向けた。自分でも制御できない鼓動の速さに、ただ息を深く吸い込んで、鏡に向かって告げるしか出来なかった。
「見せて下さり、ありがとうございました。もう、よろしいですわ」
本当はもっと鏡を覗いていたかった。クロイスハルトの瞳を見つめていたかった。
しかし、目が離せなくなるのも、恋情が募るのも、モニカには耐えがたかった。
レイシアの腕の中でヴェーヌが目を覚ました。モニカの動揺を感じ取ったのだろうか。
「わたくし、ザウツ帝国のクロイスハルト・フォン・アルトマイヤー殿下の元に輿入れ致します」
モニカは、再び口にした。
レイシアは、そんな孫娘を優しく見つめた。
「あの方がヴェーヌの父ですか」
「ええ。ええ」
モニカは、消え入りそうな声で答え、小さく頷いた。
「ヴェーヌと共に行くか」
ヴァルムートの問いかけに、モニカの動きが止まる。モニカは、じっとヴァルムートを見つめ、それからゆっくりと大きく頭を振った。
「いいえ、共には行けません」
ヴァルムートは、孫娘を哀れだと思う。見知らぬ場所へ、遠く国境を越えて嫁ぐのだ。せめて、産んだばかりの娘と共に行かせてやりたい。
「一目見ればあの男の娘だと分かる。連れて行っても問題なかろう」
「いいえ」
モニカは知らず溢れる涙を拭いもせず、真っ直ぐにヴァルムートを見て、言った。
「ヴェーヌは、神様のお告げで、ユリウス・ホワイエ様と婚約することが決まっています」
「それは、ヴェーヌが大人になってからでもよかろう」
「いいえ、ザウツ帝国に行けば、ヴェーヌはユリウスと婚約出来なくなりますわ。ザウツ帝国がヴェーヌを必ず囲い込みます。それ程にヴェーヌの魔力は大きいのです」
魔力を見ることが出来るモニカだからこその言葉だった。
「向こうは、魔力を軽んじ、武力で他国を制圧する国だ。ヴェーヌの魔力は気にしないに違いない」
「お祖父様、お祖父様はなぜ、爵位を拒否したのですか?」
モニカの問いに、ヴァルムートは言葉に詰まる。
貴族になれば王命には逆らえない。自由でいるために爵位を拒否したのだ。
「帝国の王子の娘となれば、国の手駒ですわ。ましてやヴェーヌ程の魔力があれば、魔力を重んじない国でも、これを利用しないわけがありません」
「そう…だな」
ヴァルムートもモニカの言葉を認めるしかなかった。
「神様は、きっと、ヴェーヌにアウフ王国を守って欲しいのではないでしょうか。お祖父様とお祖母様がアウフ王国の建国の力になったように、ヴェーヌの生まれながらの大きな魔力は、まだ建国50年に満たない、若きアウフ王国のためにあるのでしょう」
「そうか。そうだな」
ヴァルムートは、浅はかな自分を恥じた。
「モニカ、この鏡を嫁入り道具に持って行ったらどう?いつでも、ヴェーヌの様子が見られるわ」
レイシアがとりなした。
「ありがとう、お祖母様。でも、その鏡はこの家に置いておいて下さい」
モニカは、居間の壁に立て掛けた魔法の鏡に向かって話しかけた。
「賢く、気高い鏡様、わたくしの娘ヴェーヌが物心ついて…」
モニカは、ヴェーヌの両親として、自分とクロイスハルトを鏡で映して欲しいと頼むつもりだったが、思い直した。
「いえ…ヴェーヌが物心ついて、会いたいと強く願う人ができたなら、鏡の向こうにその方を映して下さるかしら」
わたくしに、クロイスハルト様を映して下さったように。モニカは、ヴェーヌが愛しく慈しむ相手と巡り合うことを願った。
「ああ、引き受けた」
「鏡様、ありがとうございます」
モニカは、レイシアの腕の中にいるヴェーヌを、愛おしそうに見つめてから、真剣な表情で祖父母二人に向き直った。
「お祖父様、お祖母様、ヴェーヌをよろしくお願い致します」
それきり、ヴェーヌの出自については、モニカはもちろん、ヴァルムートもレイシアも口を閉ざした。モニカの両親も兄達も、ヴァルムートとレイシアの間に現れた赤子の本当の母親について、推察は出来ただろうが、口を開くことはなかった。何しろ、モニカはザウツ帝国の王子に嫁ぐのだ。噂になることは許されなかった。
ただ一つの幸いは、モニカの輿入れが幸せなものであったということだ。
ザウツ帝国の第二王子クロイスハルトは、アウフ王国から輿入れした公爵令嬢モニカと、互いを尊重し支え合う、仲睦まじい夫婦となった。
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