16 王子様のキス
勝手口の扉をガチャリと開けて入って来たのはユリウスだった。
ユリウスは、目の前のサッシャと…いや、一匹の豚と対面した。
豚は翻って逃げようとしたが、ユリウスが呼び止めた。
「ハウンゼン侯爵夫人」
呼ばれたサッシャはピタリと止まった。まさか、豚の姿のサッシャを一目でそれと分かるとは、ユリウスは底が知れない。
しかし、ヴェーヌは、そうかもしれないと思っていた。何しろ、ユリウスは魔法使いでもないのに、ヴェーヌの使い魔ウーヌスとドゥオとトリアの言葉が分かるのだ。もしかしたら、どんな生き物の言葉も、ユリウスには分かるのかもしれない。
ブヒッ、ブヒッ、ブヒッ
「そうか、分かったよ。わたしが夫人にキスをすれば元に戻れるんだね。お安いご用だよ」
そう言ってユリウスは、ヴェーヌの見ている前で平然と豚のサッシャの頬に優しく口づけた。
サッシャは恥ずかしそうに目を伏せた。そして、魔法が解けるのを待った。
……
何も起こらない。
ブヒッ
またも、サッシャはユリウスに何かを訴えた。
「そうか、頬ではなく、口にしないといけないんだね。分かったよ」
ユリウスは、にこりと笑ってサッシャの…いや、豚の口に口づけた。
自分が蒔いた種とはいえ、ヴェーヌは、ユリウスとサッシャのキスシーンを目の前で見つめ、その光景にいたたまれない気持ちになった。
ユリウスは躊躇なく、快く、口づけた。その事実に、ヴェーヌは自分が覚悟していたにも関わらず動揺した。美しく、貴族令嬢としてのマナーも完璧(ユリウスのこととなるといささか疑問だが)なサッシャがユリウスに言い寄れば、ユリウスとてまんざらではないだろう。
一方、自分はユリウスにとって十七年前の八歳の女の子と変わらないに違いない。その距離感も、抱擁も、交わす言葉も、全てが昔のままだ。
サッシャは再び、恥ずかしそうに目を伏せた。ヴェーヌもユリウスもサッシャと共に魔法が解けるのを待った。
……
何も起こらない。
ブヒッ
またも、サッシャはユリウスに何かを訴えた。
「魔法は、解けないね」
ユリウスは、こんなことは何でもないというように、にこりとサッシャに笑いかけた。
「魔法を解くには、他に何か条件があるのではないのかな?」
……
サッシャは押し黙ったままだ。
そこで、ヴェーヌが口を出した。
「ユリウス、お前はサッシャから何と聞いたんだ?」
ユリウスは、ヴェーヌに親しみを込めた笑顔を向ける。
「わたしが夫人にキスをしたら、人間に戻れると聞いたよ」
「私は『豚のサッシャに気付いた者が、サッシャへの愛をこめてキスをしたら、人間に戻れる』と言ったのさ」
「愛を込めたキスでないと人間には戻れないのかい?」
「そうだ」
「では、わたしには無理だね。他の者に頼もう」
ブヒッ、ブヒッ
「ユリウス、サッシャは何と言っている?」
「うん?ヴェーヌに頼んで魔法を解くように説得してくれと言っているよ」
「それは無理だね。魔法は、掛けるときに解除条件も込みで掛けているから、解除期限まで待つか、解除条件を満たすかどちらかだ。無理に解こうとすると、誤作動で一生そのままになることもあるかもね」
“誤作動で一生“はヴェーヌが話を盛っただけだ。今すぐでも、ヴェーヌが解いてやることもできる。しかし、解いてやる気はもちろんない。期限が来れば解けるのだから、それまでゆっくりと待てばいい。
ブヒッ
「解除期限はいつなのかハウンゼン侯爵夫人は聞いているよ」
「半年後。いいだろう、半年なんてあっという間だ」
ブヒッ、ブヒッ、ブヒッ!
半年なんて、とても待てない!サッシャの叫び声が聞こえるようだ。
しかし、時間稼ぎとして半年は欲しい。アイズ・パーリッシュが正式にホワイエ侯爵領を継ぐことが決まるだろうし、その時にサッシャが新ホワイエ侯爵と結婚するというのか、平民のユリウスと結婚したいというのか、それはサッシャの自由だ。とにかく、今すぐでも魔法が解けることは絶対にサッシャには伝えない。ヴェーヌはそう決めていた。
「ところで、ユリウスは何の用だ」
「もちろん、ハウンゼン侯爵夫人を探しに来たんだよ。わたしは夫人がずっと豚でも構わないし、とりあえずお城に連れ帰るよ」
何気なくひどい言葉を言っている気がするが、ヴェーヌもそこは聞き流す。
「ああ、どうぞ、連れ帰ってくれ。用は済んだからな」
ヴェーヌの言葉と同時に、再び勝手口の扉が開いた。
「あら、ここは、どこ?」
扉を開けたのは、ルディウス王子を腕に抱いて、小さな女の子を連れたユリウスの娘ルゼだった。
「ああ、ルゼ。よく来たね」
ユリウスはルゼを歓迎する。
「父さん、ここはどこなの?わたしはホワイエ侯爵邸の父さんの部屋を出ようとしただけなのに…この廊下は、先程の廊下とは違うわよね?」
「ああ、ここはヴェーヌの住む北の館だよ。わたしの部屋の扉はここの勝手口の扉と繋がっているんだ」
「何で知ってるんだ?ジール王が話したのか?」
「ああ、陛下がわたしにハウンゼン侯爵夫人を探して来るように頼んだんだよ」
サッシャを探すならユリウスが適任だ。ヴェーヌは、ジール王を恨みたくなる。
「それで?ユリウスの娘はユリウスを探しに来たのか?」
「いいえ、わたしは、チェルシーがお母様に会いたいと泣いたので……」
「チェルシー?」
ヴェーヌが訝ると、ルゼは自分と手を繋いでいる小さな女の子に視線をやった。金髪碧眼のまるで人形のように可愛らしく小さな女の子は、誰が見てもサッシャの娘だった。
ブヒッ!
サッシャは、困ったように一声鳴いた。
「ママ!」
驚いたことに、サッシャの娘チェルシーは、一目でその豚が自分の母親だと分かったらしい。
まだ、やっと歩けるようになったばかりの一歳のチェルシーが、とことことサッシャの前まで歩み出る。
「ママ!」
ブヒッ!
チェルシーは、やっと会えた自分の母親に嬉しそうにキスをした。すると、たちまちヴェーヌの魔法は解けて、サッシャは元の美しい姿に戻った。
「チェルシー、迎えに来てくれてありがとう」
豚の姿が余程嫌だったのか、サッシャは涙目でチェルシーに礼を言い、ぎゅっと抱きしめた。




