月光・・・いつだって私たちはその優しさに気づかない⑫
今年の夏は特に長く感じる。
衰えを知らない暑さは永遠に続きそうで、「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。
子供の頃は夏が好きだった。
夏休みはもちろんだけど、夏色の町も空も公園の木々もすべてが好きだった。
かき氷や海やお祭り・・・
夏を盛り立てるすべてのものがキラキラしていた。
暑さに文句を言いつつ頑張った受験の時期や、ペットボトルの水で涼を取りながら仕事の打ち合わせに向かった夏も嫌いではなかった。
でも、仕事を無くした今年の夏、私は夏が嫌いになった。
キラキラしたイベントなどもちろんないし、暑さを我慢して得られる達成感もない。
朝起きて、カーテンの隙間から入る日差しが今日も強烈だとわかると「ああ、今日も暑いのか」とがっかりする。
日雇いのアルバイトに行くのは前ほど「面倒」ではなくなったものの、できたらエアコンの効いた自分の部屋で一日中まったりしていたい。
しかし、少しでも貯金が減るのを少なくするには、働きに出て行かなければならない。
簡単な朝食を済ませた後、日焼け止めを顔や首、腕にたっぷりと塗り込み、ハンドカバーをし、帽子をかぶった上に日傘をして、自転車は使わずに駅に向かう。
夕方から出かけるキャバ嬢の小雪ちゃんを羨ましく思う。
でも私にキャバ嬢は務まらないのはわかっている。
中年の男性と会話はとんでもなくエネルギーを使いそうだし、何より夜の世界では29歳の私のレベルは底辺だ。
そう思うだけで疲れ、日焼けは嫌だけど日雇いアルバイトの方がまだマシだと思ってしまう。
アルバイトはホテルの宴会場のウエイトレスや洗い場、工場の軽作業、コンビニなどから時間が適当なものを選ぶ。
与えられた作業をこなせばよく、人間関係は生まれてこないので気が楽だ。
しかし、ミスを犯せば担当者の表情が変わっていくのを感じる。一緒に働く同僚であれば、フォローの言葉があるかもしれないけど、使い捨ての機械のような日雇いには気を使う必要などない。「次は雇わない」と冷たいまなざしを向けるだけ。
退職したばかりの頃一晩中眠れないことがあった。
夕方からでも働ける日雇いのアルバイトがあると知り始めたのがきっかけだった。
仕事はやろうと思えばたくさんあり、体調のよいときは朝から働く。
「社会の底辺にいる」という思いが浮かんでくるのを気にしなければ、日雇いのアルバイトは便利だった。
しかし、いつも無気力さがあって、仕事は楽しくはなかった。
それにこの猛烈な暑さだ。
それでもほんの少し最近は働くのが楽しい。
暑い夏だっていつかは終わる。
和彦がずっと私を好きだった(かもしれない)という心の奥に灯ったおぼろげな灯り。それが自分を変えてくれることに驚く。
小雪ちゃんは約束どおり部屋に遊びに来てくれた。”星の木”のマスターとは
夏目漱石の本をもらって以来、挨拶だけじゃなく少し話しもするようになった。
少し元気になるとアルバイト先で働く人に話しかける気になった。仕事中に長く話すことはできなかったけど、一言二言話すだけで同じ作業がグンと楽しくなるのだった。
上原さんから電話があったあとの一週間を、そんなふうに生活がちょっと上向きになるのを感じて過ごした。
もちろん、上原さんが勧めてくれたマレーシアの会社への勧誘の話しは毎日のように考えた。
でも依然として行きたい気持ちと不安な気持ちは半分半分だった。
そして、銃撃事件があってから二週間目、和彦から電話がきた。
携帯のバイブに気がついたのは夜中の十二時だった。
「ごめん、寝てた?」
聞きたかった声が電話口から聞こえてくる。
「ちょっとした事件の巻き込まれちゃって、怪我してね、今一般病棟に移れたとこ」
「和彦?大丈夫なの?まだ痛いんじゃない?」
夜中にもかかわらず声が大きくなる。
「ちょっとした事件じゃないよ。大学での銃撃事件なんて大事件じゃない。日本のニュースでも流れたんだから」
「たまたま流れ弾が当たって、でもそれが急所が外れたもんだからこうして電話できてる。あと数センチずれていたら危なかったらしい」
「よかった、ほんと」
私は目の奥がジンと熱くなるのを感じた。
和彦は急所外れた、なんて言うけど、私は生死の境をさまよったことを知っている。
居酒屋での化粧をしたときのように白い、そして悲し気な和彦の顔を思い出していた。
「事件の後、なんと和彦と居酒屋でビールを飲んだんだよ。覚えている?」
「ああ、夢だと思ってたけど、エマとバッタリ会ってビールにつき合ってくれたんだよな。そういうことって本当にあるんだな」
まるで他人事のように和彦は話す。
「なんだ、絶体絶命なときに会いに来てくれたかと思って感動したんだけどそうじゃなかったんだ」
「そうじゃなかったわけでもないけど、まぁ、助かったんだし」
と答えになっていないことを和彦は言った。
「あっ、悪い。看護師に呼ばれた。長電話過ぎるって文句を言ってる」
「それじゃ切るね、それから私、最近夏目漱石の本、読んでいるんだよ。そうそうlineID送るし」
「うん」
「じゃまたね」
「また」
と言って電話は切れた。
和彦の「うん」は私が漱石の本を読んでいることについてなのか、それともlineIDを送るということについてなのか不明だったけど、和彦が回復しつつあることにまずは安心した。
英語の先生をしていた漱石は、生徒が「I lonve you を何と訳しましょうか?」と聞いてきたとき、「日本人なら、月が綺麗ですね、ぐらいに訳すのがいいだろう」と言ったらしい
と最近、”星の木”のマスターに教えてもらい、私もその後詳しくネットで調べてみた。
そんな風に答えた漱石はセンスがいいと思ったし、実は他の人が作った逸話との説もあったが、それはそれでかなりのセンスだと思った。
大学生のとき、和彦は私と夜道を歩いているときに「月がきれいだね」と私に言った。
だしか9月のことで、月はとても大きく光り輝いていたのを覚えている。
そのときは漱石のことも言っていたような気がするけど、本当のところ自信がない。
何しろ十年以上も前のことなのだ。
告白だったのか?とも思うけど、その後も何の反応も見せない私を気にするふうでもなく、長いこと友達止まりだった。
過去の記憶なんていつもあいまいだ。たぶん二人とも目の前のことで精いっぱいだったせいかもしれない。
次の日はアルバイトが休みだった。
時間はたっぷりとあり、一日中和彦との電話について考えてしまった。
私が「漱石の本を読んでいる」と突然言ったことに対して「うん」と言ったのは学生時代に私に言ったことを覚えているからだよね? とかなんとか。
しかし、それを確認したところで何になるというのだろう。
十年以上調べもせずに放置した引け目もあったし、第一私は自分の気持ちがよくわからない。
確かに昔よりも和彦に向かう気持ちがあるかもしれないけど、今すぐアメリカに飛んでいきたいというほどでもない。ただ心の奥で淡い月のような光を放ってくれる存在、それが今の和彦だった。
とはいいつつ、夜中の十二時近くになると携帯電話の前にスタンバっている私がいた。
和彦が電話をくれるという確信のようなものがあった。
ライン電話の呼び出し音がなると二秒で電話を取った。
「早いなー。 そっちは夜中だと思うけど大丈夫?」
「平気、平気」
和彦の声の後ろでは昼間の病院のざわめきが聞こえる。
それを聞いて、リアルな和彦の声であることに安心する。
「で、相談があるんだけど」
私はマレーシアの会社からの勧誘のことを言うつもりだ。




