月光・・・いつだって私たちはその優しさに気づかない(最終回)
「実はね、マレーシアの会社で仕事ができそうなんだけど、ほら私、海外旅行さえしたことないし、英語だって不便なく使えるってわけじゃないくて、どうしようかと迷っているんだ」
私は一気に言う。
「そりゃ行くべきだよ」
和彦は即答した。
「何を始めるにも不安はあると思うけど、やらないで後悔した方がつらいと思うんだ。海外に住むのもいい経験になると思うし」
私が欲しかった答えはそんな教科書的な答えではないような気がする。
日本に帰った時一緒にビールを飲んでくれる相手がいなくなるから寂しいとか、そんな遠くに行かなくても東京は出版社が多いから又編集の仕事ができるよとか、そんな言葉を言って欲しかったかもしれない。
でも何となく和彦はそんなことは言わないこともわかっていた。
逆の立場だったとしても、私は和彦の言うような背中を押す言葉を言うに違いない。
「そーだよね、チャンスはつかまないとね。でも正直、不安の方が大きかったりする。部屋で大きな虫が出たら退治できるかとか、病気になったらどうしようとか」
「新しいマンションだったら虫は入ってこないらしいよ。そういえば妹がむこうに住んでいるけど結構大丈夫だって。病院には日本人のスタッフがいるところが多いらしいし大丈夫だと思う」
妹さんのことは初めて聞いた。そういえば和彦は家族のことを話題にしたことがない。私だって自慢できるような家族ではないのでできたら家族の話題は避けたかった。
「妹さんいるの初めて聞いた気がする」
「実は父親が大病して、長いこと様子を見てたんだけどほぼ完治したんで、クアラルンプールに駐在している旦那さんと落ち着いて住めることになったんだよ。それまでは行ったり来たりしてたんだけどね。」
和彦は彼が大学四年生のときにタクシーの運転手をしていたお父さんが胃がんになり闘病したこと、手術は成功したけど完治するまで何年も様子を見なければならなかったことを話した。
「家は裕福じゃないのにいい塾に通わせてくれて、浪人までさせてくれた。親父は経済の世界で第一人者になることを願っていたから、期待に応えたくて必死に勉強したよ。経済的にも厳しかったからあちこちアルバイトをかけもちして、女の子どころじゃない二十代だったなぁ。エマがいてくれなかったら本当に寂しい二十代だった」
私も、と思った。
もし和彦がいなかったら味気ない二十代になっていたに違いない。
「妹たちのこともあるし、マレーシアには去年行ったな。あっ、学会でも行った。今は安い航空券が手に入るから気軽に行けるよ。日本からだと四時間ちょっとかな。できたらエマも就職を決める前に見学してきたらいいよ」
「へっ、そうなの?」
と私は間の抜けた返事をしてしまった。
私がマレーシア行きを決めることは、和彦との関係もあきらめて、一人で遠く異国の地で頑張らなければいけないことだと思い込んでいた。
でも和彦の話しを聞いているとどうも様子が違う。和彦はマレーシアに行くのをちょっと札幌までとかちょっと博多までといった感覚で話した。地球がグンと小さくなったように感じた。
「航空券やホテルだって携帯のアプリですぐ予約できるし、携帯だってちょっとした操作でそのまま使えるんだから」
「ぜんぜん知らんかった」
「いつの時代の人よ? もしエマがマレーシアの会社に決めたら遊びに行くよ。一緒にペトロナス・ツイン・タワーに行こうぜ」
ペトロナス・ツイン・タワーはクアラルンプールを象徴する巨大なタワーだ。YouTubeで見て夜になるとゴージャスに光り輝くタワーをぜひ見たいと思っていた。
「いいね。でもあの辺は光が多すぎて月が綺麗に見えないね」
突然私が月を見ることを言い出したことについて和彦は何も言わない。
「でもてっぺんぐらいからはよく見えるかもな。近くには大きな公園があるから灯りが少なくて綺麗に見えると思う」
和彦と二人でマレーシアの月を見上げる絵を想像してみる。悪くない。
「うん、楽しみだね。私、マレーシアの会社に挑戦してみようと思う」
マレーシアに行くことについても諸々の不安が綺麗になくなっているのを感じていた。
多くの日本人がどうにか現地で頑張っているのだ。私にやれないことはない、
という気持ちになった。
「応援するよ。何かあったら妹に頼ればいいし、僕も大抵電話に出れると思うし」
「ありがとう。頼らせてもらう」
心から感謝の気持ちを込めて私は行った。
感謝の気持ちで眠りにつけるのってどのくらいぶりだろう。
こういうのを幸せというのかもしれない、と布団の中で思いながらその夜は眠りについた。
それから私は上原さんに「紹介していただいた会社に就職したい」と返事をし、会社の社長さんから電話をもらってやり取りをした後見学に行くことを決め、一か月間英会話学校の特訓コースに申し込んだ。
節約の毎日をしておいてよかったと思った。
社長さんと電話で話しているとき「学生時代に受けたTOEICが400点だし、英語が不安なんです」
と言ったら社長さんは
「日常会話はTOEICなんかより全然簡単だし、若いんだから大丈夫。作る冊子や本は現地の日本人向けだし」
と言ってくれたけど、少しでも英語を進歩させておきたかったのだ。
和彦は入院で暇だと見えて毎日電話をくれる。
何気ない毎日の出来事を話せる相手がいるのっていいなぁと思ったりする。
分厚い夏目漱石の全集はもうすぐ読み終わる。
マレーシアで和彦に会ったら「読み返してみない?」と言って本を渡そう。
そして夜の道を散歩していて、もし月が出ていたら今度は私が言うのだ。
「月が綺麗だね」って。
・・・完・・・




