紫の発見
気が付いたとき、研究所にいた。二条博士や助手達に囲まれて、体中をいじりまわされた。
そこそこの年齢になると、知識を入力すると称して激痛にさらされた。
休憩時間には、相変わらず検査が待っていた。
誰もあの子を愛さなかった。
気が付いたとき、熊のぬいぐるみを抱いていた。
誰にもらったの?
訊いても答えなかった。
熊五郎。紫は、ぬいぐるみをそう呼んだ。そうして、何をするときも連れて歩いた。
検査のときも、悲鳴を上げるときも。いつも熊五郎が傍にいた。
熊五郎は、紫が愛するただ一つのものだった。
二条博士は、知識を入力する前に、二条家に対する絶対服従を入力した。
だから、二条家の一族には逆らわない。黙って、命に従うだけだ。
完成品の紫を光に渡すとき、最初の命令が下された。
光のために働くこと。
光のブレイン若しくはゴーストとして、光に尽くすことが、それだ。
紫には、自分の光に対する好意が、その命令によるものか、内から湧き上がるものか、分からないのだ。
頭の良い紫には、絶望的な問題だろう。
悩んで、悩んで、悩んでいたとき、光が藤子さまとの約束を破った。
藤子さまは、紫のことで、何の要求もしなかった。
紫の扱いをどうしようが、無関心だった。
藤子さまが、こだわったのは、ただ一つ。
ご自分の分身である紫を男の慰みものにしたくないと言うことだった。
光は、紫を愛したのかもしれない。
しかし、許嫁がいるのだ。
あの状況で光が紫と関係を持つのは、藤子さまにとって、自分に対する冒涜以外何ものでもなかったのだ。
紫の生い立ちを聞いて、切なくなった。
時々、紫からメールがあった。それは、論文やレポートを送るためでもあったし、光が出演したテレビ番組の感想を送るためでもあった。
光は有名人だから、光には紫が見えないが、紫には光が見えているのだ。
どういう思いで、見ているのだろう?
あの晩のすすり泣きを思い出した。
「人恋しい人なのに……」
光がつぶやいた。
男前が憂いに満ちた表情をすると、男の俺でもゾッとするほど色気があった。
光の何度目かの懇願の場で、藤子さまが言った。
「罪なことをなさいましたね」
冷たい笑いが浮かべて、畳みかけるよう続けた。
「依子は、自分の感情をはかりかねて、苦しんでいます。
あなたへの気持ちが、命じられたものなのか、自然に湧いたものなのか、分かりかねて、可哀想に、本当に苦しんでいるのです。
光さん、あなた、依子を捜してらっしゃるそうですね。
でも、捜し出して、どうなさるおつもり?
苦しんでいる依子を捜し出してどうなさるか、その方針も決めずに捜してらっしゃるんじゃなくって?
政治家が、それでは困ります。
依子に叱られますよ」
光は、打ちひしがれて事務室に現れた。
藤子さまの話を受けて、方針を決めなければ……と、頭をかきむしった。
「藤子さまの言うとおりだ。
紫を捜し出して、ボスは、一体、何をしたいんです?
紫なら、方針を決めてから動くようにって、言うところでしょうよ」
さすがは、藤子さまだ。久光氏のブレインの総責任者なのだ。
光は、しばらく黙考して、絞り出すように言った。
「二条家の呪縛から解放する。
あの人が苦しんでいるんだ。
苦しみから解放してあげなければ。
私を愛してくれなくても良い。
二条家に対する絶対服従から解放しないと、あの人は楽になれない。
あの人の人生は、あの人のために使うべきなんだ」
「良い答えです。
俺も賛成します。
で、それからどうします?駆け落ちでもしますか?」
「いや、そうなると、あの人は、私じゃなく君を選ぶかも知れない。
そう、誰か別の人を選ぶ可能性だってあるんだ」
「それじゃあ、このまま、呪縛から解放しないでおきますか?
ズッとボスに惚れてますぜ」
「惟光、君、わざと言ってないか?
命令に言いなりになるあの人を手に入れても嬉しくなんかない!」
「えらい!よく言った!」
叫んでから気が付いた。
それって、自分に自信があるから、言える台詞だろ?
この女ったらしが。
「でも、もし、あの人が私を選んでくれたら、藤子さまにお願いする。
私が紫を相応に遇するから、約束を反故にしていただきたいって」
「相応に遇するって?」
「葵との婚約を破棄して、紫と結婚する。
もし、父や二条博士が反対するなら、紫は事実上の妻として、形式上の妻は持たない」
「それじゃあ、二条家の血筋はどうなるんです?
確か、あなたは一人っ子で、藤子さまには子供がないって話じゃないですか」
痛いところを突かれたのだろう。
長い間黙りこくった。
それから、大きな溜息をついた。
溜息の後で、絞り出すように決断した。
「従姉妹の……朝顔の君に任せる」
せっぱ詰まった苦渋の決断だと思ったのは、気のせいだろうか?
この一言で、長年の懸案事項が解決してしまったのだ。
ゆるゆると泣き笑いのような微笑が浮かんだ。
「不思議なものだね。
こんなことになるまで、あの人の存在が、私にとってこんなに大切なものだと思わなかった。
ある意味、怪我の功名かもしれない」
探偵事務所の調査で分かった紫が現れた公立小中学校の数は、なんと三十もあった。
それらの学校から三十分以内の地域のマンションを探偵事務所にシラミつぶしに当たってもらうことにする。
平行して、該当する地域のスーパーで聞き込みを始める。
少しずつ、紫に近づいているようで、俺も、光も、興奮を押さえるのに必死だ。
一月以上経って、探偵事務所から、とあるスーパーで美保らしい娘を見つけたとの報告があった。
息を殺して続報を待つ。
一週間後、その娘が住む部屋を突き止めた、との報告があった。
光と俺は飛び上がって喜んだ。
報告に来た康子と手を取り合って、輪になって踊った。
間違いだったら、どうしよう?
望んでいたことが、かなおうとしているのだ。
人間というのは、失敗に臆病になる。
「大丈夫。万一、別人だったら、また、捜せば良いのよ」
康子の明るさと逞しさは、救いだった。
翌日、全ての仕事をキャンセルして、光と俺は問題のマンションへ赴いた。
仕事の都合で同行できない康子の歯ぎしりも耳に入らない。
俺達は、興奮状態だ。
紫が失踪したのは7月。今は、11月だ。
あの子がいなくなって四ヶ月も経ったのだ。
庭の椿がつぼみをつけていた。
花が咲くまでに、紫を迎えに行くことができて良かった。
風に舞う落ち葉の寒々しさも気にならない。あの藤子さまの仕事を覆して、紫を取り戻すのだ。
勝った!
藤子さまに勝ったんだ!
世界は俺達のものだ。
マンションの入り口に到着すると、見たことのある人物が立っていた。
近衛将人だ。
「ヒカル。お前の行動は、筒抜けなんだ」
あまりのことに、光も俺も息ができない。
「今日のことは、中央棟の方々もご存じだってことだ」
「どうして、お前がここにいるんだ?
お前のスパイはそんなに優秀なのか?」
「企業秘密だ」
片目を軽くつぶって、入り口のボタンを押す。
セキュリティ完備のマンションなのに、将人はここの住人扱いだ。
「恋人の一人がここに住んでるんだ。
それで、美保ちゃんと知り合って茶飲み友達になった。
大丈夫、ヒカルの大事な人はガードが堅い。
こっちは、あの子に弱みを握られて、手が出せなかった」
ワケの分からないことを言う。
だが、こいつを締め上げるのは、後で良い。
今は、紫を連れて帰るんだ。
将人を無視してエレベーターに乗った。
ようやっと紫を見つけることができたようです。でも、件のマンションの前には近衛将人がいますし、どうやら情報が筒抜けなようです。がんばれ、光!がんばれ、惟光!




