近衛将人の冒険(2)
とんでもない話だった。美しく無表情な顔が恐ろしくさえ見えた。
『たまたま、今までの相手が、あなたに好意的だっただけだ。
時には、あなたと付き合いたくない相手がいるってことを学習すれば良い』
『じ、時間がない。どんなに急いでも二時間はかかる』
やっとの思いで声にした。
『じゃあ、少し猶予を与えよう。パソコン貸して。ここから侵入する』
『できるのか?』
『ボクは、あなたと違って、嘘をつかない。そう入力されているんだ』
入力?ワケが分からない言葉を口にする。
紫をパソコンの側に連れて行くと、何でもないような顔で操作した。
途中で、監視カメラの映像、見たい?と訊くので、頷くと見せてくれた。
『わざと、僕の名前や薬の名を口にしたのか?』
『当然だろ?じゃないと、映像を送る意味がない』
マジマジと美しい顔を見つめた。
あどけなさを残した少女だ。
『か弱い女二人で暮らしているんだ。自衛しないと……』
どこが、か弱いんだ?
紫はキーボードをたたいて、エンターキーを押した。
『お終い。四時半まで延ばした。急いで帰して。渋滞に巻き込まれたら、アウトだ』
どうせなら解除してくれれば良かったのに、と思いながらも、ここは逆らわない方が良いだろうと、急いで車に飛び乗った。
後部座席で紫が冷たい声で言った。
『将人さま。二条博士に感謝するんだね。
あの人がいろんな薬を試したおかげで、ボクには薬に対する耐性がある。
だから、クロロホルムの効きが弱い。
じゃなきゃ、とっくに……ゲームオーバーだ』
信号待ちの時だった。
だるそうに美保に寄りかかる無表情な少女に声を掛けた。
『そんなにヒカルが良かったのか?』
『良かったって?』
『あいつと別れたんだろ?』
『……そう言うことになるのかな』
『別れても、他の男に抱かれたくないほど、あいつが良かったのか?』
しばらく考えて、少し投げやりな調子で答えた。
『フィジカルな面はどうでも良いんだ。メンタルな意味で、ヒカルの傍にいたかっただけだ』
『フィジカルな面はどうでも良いって?』
『ヒカルが誰と何をしようが気にならない。
ボクが誰に何をされようと気にならない。
ただ、ボクが誰かに何かされると、藤子さまが怒る。
ご自分が冒涜されたように思われるんだ』
ワケが分からないことを言う。
『……でも、メンタルな面で、ヒカルはボクに教えてくれた。
人には感情ってものがあって、それは、とても暖かいものだって。
だから、傍にいたかった。
傍にいられれば、良かったんだ。
ヒカルは暖かいから。
ヒカルが誰と結婚しても、ボクはヒカルの傍にいて、暖かさを感じられれば良かった。
それで、良かったんだ』
『じゃあ、どうして、別れたんだ?』
『ヒカルが約束を破ったから、藤子さまが許してくれなかった。
藤子さまは、約束を破ったヒカルも、ヒカルを止められなかったボクも、悪い、とおっしゃった』
『藤子さまの言うことなんか聞かなきゃ良いじゃないか』
『あなたには、それができる。
でも、ボクには、できないんだ。
致命的なことだろ?だから、命に従った。それだけだ』
しばらくして、紫が何かをつぶやいているのに気が付いた。
『Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
(明日へ、明日へ、明日へ、とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、歴史の記述の最後の一言にたどり着く……)』
『Tomorrow speech?』
思わず訊いた。
美保が訊き返した。
『これって、Tomorrow speechって言うんですか?』
『ああ。マクベスに出てくる独白だ』
『紫さま、お好きなようで。
でも、暗くて、陰気な感じがします』
『あの時、ヒカルに褒められたから……好きになったのか?』
将人が紫に訊いた。
『逆だ。
ボクが好んで口にしてたから、あの時、ヒカルが暗唱しろって言ったんだ』
『好む?十四歳の子供が?陰気な独白だ』
『そう。陰気な独白。
でも、人生って歩く影、あわれな役者……戯作者のミスだ。
登場しなくていいキャストを登場させてしまったんだ……どうやって、幕を下ろすんだろう……』
紫が寂しそうに息を吐いた」
紫は絶望していたのだ。
自分の人生を自分で切り開いていけないという宿命に。
誰にも助けてもらえない神から見放された我が身に。
唯一、助けることができるものとして存在した光でさえ、紫を助けられないことに。
助けてくれるものもいないのだ。
頭を上げて自分で自分を支えるしかないのだ。
寒空の下でひそやかに咲く椿のように。
極楽とんぼの将人には、紫の人生を諦めたような様子が理解できません。




