紫の秘密(1)
「紫の素性は、言わないでおこうと思ってた。
でも言わないと、捜しようがないのは、事実だ」
息を吐いて続けた。
「君には、私が暴君のように見えただろうね。
名前を取り上げて、紫の部屋に閉じこめて。
良いんだ。
君は、権利を大切にする人だから。だから、あの人が評価したんだ」
コーヒーをすすって先を促す。
「でも、ああしないと、紫を守れないと思ってたんだ。
紫は、存在してはいけないものだから、人目についてはいけないって。
人目につくと、それこそ愛人にされるか、実験材料にされる」
「愛人と実験材料って、両極端じゃありませんか?
それに……存在してはいけないものって、どういう意味です?」
存在してはいけないもの――この言葉が、ズッと謎だった。
「私が小さい頃、父が再婚した。相手は、藤子さまだ。
美しい方で、憧れた。
でも、藤子さまは、美しいだけじゃなかった。ケンブリッジを卒業された才媛で、我が国で一番と言われるポリティカルスクールでもダントツだったんだ。
あの方は、事情があってブレインの道を選んで、父と結婚した。
父は、藤子さまとの結婚したおかげで、優秀な政治家だともてはやされるようになったんだ。
そんな時だ。叔父の二条博士が、藤子さまのクローンを作って、私のブレインにする提案をしたのは」
「クローン?」
「知ってのとおり、人にクローン技術を使ってはいけないことになっている。
でも、叔父は、あの通りの人だ。
父を動かして、二人して、藤子さまの卵細胞からクローンを作ろうとしたんだ。
藤子さまは、抵抗された。
当然だ。
自分の分身を勝手に作られるんだ。気持ちが良いわけないじゃないか。
で、悪魔のような叔父が私を使うことを思いついたんだ」
「あなたを使うって?」
「九歳の子供に、藤子さまのクローンができれば、藤子さまのような美しくて、賢いブレインを側に置けるって、囁いたんだ。
私はその話に乗った。
そうして、藤子さまにお願いしたんだ。
あなたの体細胞を頂きたい。あなたのように美しくて、賢いブレインが欲しいって」
「で、あの方は、応じたんですね」
「後で聞いたら、泣きながら応じたって話だ。
父と結婚したことを心底後悔された瞬間だっただろう」
「拒否して、離婚すれば良かったのに」
「藤子さまのご実家に、そうできない事情があったらしい」
「そうして、紫が生まれた」
「私は、欣喜した。
藤子さまのような美しくて賢いブレインが手に入ると思ったからだ。
でも、叔父のすることを見て、背筋が寒くなった」
「何をしたんです?」
「あの健康診断だ。
紫は、叔父の実験材料だった。小さい頃から無茶苦茶したんだ。
しかも、優秀なブレインにするために、コンピューターにデータを入力するように、知識を入力したんだ。
昔、人権問題になった教育機器があっただろ?」
「あの電線が繋がったヘルメットを被るみたいなヤツですか?」
「ああ、人間の子供に電気信号に変えた知識を入力する機械だ。ものすごい痛みがあって、下手をすると発狂するからって、実用化されなかったヤツだ。
あれを使ったんだ。
素質は、藤子さまだ。
後は、知識を入力すれば良いって考えたんだろう。
一度、研究所へ見に行って、二度と足を運ぶ気にならなかった。紫の悲鳴が耳について離れなかった」
とんでもない話だった。
思わず、光の顔を見た。
嘘をついているようには見えなかった。
光は、コーヒーカップを横に置いた。
「人間の子供にそんなことをすると犯罪だ。
でも、あの人達の理屈で言うと、紫は人ではない。だから、何をしても許されると思っているんだ。
ハーバードへ行く前にあの人に会った。知識はあっても、笑わない蝋人形のようだった。
二十歳の私は心底後悔した。
叔父の話は、悪魔の囁きだったんだ」
「でも、俺が会った紫は、よく笑う可愛い子でした」
「私が必死で回復させた。
神の怒りに触れたと思ったんだ。
紫が笑わないと、地獄へ落ちるように思えた。
だから、アメリカへ連れて行って一緒に暮らした。
毎日、勉強の合間に、いろんなものを見て、いろんな音を聞いて、人間には感情ってものがあるんだって、必死になって教えた。
紫が初めて笑ったのを見たとき、天にも昇る気持ちになった。
私がね、ミルクをこぼしたんだ。コップに入れてあったのに、何かの拍子にこぼしてしまったんだ。慌てて雑巾を探してたら、紫が言ったんだ。
ヒカル、こぼしちゃったの?って。
で、私が、絨毯がミルクを飲みたい飲みたいって言うから、飲ませてあげたんだって、負け惜しみを言ったら、あの人、クスリって微笑んだんだ」
「それが、必要以上に笑うようになった」
「ああ、嬉しかった。
紫が笑うようになった。私の傍で笑うようになった。
笑うようになったら、美しくなった。藤子さまに似て、本当に美しくなった。
藤子さまは、紫に会いたくないんだ。
そりゃそうだ。
本人にとっては気持ちが悪いだけだろう。だから、ダイニングもリビングも別にして欲しいと頼まれた」
なるほど、それで、東棟に光専用のダイニングやリビングがあるのだ。
「依子って、おぞましい名だ。
父がつけた。
作った父や叔父に依って生きるって意味だ。
私はあの名前が嫌いだった。
藤子さまは、紫を養子にすることも嫌がられた。
だから、紫に身内はいない。
いや、いない方が良い。
身内は、紫を実験材料にするか、道具のように使うことしか考えない。
父も叔父も、紫に人権すら認めない。
自分達で作った人ではない生き物だからだ。
私のせいで、あの人は、誰にも愛されない存在として生まれ、育ったんだ。
私は、事情を知らない誰かに、紫の行く末を頼みたいと思った。信頼できる誰かに。
それが、君だ。
君の論文を読んだ紫は、この人、純粋なんだって、言った。
喫茶店で会ったときも、ちょっかい出さない珍しいヤツだって、好感を持ったみたいだった。
で、あのレポートだ。
荒削りだが、地域の立場に立った真摯なものだった。それで、君に決めた。
でも、君に来てもらって、紫が君の方を見たとき、心が騒いだ。
矛盾してるだろ?
そのために来てもらったのに、君に取られたくないって思ったんだ。
しかも、君達は、勝手に、あっちこっち歩き回った。
私があんなに心配して、他の人間から遠ざけているのに。
君は言った。滑り台さえさせたことがないって。
滑り台?
それどころか、紫は、人並みな子供時代さえ過ごしていないんだ。
何も知らない君は、紫に子供らしいことを取り戻させようとしていた。
あの時、私が怒ったのは、君に嫉妬したせいかもしれない。
何も知らないというのは、それほど、紫に新鮮な感動を与えることができるんだ」
あの時、光が火のように怒った理由がはっきり分かった。
惟光は、紫の秘密を知って驚きます。惟光が好ましく思った紫は、クローンだったという衝撃の事実。
がんばれ、惟光!




