失踪
翌日、光は、三日ぶりに仕事に出掛けた。
それを待っていたかのように、メイド達が慌ただしく走り回った。
重要人物から連絡があったのだ。
中央棟の応接間に陣取った人物は、紫に面会を求めた。
その前に、俺に会いたいとのことで、応接間へ呼ばれた。
俺を名指しした人物って、一体、誰だ?
上座に座ったその人は、何となく紫に似た上品な女性だった。
「藤原惟光さまでございます」
執事が紹介した。
「惟光さま、奥様でございます」
光の母だ。いや、産みの母は他界していて、後妻に入った人だから義母ということになる。
美しい人だった。
四十過ぎのはずだが、どう見ても三十代だ。
なるほど、光と並ぶとおひな様みたいだという美保の弁は、言い得て妙だった。
「お世話になります。
光のために、よろしくお願いします。
あなたが、依子のことも気に掛けてくれていると聞きました。礼を言います」
依子?依子って誰のことだ?
ここでは、俺の知らないことが多すぎる。
横から松嶋執事が助け船を出した。
「紫さまの本名でございます」
光は、東棟の使用人に紫を本名で呼ばせない。
何故だ?あの子は、名前さえ、取り上げられているのだろうか?
「後で、依子から指示があるかも知れません。
何事も、二人のためです。
あなたのご協力をお願いします」
美しい夫人が、真面目に頭を下げたので、体が縮みあがった。
紫も大人になったら、こんな感じになるのだろうか?
「依子さまが、お出でになられました」
メイドの声で我に返る。
退出する俺の脇を、シルクのドレスを着た紫が通り過ぎて行った。
薄紫色の膝より少し長めのドレスをまとうと、小さな貴婦人だ。
「お久しぶりです。藤子さま」
ドアの向こうで紫の声が聞こえた。
『藤子さま』というのは、あの人だったのだ。
長い時間のように感じた。
ようやく応接間から出て来た紫は、真っ青な顔をしていた。
着替えを済ませて、怪獣になる。
そうして、いつものように資料を揃え始めた。
必要な資料をそろえて、事務室の机に置く。
紫の指が震えているのが、気になった。
「あの人、ジュニアのお義母さん?」
「そう」
「あんたの遠縁に当たるって?」
「遠縁?だったら、どんなに良かったか」
俯いたとき、涙がこぼれた。
頭を上げて、気力を振り絞るように言った。
「惟光、事務引継はほとんど終わってる。メールするからアドレス変えないで」
「メールって?部屋に籠もって出て来ないつもりか?」
紫は答えなかった。
黙って涙を流して、やっとのことで言葉を探して言った。
「ボクは、存在してはいけないものなの。
だから、ヒカルの邪魔になる。
葵さまの言うとおりだ。
藤子さまも同じように思ってる。
ヒカルを好きなら、ヒカルのために、そうすべきだと分かってた。
分かってたけど……。
せっかく生まれて来たんだから、人並みのことを経験してみるのも良いんじゃないかって、言ってくれたから。
ヒカルが言ってくれたから。
だから……だから、夢を見た」
「それって、君の思いは、どうなるんだ?孤児だから、遠慮するのか?」
「聞いたの?」
俺を真っ直ぐに見つめて、溜息をついた。
「孤児だったら、どんなに良かったか。
親も親戚もいない。でも、ボクはボクだ」
ワケが分からない。
一体、何が言いたいんだ?
「ボクにも守秘義務がある。これ以上言えない」
一歩前に踏み出して、俺の胸に顔を埋めた。
「楽しかった。あなたが来てくれて、本当に楽しかった。
滑り台、ありがとう。
ヒカルをお願い。あの人を手伝ってあげて。助けてあげて」
「どこかへ行くのか?
ジュニアが許さない」
「ヒカルより……上の人が命じた」
「誰?」
「……藤子…さま」
体中の力を振り絞って、奥の部屋へ歩いて行く。
そうして、すすり泣きが聞こえた。あの晩のように。
誰かの慌ただしい声がして、奥の部屋のドアが開いて閉じた。
行ってしまったのだ。
紫の部屋の人は、消えてしまった。
体中の血が流れ出たような気がした。
知らないうちに、あの子に恋をしていたことに気が付いた。
俺でさえ、このざまだ。
光は、どんなに荒れ狂うだろう。
夕食を食べる気力も起きなかった。
9時頃、光が帰って来た。
紫の健康診断以来、仕事や付き合いをキャンセルしていたので長引いた、と文句を言いながら、奥を目指す。
リビングで息を殺して、気配を探る。
あたふたと走る音がして、あの上品な光がリビングのドアを乱暴に開けた。
思い切り乱暴に開け放って、そこに俺しかいないのを認めた。
「惟光……。紫は……?」
目が血走っている。
「分かりません」
「どうして、いなくなった?
あの人は、どこへも行けないはずだ」
「人には、旅行する権利もあれば、住む場所を決める権利もあるんです。
あなたが決めなくても、紫が決めることができる」
「いや、あの人には……紫には、戸籍すらないんだ。
どこへも行けない」
「ハーバードへ留学したんでしょ?
パスポートが取れたんだ。戸籍があったんでしょう?」
「あの時の、あの、でっちあげたヤツか?」
へなへなと座り込んで頭を抱えた。
「どうして、この屋敷を出るんだ?
ここを出ると生きていくのも難しいというのに」
「昼に藤子さまに呼ばれて、何か命じられたと言ってました」
「藤子さま……。
あんなにお願いしたのに。
紫は、藤子さまに逆らえないんだ。そう、入力されている」
入力?
人間に対して使う言葉か?
聞き捨てならない台詞だった。
急に立ちあがって、中央棟へ駆けだした。
松嶋執事が止めるのに耳を貸さない。
「藤子さま!藤子さま!お義母さん!」
30分後、光が悄然と帰って来た。
リビングの隅のカウンターバーに俺を誘って、ブランデーをあおる。
光は、自嘲的に笑った。
「こんな日が来るとは、思わなかった」
「こんな日って?」
「あの人をもらうとき、約束させられたんだ。
簡単なことだと思ってた。こんなに苦しいとは思わなかった。
私にとっても、あの人にとっても」
「誰と、どんな約束をしたんです?」
「藤子さまと。あの人に手を出さないって約束させられた」
大きな息を一つして続けた。
「最初にあの人に会ったとき、私は十歳だった。あの人は、赤ちゃんだった。
次に会ったのは、二十歳の時だ。十歳の少女に手を出すなんて、考えられないだろ?簡単なことだと思ったんだ。
でも……」
「でも……?」
「気が付いたら、私が二十六、紫が十六になっていた。
そうして、傍にいるのが苦しいほど、愛おしくなった……。
いたたまれなくて、他の女とデートすると、あの人の顔がちらつく。そして、あの人が泣いているんだ。
あの人にとって、私は、父であり兄であり家族だ。
だから、私がいないと寂しがって泣くんだ。
寝顔にいつも、涙の跡があった。
約束を破りそうで、一緒に寝てやれない。
すると、あの人の涙が、ぬいぐるみを濡らすんだ。
どうしようもない。
君に怒られたね。俺ならあんなに泣かせないって。
でも、どうしろって言うんだ?
どうすることもできなかったんだ」
頭を抱えて、本当に苦しそうだった。
二人とも悲しかったのだ。
こんなことって、あるだろうか?
「この前、葵と遅くなった晩、紫の傍にいた。
朝になって、紫が、ヒカル、帰ってたの?って訊いたんだ。
ああ、調子、どう?って、頭を撫でて、まあまあ、昨日、お薬飲んで寝たからって、答えた。
そう……って返事をしたが、力が入らないんだ。
大丈夫?疲れてるみたいって、紫が訊いて、少し疲れたって答えたら、小さな声で言ったんだ。
ごめんね、ボク、自分のことで手一杯で、ヒカルの役に立てない……って。
泣いていた。私のせいで、紫が泣いていた。
あの瞬間だ。私の中で、何かが壊れた。
もう、藤子さまとの約束なんか、どうでも良くなったんだ」
二人して、黙って、夜中まで飲んだ。
飲んで、飲んで、飲んで、飲んだ。
終いに、光は酔いつぶれてしまった。
こんな光は見たことがなかった。
松嶋に、酔いつぶれた光を部屋へ運ぶのを手伝って欲しいと頼まれた。
俺は、初めて光の寝室に入った。
モスグリーンの色調で統一された上品な部屋だ。
広いベッドに光を横たえると、唇が「…サキ」と動いたような気がした。
松嶋に頭を下げられて、部屋へ戻る。
「悪いけど、あなたのデータ、売ってくれない?」
「惟光、真面目なんだ。しかも、民主主義に幻想を抱いている」
「どっちが慣れるんだろうね?
葵の上が、もっと慣れてリラックスさせてくれるようになるってのがベストだけど、あり得ないし……やっぱり、ヒカルが葵の上に慣れて、多少のことでは、肩が凝らなくなるってことかな?」
「だから、好きなんだ」
目の前を紫の笑顔が通り過ぎて行った。
夏なのに、椿の花が音をたてて落ちたような気がした。
光は藤子さまと、紫に手を出さない約束をしていたのに、それを破って逆鱗に触れたのです。
身勝手な光に振り回される紫と惟光。二人の受難だけで終わらず、ついに光も制裁を受けることになります。ここまで来たら、他の女性は吹っ飛んでしまっています。やっぱり光にとっては、紫が一番なのです。そうすると、惟光の思いは……。がんばれ、惟光!




