健康診断
この日は、情報収集の日だった。
朝から、六条康子を始め何人もの女達が現れて、いろいろな情報提供をしていった。
夕食後、事務室で情報の整理をした。
紫は、いろいろなファイルを作っていて、それぞれに整理して入力して行く。
光から、私達を二人きりにしないように、と指示が出ているのだろう。
メイドの美保が、張り付いていた。
それは、サービスのためというより監視するためのようだった。
美保がいるとはいえ、紫と作業するのは楽しかった。
容姿がすばらしいだけじゃない。魂が純粋なのだ。
光が手離さないはずだった。
9時頃、光が顔を覗かせて、紫を見て微笑んだ。
「今日は、もうお終いにしよう」
紫の肩に手を置いた。
「惟光、君も休みなさい」
紫の表情がかげった。
「ヒカル、やめた方が良い」
「やめない」目が鋭くなった。「君は、私が嫌いなの?」
「嫌いじゃない……嫌いじゃないけど……ダメなんだ」
「君を愛してる」
「でも、ダメなんだ。葵さまも怒るし、お父さまだって怒る。
博士だって。藤子さまだって。
みんな、みんな、許してくれない」
「私が、許す」
「他の人を全部敵に回すことになる。
ヒカルの将来のために良くない」
「最悪のことが起きたら、君が考えてくれれば良い。
そのための……ブレインだ」
勝手な男だった。
何か都合の悪いことが起きたら、紫に考えろと言うのだ。
前に話をしたときは、案外良い男だと思った。
でも、こんな局面で対峙すると、単なる自己中だ。
紫がもっと大人だったら良かったのに。
こんな男なんか振ってしまえば良い。
光は、鋭い息を一つ吐いて、有無を言わさぬ強引さで紫を抱き上げる。
そうして、奥への廊下を歩き出す。
一瞬、紫と目があった。
これから、何が起こるか知られたと思ったのだろう。
俺から顔を背けるようにして、光の胸に顔を押しつけた。
その夜、風呂に入ろうとして気が付いた。
湯船に赤いものが、いくつも浮かんでいる。
よく見ると、薔薇の花びらだ。
メイドが笑って言った。
「紫の部屋のバスに薔薇の花びら浮かべようって、光さまがおっしゃって、そのお裾分けです」
「紫の部屋には、バスがついてるのか?」
「ええ、ホテルみたいに完結してるの。
バスもトイレも洗面も、薄い紫色で統一されてて、蛇口やなんかの金具が全部ゴールドなの。
とっても綺麗なお風呂よ。だから、今日みたいに薔薇の花びら浮かべると、絵のようになるの」
光は、その美しいバスタブに紫を横たえて鑑賞するのだろうか?
翌日から、紫は、夕食後、早々に部屋へ引っ込んだ。
リビングにいるとかえって目立つのからだ。
部屋で息を殺しているのが一番だと気付いたのだ。
光は、遅くなることがなくなった。
デートをしなくなったのだ。
そうして、帰ると、紫の部屋へ直行した。
誰にも紫を渡さない。
その背中が、そう宣言していた。
薄皮が剥がれるように、紫が変わって行った。
もう、男装しても誰も男だと思わないだろう。
それほど、艶やかな色合いに染まって行った。
紫は、最初の頃の怯えが消えて、諦観したような眼差しになった。
光は、そんな紫をますます愛おしいと思うのだろう。使用人の前でも、平然と抱きしめた。
ある日、朝食の後で、執事の松嶋が、事務的に言った。
「紫さま。7月5日、来週の水曜日ですが、健康診断に西棟の研究所へいらして欲しいと、博士からご連絡がありました」
紫が半狂乱になって嫌がった。
こんな彼女は初めてだ。
身をよじって泣きじゃくるのだ。
光が、優しくなだめながら言った。
「私も行こう。大丈夫。安心なさい。私の目の前で君におかしなことはさせない」
健康診断。
どうして、そんなものが怖いのだろう?
紫の健康診断のついでに、俺の健康診断もしてもらうことになった。
光が、さりげなく、そういう方向へ持って行ったのだ。
何となく、紫一人を二条博士の所へやりたくないことが伺えた。
当日、驚いたことに、看護師免許を持つメイドの美保まで同行した。
屠殺場へ引かれる家畜のように怯える紫を、何とかなだめて、西棟の二条博士の研究所へ行く。
二条博士は光の父の弟に当たる人で、医学博士だ。
何だか忘れたが変わった研究をしていて、学会では浮いた存在だと聞いたことがある。
その博士が、年に一回、紫の健康診断をするというのだ。
長生きできないと言われているその体質に興味があるのだろうか?
お決まりの身体計測があり、その後が大変だった。
尿検査、血圧測定、心電図とすすみ、血液検査で、元看護師の美保がダメ出しした。
助手が紫の健康に影響が出るほどの量を採取しようとしたのだ。
博士は必要だと言い張り、光と喧嘩になった。
よっぽど興味のある被験者なんだろう。
こんな検査も必要なんだろうかと思われるようなものもいくつもあって、検査をするたび紫は疲れていった。
視力や聴力の検査、目や耳の検査を終わり、ほっとした時には、夕方になっていた。朝10時頃からかかっていたのだ。
さすがに、紫はぐったりしていた。
予定した検査が終わったのに、追加で聞いたこともない検査をしようとする博士に、光が切れた。
「もういい加減、勘弁してください。
これ以上検査を続けたら、この人の命を縮めることになる。
そっちがその気なら、来年以降、協力しない」
さすがに、やりすぎたと思ったのだろう。
博士は恨めしそうに光を見上げ、悔しそうに吐き捨てた。
「お前が、その子を手に入れたのは、誰のおかげじゃと思っとる?
そもそもワシがいなけりゃ、お前はその子に会うことさえなかったんじゃ。
協力しない?
よくも言えたもんじゃ」
「その方が、良かったかも知れません。
どっちが良かったか、今となっては、誰にも分からない。
でも、現実に、この人はここにいる。
ここにいる以上、誰にも危害を加えさせない!」
紫を抱き上げて、博士を睨み付ける。
ものすごい迫力だった。
光は、紫をいわゆるお姫様抱っこで抱いて帰った。
独力で歩けないほど消耗していたからだ。
一行が東棟に着いたとき、俺は、紫の様子がおかしいのに気が付いた。
「ボス、紫の様子がおかしい。
熱があるんじゃ……」
「毎年そうだ。
健康診断って名目で無茶されて、熱が出るんだ。
可哀想に、あの人のおもちゃにされてるんだ」
悔しそうに言った。
おもちゃ?
確かに、普通の健康診断じゃなかった。
でも、どうして博士は、あんなことをするんだろう?
流れで紫の部屋まで同行した。対面の日以来だ。
美しい人が住む部屋は、美しい部屋だった。
光が紫をベッドに横たえると、美保が慣れた様子で氷枕と洗面器を持って来て、額に濡れタオルを置いた。
苦しげな紫の横で、心配そうな光が座っていた。
「これで死んだら、叔父貴のヤツ一生恨んでやる」
物騒な台詞に、思わず口を挟んだ。
「簡単に殺さないでくださいよ。
大丈夫。すぐに治りますって」
「すぐに治る?
そうだ。すぐに治らなきゃ。紫の時間は、私達の時間より貴重なんだ」
「寿命が短いって話ですか?」
「そうだ」
「健康そのものじゃないですか」
「健康でも、短いんだ。
この人の定めだ」
「定め?運命論者ですか?」
「運命論じゃない。科学的な、すこぶる科学的なことなんだ」
松嶋執事が、俺の肩をたたいて、「お食事の支度ができています」と、退席を促した。
電話が鳴るのが聞こえて、受話器を取ったメイドが光を呼んだ。
「葵さまからお電話です」
今日は、葵とデートの約束があったのを思い出した。
ポリティカルスクールの授業も、葵とのデートも、友人達との交流会の約束も全部キャンセルして紫に付き添ったのだ。
明日も同じことになるだろう。
紫の熱は、翌日の昼過ぎに下がった。
光は、まだ、ぼんやりする美しい人を抱いて、リビングに現れた。
大切そうに紫を座らせて、俺に言った。
「惟光。君の初仕事だ。
葵との婚約の解消をしたい。
近衛家との友好関係に傷を付けないよう細心の注意が必要だ。何か良い方法がないか、検討して欲しい」
「簡単じゃないですか。
誇り高いお人だ。向こうから、切り出させるんです」
「どうやって?」
「このまま、紫の傍に居続けるんです。
そうすると、葵の上は、紫なんか眼中にないって顔したい人だから、あなたに迫る。
このまま紫の傍に居続けるなら婚約を解消するって。
で、あなたは、大事なブレインだからって傍を離れないんです。
葵の上は、自分で言った台詞に責任を取って、婚約を解消するでしょう。
その時、周りが、まあまあってなだめて、葵の上に、大人げない、そのぐらい良いじゃないかって言っちゃいけないんです。
そうだ、あんな小娘を重宝するなんて、二条ジュニアも先が見えたってはやし立てるんだ。
サクラが要るな。あの人の周りであの人の怒りに油を注ぐサクラが要る。
あの人、例のディベイトの時でも、金じゃない愛だって叫んだ人でしょ?
紫から離れないと愛がないものと判断して愛想を尽かすぞって脅しを掛けて、ごめんなさいって、謝って欲しいんです。
でも、あなたは謝らない。
で、愛がないあなたに愛想を尽かすんです。
つまり、プライドが邪魔をして、ジ エンドってわけです」
光の目が輝いた。
「ダメ、近衛家を敵に回すことになる。
向こうは賢い。そのぐらい見抜く」
「見抜かれても、立場上、文句が言えない」
紫の反対を無視して、光が冷ややかな声でまとめた。
二条博士の健康診断は、紫を実験台にした異常なものでした。惟光は怒りを感じます。でも、これをきっかけに紫を守ろうとする光と惟光の思いが一致します。
光と葵の婚約は無事解消できるでしょうか?こうなったら、葵は悪役令嬢です。作者はかなり気の毒に思うのですが、葵の上はモブなので諦めてもらいましょう。




