退席させられた紫との接近
葵は、自分が紫より優先されるべきだと言いたいのだ。
ここは、葵に紫より優先されているという実感を持っていただかなければならない。
「素敵だわ。たまには外のフレンチも良ろしくてよ」
「では、八時半に西洋亭に予約を入れておきましょう」
振り向いて、執事の松嶋に指示を出す。
松嶋が、予約の電話を入れるのだろう、頭を下げて退席した。
絵に描いたような、虚栄の市だ。
今頃、あの子は、紫の部屋で、ゲームでもしているのだろうか?
「葵さん、今度、機会があったら、あなたのお父上に、例の高速道路のルートがどうなりそうか、お尋ねしたいんだが……」
君の存在価値は、ここにある。と、言わんばかりの会話だ。
「それによって、あなたの公約が変わるのかしら?」
勝利を確信したのだろう。
葵は、喉で笑いながら訊く。
「そういうことです。
あなたを美しい女スパイとして使いたいくらいだ」
光は、平然と唇を重ねた。
俺は退席を促されて、リビングを出た。
廊下の掃き出し窓から、テラスに出る。
雨が蕭々と降っていた。
雨の中であじさいが咲いていた。奥の窓から緑の怪獣が、それを見ていた。
さっきは普通の格好だったのに。着替えたのだろう。
しばらくテラスにいたが、急に寒さを感じた。
6月とは言え、雨が降ると寒い。
事務室に戻ると、緑の怪獣が現れた。
「ここで、ゲームして良い?」
小さな声で訊く。
手には、携帯用ゲーム機を持っている。
「良いよ」
葵に言われたことが、ショックだったのだろう。
可哀想に。
この子は、嫌なことがあると、怪獣になるのだろうか?
光もいい加減なヤツだ。
葵が腹心の部下とも言うべきこの子にあんな言い方したのだ。
あの場で何か言うべきだ。
俺が、他から理由もなく非難されたら、やっぱり、こんな風に切り捨てるのだろうか?
俺の考えていることが分かったのだろう。紫が口を開いた。
「大丈夫。ヒカルは、惟光を切り捨てたりしない。
言われたのがボクだから、引き下がったんだ。
葵さまは、自分をボクより優先して欲しいんだ。
だから、ヒカルは、葵さまを優先しなければならなかっただけだ」
お前は、それで良いのか?
「ボクは、ヒカルを信じてる。だから……良いんだ」
この子も、光が好きなのだろうか?
女という女が血道を上げているのだ。
一番側にいて、気にならないはずがないだろう。
滑り台で、光に抱きかかえられるようにして滑っていた。
安心しきって、生権与奪権さえ与えたような顔で、体を任せていた。
それほど、光を信じているのに。
葵がこの子を遠ざけると、この子が孤独になるのだ。
少し寂しげな、何か大切なものを探しているような眼差し。
美しさが増したように感じた。
「ジュニアが好きなのか?」
唐突な質問に、不思議そうな顔で俺を見上げた。
「当然だ。男前だからな。
でも、浮気者だぞ。
葵の上だけじゃない。六条さんを始め、情報収集の協力者のほとんどが、あいつのこれだと見た」
そう言って、小指を立てる。
「これって?」
「良い人ってこと」
ったく、頭良いくせに、こんなことも知らないのか?
「そういう言い方をするなら、そうかも知れない。
でも、みんなヒカルが好きなんだ」
「あんたが一番ボスに近いところにいる。みんなの羨望の的だろう」
「そんなことない」
投げやりに言って、座り込んでゲームを始めた。
小さな騒音が流れ出す。
無秩序な音楽と台詞。
この子の心が、きしんでいた。
松嶋執事が現れて訊いた。
「紫さま、ご夕食は、どちらでお召し上がりになりますか?」
「ここで簡単に済ませたい。惟光もどう?」
少しすねたように笑った。
「葵さまって、マナーにうるさいんだ。
あの人と一緒だと食べた気がしない」
「じゃあ、俺もそうさせてもらおう。
あの人は、美しいけど肩が凝る。光の君も気の毒に」
「いずれ、ご結婚なさるお二人です。今のウチに慣れていただかないと」執事が澄まして言ってのけて、「では、こちらへお持ちしましょう」と、微笑みながら出て行った。
紫が、笑いながら言った。
「どっちが慣れるんだろうね?
葵の上が、もっと慣れてリラックスさせてくれるようになるってのがベストだけど、あり得ないし……やっぱり、ヒカルが葵の上に慣れて、多少のことでは、肩が凝らなくなるってことかな?」
重苦しい空気が霧散した。
この子、こんな風に笑うと、人間じゃないように見える。
天上から舞い降りた無垢なもの。
この微笑みに触れると、魂が浄化されるような気がした。
美保が、ワゴンを押して夕食を運んで来た。
「紫さま、いつもお客さまがいらっしゃると、お一人で召し上がってたんですよ。
だから、お客が続くと、ほとんど召し上がらなくなって……惟光さんがご一緒してくださるようになって、本当に良かったですわ」
「あんただったら、ジュニアと一緒に接客できるだろうに」
「ヒカルは、ボクが余所の人と接触しない方が良いって言うんだ」
光がこの子のことを心配する気持ちは分かる。
だが、普通のことが普通にできないこの子が可哀想に思えた。
食事が終わった。
紫は、いつになく暗い顔をしている。
いつものこの子らしくない。
らしくないな、と言うと、ポツリと言った。
「ヒカルが結婚したら、こんな風になるんだ。
今頃、気が付いた。
バカみたい」
「でも、あんたはブレインだ。
だから、ずっとジュニアの側にいられる」
「葵さまが許してくれない。
パソコンとスマホさえあれば、どこででも仕事はできるんだ。東京のマンションであろうが、信州の別荘であろうが」
「でも、ジュニアはあんたのことが好きだ。側に置いておくさ」
「だから、葵さまが怒るんだ。……ボクがいては、いけないんだ」
「あんたがいるから、仕事も順調なんだ。
ジュニア、知事選に出たら、絶対、当選する。
そしたら、あんた、副知事だ」
「副知事になるのは惟光だ。
ボクは、ヒカルが何になっても、ゴーストだ。
だから、どこででも仕事ができる。どこででも、ね」
いつもの二人を思い出して、切なくなった。
そっと頭を抱いて、髪を撫でた。
情けなそうに見上げる紫は、恋を知った乙女だった。
葵のせいで紫が孤立します。惟光は、日頃の紫と光の仲を知ってるだけに、かわいそうに思います。
でも、「かわいそうだは、惚れたってことよ」という名言もあります。
これから一体、どうなるのでしょう。
がんばれ、惟光!




