六条康子
その日も、紫から送られた資料と格闘した。
わずか十六の仕事とは、とても思えない。
隣のデスクでパソコンを操っている紫を横目で見る。今日も緑色の怪獣だ。
朝方、光の腕の中で、うっとりと目を閉じてキスを受けていた。
光は、紫の顔中にキスする。
額、頬と進んで、唇を軽くついばむ。
少年のような表情に不思議な輝きが生じて、鳥肌が立ちそうだ。
光は、この子の美しさを磨くために抱いているように見えた。
光が出掛けた後の紫は、普通の怪獣だ。
怪獣を普通というのは語弊があるが、他に言いようがないのだ。
そんなことがあったのかという顔をして、作業をしている。
いくつものウインドウを開いて、州の施設をチェックする。施設を作った年や工事総額なんかを表にまとめるのだ。楽しそうで、まるでゲームでもしているようなノリだ。
突然、電話が鳴った。
左手で受話器を取った紫が、何でもないような声で言った。
「はい、二条事務所分室」
ええっ?
ここって、二条事務所の分室なのか?
「ああ、康子さま?ごきげんよう。ヒカルの日程?ちょっと待ってね」
パソコンを操作して、光のスケジュール表を呼び出す。
「ええと、2月と3月で一日空いてる日?今のところ、2月は、21、26。3月は7、9、12、20、23、30ってとこ。
ん?2月21日にするって?
じゃあ、仮押さえしとくから、後で、ヒカルに頼んでね」
スケジュール表の画面の2月21日の部分に緑で『康子』と入力する。
「それじゃ、おみやげ、よろしくね」
ニコリと笑って受話器を置く。
「今の電話、何だ?」
唖然として訊いた。
ここじゃ、光のデートの面倒までみるのか?
「ヒカルの恋人の六条康子さまだった。
デートの日程押さえてって、時々頼まれるの。
ヒカルに直接頼んでも、スケジュール表で確認しないと日程も決められないでしょ?だから、ここに電話した方が早いの。
康子さま、自分が秘書してるから、そんな事情に詳しいの。
あの方が一番合理的だね」
コロコロと笑う。
「どうして、その『康子』って字が緑色なんだ?デートだからか?」
「まさか?こっちに『葵』って、黒になってるでしょ?」
なるほど、言われてみれば、3月1日の日程に『葵』と黒で書いてある。
「正式にヒカルの了解が取れたら、緑から黒に変えるの。
緑は仮押さえって意味」
事務室のドアが開いて、美保が顔を出した。茶器を乗せたワゴンを押している。
「紫さま、惟光さん、お茶になさいませんか?」
「ありがとう」
紫は子供のように笑った。
「美保ちゃん、ヒカル、康子さまとスキーに行くことになりそうだよ」
「いつですか?」
カップに紅茶を注ぎながら、美保が訊いた。
「2月21日」
「じゃあ、光さま付きの麻美さんに準備するよう言っておきますわ」
紅茶に口を付けた紫が、嬉しそうに目を細める。
こういうときは、普通の子供だ。
「おいしい。美保ちゃん、上手になった」
「紫さま、女たらしが移ったんじゃありません?」
その晩、帰宅した光が紫を睨み付けた。
「勝手にデートの日程調整なんかするんじゃない!」
「空いてる日を訊かれただけだ。
ボクとしては、いつもお世話になってる康子さまに、ヒカルの空いてる日を訊かれたから、教えてあげた。それだけだ。
やっぱり、康子さまからデートのお誘いがあったの?」
「スキーのお誘いだ。
2月21日。どうせ、緑で仮押さえしてあるんだろ?黒に変えろ」
「そんなに怒らなくても。女たらしは、デートが好きなもんでしょ?」
「女ったらし、女ったらしって言うんじゃない!
私は、博愛主義者なんだ!」
「薄愛主義者……ね。薄く、あまねく、愛を配ってるんだ」
思わず吹き出すと、光にジロリと睨まれた。
ヤバイ!この無茶苦茶な会話に交じらないようにしなくては。
何てったって、ボスと上司の痴話喧嘩だ。
「でも、ヒカル、康子さまのこと好きなんでしょ?良いじゃない」
「あの少し前、葵から連絡があって、19日にドライブに行かないかって誘われて、都合が悪いって断ったばかりだったんだ。
タイミングとしては、最悪だ」
「葵さま、事務所に問い合わせれば良いのに。
いくらでも教えてあげるのに。
空いてる日は……って」
「君な、冗談でも葵の前でそんなこと言うな。血を見る」
葵さま。一体、どんなお嬢様だ?一度、ご尊顔を拝ませていただきたいものだ。
3月に入って、六条康子に紹介された。
あのデートの仮押さえした女だ。俄然、興味が湧いた。
康子は、ここらでは、誰もが知っている有名企業の社長秘書だった。
光と紫の依頼で、あの会社や業界の内部事情を教えてくれるというのだ。
ん?守秘義務は、どうなってるんだ?
やばっ、考えるのを止めよう。
デートの約束を取り付けたことで分かるとおり、六条康子は、光の恋人の一人だった。
そして、驚いたことに、紫の親しい友人でもあった。
年の差が十以上あるのに、まるで、仲良し女子大生のようなノリなのだ。
康子は、事務室に入るなり、スキーの感想をまくし立て、日程調整の礼を言った。
そうして、得意そうに、タオル地でできた怪獣の着ぐるみを差し出した。
「おみやげよ。光の君があなたの写メを見せてくれたの。
あれってフリースでしょ?そのうち春夏用も要るかなって」
「可愛い!良い!康子さま、素敵!大好き!」
紫が大喜びで康子にしがみついた。
「着てみて良いかしら?」
「着替えてきたら?私も見たいわ」
「じゃあ、惟光、康子さまの報告をお聞きしといてくれる?」
康子に向かって手短に俺を紹介した。
「康子さま、こちらが、チームヒカルの新しいメンバーの藤原惟光さん。あの気難しいヒカルのテストに合格した唯一の人なの」
康子は、俺に向き直ると業務用の顔を作った。
「優秀な方なんでしょうね。
六条康子です。よろしくお願いします。
私だって、守秘義務があるから、言ってはいけないこと、つまり、ボスの了解を頂いてないことは、言いません。だから、後は、そちらで調査してくださいって、いつも申し上げてますの」
ええっ!あんた、ボスの了解の上で光を手伝ってるのか?
守秘義務に関する心配はなくなったものの、次の心配が浮上した。
……ってことは、あの社長は光の応援団だってことになるのか?
……知らなかった。
「葵の上、あの子にもっと優しくすれば良いのに。
大人げない。
こちらの皆さまが手をさしのべなかったら、どこかでのたれ死んでいた子よ。
だから、あの年で恩義を感じて、あんなに一生懸命働いているのに」
着ぐるみを抱えて走り去った紫を見送って、康子が言った。
業務用の取り澄ました感じが消えて、くだけた感じになっている。
俺に紫と同じような身内意識を持ってくれたのか、俺を男として認めていないのか。
きっと、後者だろう。
マイペースな姉ちゃんのようだ。会社では、お局様してるんだろう。
「身寄りがないんですか?」
「ええ、後妻に入った奥様の遠縁にあたる孤児だって話だわ。
久光ご夫妻が教育されたら、天才だったことが分かって、光の君が留学したとき一緒に留学させたんですって。
そんな優秀な子なら、将来、光の君を支えてくれるんじゃないかって。
で、その通りになったってわけ。
でも、葵の上には、面白くないんでしょうね。
いつも、あの方の一番近いところに、あの子がいるってことが」
「そうなんですか」
「前に、何かのパーティで、他のお客の前で、わざと恥をかかせて、叱責したらしいわ。
養ってもらってる孤児のくせに、こんなこともできないのかって」
うわっ。また派手なやり方。
女って怖い。
いや、怖いのは葵の上か。
「それで、そこにいた人達は、どうやったら、あの子を手に入れることができるかって囁きあったんですって」
手に入れる?
どういう意味だ?
金持ちが考えることは、分からん。
「すごく綺麗な子だから、譲り受けて囲い者にしたいって」
「囲い者って。あの子、男の子だと思われているんでしょ?」
「あなたも気が付いた?
あの子、女よ。でも、愛人にするには、容姿さえよければ男でもかまわないって人達がいるのよ。
だから、光の君はナーバスになっちゃって、表に出ないようにって禁足令を出したの。
あの子の噂が広まると、口実としては、メイドに欲しいとか、ブレインとして使いたいとか、いろいろあるけど、結局のところ、愛人にしたい色情狂が押し寄せることになるだろうって」
ドアが開いて、怪獣の着ぐるみを着た紫が入って来た。
タオル地だけあって、フリースより涼しげだ。
爽やかな怪獣と言ったところか。
おいおい、怪獣に爽やかはないだろう。
康子が、今の話は聞かなかったことにしろ、と目で合図した。
「まあ、可愛い!思った通りだわ」
「ヒカルは好きじゃないって言うんだけど、康子さまが下さったって言ったら、諦めて付き合ってくれるかも」
嬉しそうに笑った。
邪心のない笑顔に、こっちまで嬉しくなる。
紫が帰って来たので、康子は、自分の働く会社の近況や、業界団体の様子を報告した。
康子のボスは、業界団体の理事もしていて、その微妙な動きを掴むことができるのだ。
手元の業界団体の構成員名簿を見ながら、現在、州が設立しようとしている法人について話し合う。
業界団体の協力が必要なのだが、反対派がいるのだ。州としては、経費の削減になるので、何とかこの団体を作って業務を外部委託したいらしい。
「州の方は必死みたいだけど、やり方によっちゃ、補助金の額が増えて経費の削減にならない場合もある。
その辺りは、どの程度認識してるんだろう?」
「それは、おいおい調べてみるわ。何分お役所仕事だから、法人設立の担当者と補助金の担当者が違う思いで動いているかもしれないし」
有能な秘書のお姉さんと怪獣の会話に、付いていけない。
こんなことを近所でやられるから、プライドの高い葵の上が反感を持つんだろう。
六条康子が帰るとき、紫が花束を渡した。
康子は花が好きなのだ。紫はそれを知っているので、康子が来る日は花束を用意しているんだ、と笑った。
少なくとも紫と康子の友好関係は、微笑ましいもので、どうして光が康子でなく葵と結婚しなければならないのか、よく分からなかった。
地元の有名企業の社長秘書、六条康子は、なかなか面白い女性のようです。
ここでも、惟光は紫と康子に振り回されます。惟光の平穏はどこにあるのでしょう。
がんばれ、惟光!




