見張り「ててっ、てっ、天秤の船だァァァ!」ゲスピノッサ「総帆展帆ー! 分捕った大砲や錨を捨てるぞ!」ネイホフ「いっ、命懸けで逃げろォォォォ!」
マリー・パスファインダーの一人称に戻ります。フォルコン号がフルベンゲンを発って二日後、グレーゲルがフルベンゲンに来た翌日の事。
「労働者の皆さん! おはようございます!」
午前半ばから降り続いていた雪もどうやら止んでくれたらしい。
私はバニーガール姿で艦長室を飛び出し、甲板の雪を蹴立てて艦首の方へ走る。大量の生魚を積んでいるフォルコン号は、多少の雪は都合が良いという事にして、放置して運行している。
「ちょっと船長、その格好は無いんじゃ……」
「太っちょ、ハンモック持って来てくれない? あー! 不精ひげ、スプリットセイル畳んでよ、これじゃ前見えないじゃん!」
「速度を犠牲にするのか……」
私は呆れ顔のアレクと不精ひげを追い越し、艦首の波除版からバウスプリットへと飛び移る。
「じゃあいいわよ自分でやるから。さあ! あと5分ぐらいですよ労働者の皆さん!」
「……貴女は!? なんて格好してるんですか!!」
ああ。今日はうるさそうなのが乗ってるんだった。振り向けば下層甲板から上がって来たファウストが、艦長室の方を向いたまま叫んでいる。
「ニックさん! アレクさん! いいんですか女の子があんな格好をしていて!? 貴方達大人じゃないんですか!? あれの保護者じゃないんですか!?」
不精ひげはシンプルに頭を垂れる。
「面目ない」
「面目ないじゃありません! 駄目でしょう小さい女の子があんな格好してちゃ、この船には風紀というものは無いんですか!」
「訳あって僕らリトルマリー号からの水夫は、船長があの服を着る事に反対は出来ないんです」
アレクも申し訳無さそうに頭を掻いている。何ですか。私別に悪い事してないもん。
左肩の傷は一時は一生残る物と覚悟していたが、かなりよくなって来ている。
そして私は伊達や酔狂でこの服を選んだ訳ではない。私は首から細い鎖で提げた懐中時計をもう一度見る。あと4分……
私がそんな事を考えながら時計を見下ろし、顔を上げると。
「え……えーっ!? ウソぉぉぉおお!?」
なんと言う事か、ここまでしたのにその瞬間を見逃してしまった! 時計の調整が甘かったのか、計算が狂っていたのか。
太陽が昇って来たのである。
南南東の空、水平線の向こうからそっと、オレンジ色の光の矢が射して来たのだ。
ああ、太陽の光が、私の体に降り注ぐ……ああ、太陽……真夏のハマームやソヘイラ砂漠では見るのも嫌だった太陽の、弱々しい、だけど暖かいエネルギーが素肌に染みる……
良かった。魔法のバニースーツを持ってて良かったなあ、この魔法がかかって無かったら、この寒さの中こんな薄着で外に出るのは無理だよなあ。
「太っちょー、ハンモックまだ? 私日光浴したいんですけど」
私はそう言いながら振り返る。
アレクも不精ひげも舷側から身を乗り出し、太陽を見ようとしていた。ファウストも騒ぐのをやめ、静索に登り掛けている……不精ひげがこちらを見る。
「船長、早くスプリットセイルを閉じてくれ、太陽が良く見えないぞ」
「あんたさっき文句言ってたじゃん!!」
私はスプリットセイルの動索を引き帆を閉じる。どうせ後ですぐ開くだろうから、適当に。
甲板にも弱い光が届いただろうか? いや……まだ太陽が低過ぎて、日光は波除板すら越えられないみたいだ。
まあ、日光が当たるようになると雪や氷が融けるし極光鱒が痛むかもしれない……それは解っているんだけど、やっぱり久しぶりのお日さまは心が和む。
フォルコン号に、13日ぶりの日が昇る……ちゃんと航海日誌に書かなきゃ。フルベンゲンに日が昇るのはまだまだ先なんだろうな。
あ、アイリさんも起きて来た。
「あら、太陽が見えてるじゃない……今日こそ洗濯物を日に当てられるかしら」
「この太陽は3時間も見れませんし洗濯物を乾かす力は無いでしょう。それより魔術師さん! あれにまともな服を着るように言って下さいよ、こういうのは女性の保護者の仕事じゃないんですか!?」
「まともな服とは何よ、バニーガールは平和の象徴なのよ! だいたい貴方だってねぇ、マリーちゃんがあの服を着て船長になっていなければジェンツィアーナ沖で袋詰めにされて海に沈んでいたはずなのよ!」
そしてまた始まった。どうも魔術と科学は相性が宜しくないらしい。聞けば海戦の間にも、アイリとファウストはしょっちゅう衝突してたとか。
「太っちょ、ハンモックまだー?」
私はもう一度そう呼び掛けるが、どうやらアレクにはハンモックを持って来てくれるつもりは無いらしい。近頃では皆さん私の露骨な我侭要求は無視してくれるようになって来た。仕方ない、自分で取って来よう。
「誰も何とも思わないだなんて……フレデリクという男を英雄だと思っている人達が見たら、どんな衝撃を受けるのでしょうか……」
私は静索から降り眼鏡を抑えて蹲るファウストの横を通り抜け、艦長室に戻る。艦尾楼の上からでも太陽は見えそうね。ハンモックじゃなく折り畳み椅子でいいかしら。
……
ファウストの言葉で、私はやらなくてはいけない事を思い出した。私は折り畳み椅子の横に置いてあった風呂敷包みを手に、艦長室を出る。
「アイリさん、この服、乾かしてくれてありがとうございます」
「ええ。キャプテンマリーの服でしょ?」
私は包み開き、その一揃えの服を取り出して一つ一つ広げる……何日も続けて着ていた上、最後は海に落ちた服。アイリさんはそれを丁寧に手入れして乾燥させてくれていた。
不精ひげとアレクもこっちを見ている。あの二人とロイ爺も、私が初めてこの服を着て来た時は大笑いしてくれたわね。
この服と、たくさんの冒険を共にした。ブルマリンで、ナルゲス沖で、ハマームで、サフィーラやディアマンテでも、そして……スヴァーヌでもずっと。
だけどもう駄目だ。前にアイリさんが言った通り。この服を着た時の私はすごく無謀で仲間の気持ちを顧みない迷惑な人間になってしまう。
「せっかく綺麗にして貰えたのに申し訳ないんですけど。私、この服とはお別れしようと思います」
私はそう言って、ジュストコールやキュロットを綺麗に畳み直し、元通り風呂敷で包む。
「そう……そうね。マリーちゃん……いえ船長がその気になったのなら、それがいいと思うわ」
アイリさんは腕組みをして小さく頷く。
「えっ、船長、まさかそれ捨てるつもり?」
「そうだ、捨てる事ないだろ、後で気が変わったらどうするんだ」
アレクと不精ひげが駆け寄って来る。ファウストもその後ろからゆっくりと近づいて来る。
「それは……もしかしてフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストはもう居なくなるという事ですか?」
私は一旦、皆を見回してから頷く。ロイ爺とウラドは睡眠中、半休のカイヴァーンは多分会食室でぶち君と一緒だ。ぶち君……あの子もこの服とは縁が深いから、見て貰いたかった気もするけど……いや、猫の事はいい。
「箱の奥にしまっておけばいいじゃないか、その服で勝った戦いがたくさんあるんだろ? 縁起がいい服じゃないか」
微妙にハマームの事も知ってるっぽい不精ひげが、そう言って食い下がる。
「不精ひげ、博打で一番大事な事ってなんだっけ?」
「……勝ってるうちにやめる事だ」
私は黙って風呂敷を抱え、艦尾楼に登り艦尾の手摺りの前に行く。アイリ、不精ひげ、アレク、後ろからファウストもついて来る。
私は一つ深呼吸をして、それから風呂敷包みを抱きしめ、フレデリクを名乗りそのつもりで行動する時の、低く作った声で叫ぶ。
「今までありがとう! だけどフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストはここで終わりだ! さようならキャプテンマリーの服、さようなら……フレデリク!」
そして私は下から上へと腕を振り上げ、風呂敷包みを天高く投げた。
包みは二週間ぶりの日光に照らされながら空を飛び、艦尾向こうの海面へと落ちて行く……
景色が涙で滲む。
風呂敷が海面に落ち、飛沫を立てる……北風に乗って飛ぶように進むフォルコン号から、風呂敷包みはどんどん離れて行く。
ごめんね、これ以上連れてってあげられなくて。
―― ざばぁ
ん……今なんか大きな魚が跳ねた……
―― ざばぁぁ(嬉)
ひゃっ!? 極光鱒!? 極光鱒が波間から現れ、浮かんでいた風呂敷包みを一呑みにして……海中に消えた……
た……食べたの? キャプテンマリーの服が入った風呂敷を極光鱒が食べた……
―― ざばぁぁぁぁぁあ(怒)
「ぎゃああ!?」
次の瞬間……フォルコン号のすぐ後ろの海面からジャンプした極光鱒が……私に覆い被さるように飛び掛かって来た!?
―― ぺっ!!(怒)
ぎゃっ!? 私の顔面に極光鱒が吐き出した何かがぶつかって、何も見えない!?
―― びたーーん!!(怒)
「ぎゃああああ!!」
そして艦尾楼の上で跳ねたらしい極光鱒の尾は私のお尻を直撃し、私は極光鱒が吐き出した何か諸共跳ね飛ばされた!
「船長!?」「マリーちゃん!?」
―― ざぱぁぁん!!(怒)
極光鱒はフォルコン号の艦尾楼の上でバウンドし、海へと帰って行った。奴が食い物だと思って食いついたのは私が海洋投棄した風呂敷包みであり、その味が気に入らなかった奴はそれを豪快に吐き出した……今起きたのはただそれだけの事だった。
「甲板! 行く手に帆影、ピンネース船だ! あいつ、一隻だけ戦闘前に逃げ出してたアナニエフ一家の海賊じゃねえのか!?」
風呂敷包みごと顔面から舷側の手摺りにぶつかって倒れた私の耳に、檣楼からのカイヴァーンの声が届く……この騒ぎも気にせず見張りを続けてたのかしら。
皆の足音が離れて行く。これから忙しくなるのだろう。




