106, その名も知らぬ
「うわっ……やっぱり、急にいるとびっくりしますね」
「ごめんなさい。きっと、聡太さんが気づいてくれたら、もっと自然に出てこられると思うんですけど」
「玄関から来てもいいですよ」
「それは、ちょっと遠いので」
先輩はそう言うととても楽しそうに笑った。色の白いひとだから、頬が赤くなるのがすぐに分かった。あまりこういう能力者らしい会話をしたことがないので、慣れていないみたいだった。僕だって妙なことを喋っていると自覚しているんだけど。
「先輩のことを呼んだのですけど、なかなか出てきてくれなくて」
「そうでしたか……、何かご用事でしたか?」
話をするよりも前に、僕は先輩に椅子を勧めた。部屋の中には学習机の椅子と、パソコン用の椅子があったので、先輩と向かい合って座ることができた。先輩は椅子に座ると、とても期待しているような表情になったみたいだ。
「私の能力、分かりましたか?」
「はい」
それもそうかもしれない。
実のところ、先輩はもうとっくに自分の正体を明かしていた。僕が注意深ければ、先輩の正体をもっと早く知ることができたに違いない。
だから、僕はこのことが分かったことをあまり誇ることができない。先輩は僕をびっくりさせることを楽しんでいて、その正体を隠すつもりもあまりなかったからなんだ。
「先輩の能力は、物に身を宿す能力だと思います。古いものには魂が宿ると言いますけれど、先輩はその魂みたいなものです」
「私は生きていますけどね。それに、古いものということは正解ですけれど、根拠はどんなものがありますか?」
先輩は口元を覆い隠しながら笑った。
もちろん、先輩は幽霊じゃなくて生きている人間だった。それでいて同時に、先輩は物の側に現れることができるみたいだった。
それはまるで、この新しいもので溢れた世界のほかに、古いものの世界が存在するかのようだ。先輩はその古い世界の住人で、僕が知らない抜け道を通って、僕の部屋に現れているみたいだった。
そして、先輩が宿るものが古いモノだという根拠は、たくさんの条件を考えていくと、ひとつしか可能性が残らないからだった。
「答えを導き出すためのヒントは、先輩にたくさん貰いました。だから、先に先輩の正体を明らかにしたいと思います」
僕は先輩を待たせるまでもなく、机の中からそれを取り出した。
それはいま、汚さないようにプラスチック製のフォルダの中に入れてあった。僕がこれに出会った瞬間から、この世界がその姿を変えたんだ。それは、とても大切な祖父の遺品だった。
「先輩は――この祖父が遺したノートですよね。僕の机にしまい込んである、お祖父ちゃんが能力者について書き留めた一冊のノートの原本。先輩の正体はこれです」
それで、先輩は僕が先輩の秘密に気づいたことを分かってくれたみたいだった。小さく手を叩いて、小さく「嬉しい」と言った。
「正解ですし、正確です。どうして分かりましたか?」
「もちろん、先輩がたくさんのヒントをくれたからです。まず、先輩はこの部屋の中で現れました。それは、この部屋のなかに何かしらの手がかりのある重大なヒントです。次に現れたのは土曜日に図書館へ行くときでした。あの日は、半日のあいだ僕と一緒にいて、この家から遠く離れた図書館に行きました。だから、あのときの僕が持っている物の中に、先輩と結びついている何かがあると思いました」
これは、七倉さんや相坂さんが琴野辺先輩のことを気がつかなかったことも関係しているはずだった。なぜなら、僕が能力の影響を受けていないのに、先輩が僕の側に現れるということは、僕が身につけているものの何かが問題になっているはずだった。
「僕の部屋の中にあって高校には持って行かず、図書館には持って行くもの……祖父のノートの原本しかありません」
「でも、聡太さんはそのノートの写しを持ち歩いているでしょう?」
「はい。いつか使うことがあるだろうと思っていましたし、前に学校でこれを使うことになったこともあります。……でも、完全な写しではないです。このノートは長い時間を掛けて鉛筆で書かれています。コピー機を使うと薄い文字は掠れるし、僕が手書きで写したものは、どこか祖父のものとは違って見えるから」
先輩は、まるで本当にそのノートに命が宿ったみたいに、優しく僕のことを見つめて、その推理を聞いてくれた。僕は大切な祖父の記録を毎日の学校生活に持って行くつもりはなかった。
けれども、できるならば祖父が書き残したそのノートを頼りにしたかった。だから、僕はたまに図書館に行く日だけは祖父のノートを持ち歩いた。
「次にノートの中身の話です。祖父は自分自身のことを苗字を付けて記すことはありませんでした。かならず『私』と書きます。それから、ノートのなかに僕たちに宛てた遺言がありますけれど、そのなかで出てくる名前にも『司』という苗字を付ける必要はありません。祖父が僕を呼ぶときは、かならず『聡太』とだけ呼びました。もちろん、ノートの中にもそう書いてあります。だから、先輩は僕の名前を知ることはできます。
でも、祖父は自分の一族のことを書き表す必要もありました。そういうとき、祖父は『司家』と書きました。『司一族』と表すこともできたと思うけれど、祖父にとって自分の妻や子ども、それから孫が何よりも大切だったみたいです。
ところで『司家』という言葉は家元という意味で辞書にも載っています。たぶん、先輩が僕の苗字を間違えたのは、僕のことを能力者についてよく知る家元のような家系だと考えていたからじゃないですか」
「違いますか?」
その質問に僕は答えることができなかった。でも、仮説としてはありえることだった。
僕の先祖は、能力者のことを伝えてきた家系だった。それは何の称号になるわけでもないけれど、異能の知識を持つ『司家』――中心となる家のこと――だったのかもしれない。
でも、それが本当にそうなのかどうかは僕には分からなかった。祖父もどう考えていたのかは分からない。ただ、祖父は自分たちの家が能力者の知識を持つことが、とても特別なことだと考えていたことは確かだった。
僕は名言を避けて、先輩の落ち着いた容姿を見据えた。最後に残った問題こそが、最も大切なことだった。
「先輩、本当の名前を教えてください」
そう、先輩の名字は琴野辺ではなかった。それは、かなり早いうちから気づくことのできる、厳然とした事実だった。できれば、先輩と出会ってすぐに気づくべきだったのかもしれない。今回、僕がけっこうな自信を持って先輩の能力を言い当てることができたことも、先輩が偽名を使っていることに気づくことができたからだった。
でも、先輩は和やかな相好を崩さないまま断った。
「琴野辺でいいです。聡太さんにとっては琴野辺。そうでしょう?」
「そうには違いないですけれど……、でも、偽名なんて困ります」
「文子です」
先輩は短く言った。とても先輩らしい名前だった。どこか懐かしさを覚える響き。
もしかすると、先輩は能力者でいるときと、そうでない日常とで名前を使い分けているのかもしれなかった。だから、僕に本当の名前を知ることができただけでも満足だった。
先輩は髪が長いけれど飾り立てていないし、化粧だってしていなかった。その声の細さも、どこか世間ずれしていて不思議だった。それはきっと、今よりもすこし前の世界に過ごす、不思議な能力者がもつ雰囲気に違いなかった。
「でも、先輩は僕とどこで出会ったんですか。」
「惣社の参道ですれ違っただけです。でも、とても気になりました。隣に連れていた女の子のことも気になったけれど」
相坂さんのことだ。たしかに、相坂さんは強力な能力の使い手だから、道を歩いているだけで先輩が気にすることも分かった。でも、なんだか腑に落ちない……その態度を先輩は感じ取ったのかもしれない。すぐに付け足して説明してくれた。
「聡太さんの着ていた浴衣です。あれは居心地が良かったです」
「あっ!」
そうか、と僕は気がついた。僕が夏祭りのときに着ていた浴衣は、祖母が箪笥の中から取りだしてきたものだった。
「あれって、そんなに古いものだったんですか?」
「おそらく。聡太さんのお父様のものではないでしょうか」
つまり、祖父母の家の箪笥にあるということは、僕の父か叔伯父が若い頃に着ていたものか、ひょっとすると祖父が着ていたものだろう。
「そこから、お祖父様のノートに移りました。初盆だったから、お祖父様の家に持って行ったのですよね」
これはもう当然だった。地理の分からない先輩が、僕の家までたどり着くのは簡単だった。
「でも、先輩は空間を渡って姿を現すことができるなんて、すごいですよね」
「私の半身みたいなものですから、古いものの側ならこうして実体化して、聡太さんとお話しすることもできるというだけです。でも、古いものはあまり移動しませんから、案外、自由に身動きできるわけではないんですよ。それよりは、古いものと一緒にいられるほうが幸せです」
先輩はそう言って、僕の前からかき消えるようにしていなくなった。去り際に「また来ます」と言い残していたし、たぶんまた会えるんだろうと思う。僕は先輩がどこの高校に通っているかもまだ知らなかった。
さて、最後に、僕が先輩のことをどうして祖父のノートだということが分かったのかを明らかにしておかないといけない。たしかに、先輩は古いものの中に宿ることは言い当てた。
でも、それは結果的に当たっていただけのようにも思えた。本来なら、先輩と僕は出会って数日しか経っていないのだから、先輩の能力を的確に当てることはできなかったに違いない。
けれども、先輩はとても優しくて控えめで、それでいてちょっとだけ大胆なひとだった。
前に先輩が探し当ててしまったものを、僕は机のいちばん奥深くから引き出した。それは、この春からまとめていた、異能の力をもつ人との記録を挟み込んだフォルダだった。そこには、夏休みのあいだに撮った七倉さんの水着写真や、相坂さんと一緒に撮った浴衣姿の写真があるんだ。他人には見せられない。
僕は新しいルーズリーフを取り出すと、シャーペンの頭を叩いて琴野辺先輩の能力のことを書き記した。そして、琴野辺先輩との出来事を手短に記録していく。僕の祖父がそうしていたように。
それは、とても単純なアナグラムに過ぎなかったんだ。
『KOTONOBE→NOTEBOOK』




