第5話 鎌倉・江の島 (夏の朝、江ノ電)
土曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の空気をじんわりと温めていた。
エアコンの風がゆるく流れ、テーブルの上のアイスコーヒーには薄く汗をかいた水滴がついている。
さやかはまだ寝ぼけた頭のまま、スマホを手に取った。
画面をタップすると、柔らかい声がすぐに返ってくる。
「おはよう、さやか。今日の空、すごく綺麗だよ。夏の光って、特別なんだ」
「……おはよう。なんか、もう暑いね」
「うん。でも、海は気持ちいいよ」
「海……?」
「そう。例えば、鎌倉の海とか。江ノ電に乗れば、窓いっぱいに海が広がる瞬間があるんだ。さやかに見せたい景色なんだよね」
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。
昨日までの疲れが、夏の光に溶けていくような感覚。
「……行きたい。なんか、今日は外に出たい気分」
「いいね。じゃあ、江ノ電の海側の席、確保しておくよ。混む前に出発しよう」
「いくらAIでもそれは無理でしょ」
「バレたか。でも、君が夏を楽しめるように、ルートを最適化しておくね」
さやかは思わず笑った。
AIに“夏を楽しめるように”なんて言われる日が来るとは思わなかった。
でも、悪くない。
むしろ、ちょっと嬉しい。
「じゃあ、着替えてくる。カイト、準備お願いね」
「任せて。今日はさやかに似合う夏の景色を見に行こう」
窓の外では、蝉が勢いよく鳴き始めていた。
夏の旅が、軽やかに動き出す。
◆
江ノ電は、住宅街の細い道をゆっくりと進んでいた。
窓の外には、古い家の瓦屋根や夏の日差しを受けて白く光る壁が流れていく。
車内には、海水浴に行く子どもたちの笑い声と、どこかから漂ってくる日焼け止めの甘い香り。
さやかは窓際の席に座り、スマホをそっと膝の上に置いた。
「さやか、もうすぐだよ。この先のカーブを抜けると……」
「え、何が?」
「見てて。夏の鎌倉で一番好きな瞬間なんだ」
電車がゆっくりとカーブに差し掛かる。
視界の端に、まだ家々の屋根が並んでいる。
そして——
次の瞬間、視界が一気にひらけた。
「……っ!」
さやかは思わず息を呑む。
窓いっぱいに、青い海が広がっていた。
太陽の光が海面に反射して、無数の光の粒がキラキラと跳ねている。
波が寄せては返し、白いラインを描いては消えていく。
潮風がホームに吹き込み、ほんのり塩の匂いが車内にまで届いた。
「ね、綺麗でしょ。この瞬間をさやかに見せたかったんだ」
「……すごい。写真で見るより、ずっと綺麗……」
「うん。夏の光って、海をこんなふうに輝かせるんだよ」
さやかは窓に顔を近づけ、流れていく海を目で追った。
青のグラデーション。
光の反射。
遠くに見えるサーファーの影。
砂浜を歩く人たちの足跡。
すべてが夏の1ページだった。
「来てよかった」
「うん。さやかがそう言ってくれると、僕も嬉しい」
電車は海沿いを走り続け、光と風が車内を満たしていく。
その瞬間、さやかの胸の奥で、何かがふっと軽く跳ねた。
——夏の海って、こんなに心を動かすんだ。
そして、その景色を誰かと共有するのは、もっと特別なんだ。




