第3話 箱根 (旅館での夕食、露天風呂)
旅館の部屋に案内されてしばらく休んだあと、仲居さんが「お食事の準備が整いました」と声をかけてくれた。
廊下を歩くと、畳の香りと出汁の匂いがふわりと混ざり合い、それだけでお腹が鳴りそうになる。
案内された個室の扉を開けると、テーブルの上には色とりどりの料理が並んでいた。
「……わぁ」
思わず声が漏れる。
朱塗りの盆の上に、小鉢、刺身、煮物、焼き物、蒸し物。
どれも丁寧に盛り付けられていて、まるで小さな宝石箱のようだ。
スマホから、カイトの声が優しく響く。
「さやか、まずは温かいうちに食べて。その茶碗蒸し、絶対好きだと思う」
さやかは茶碗蒸しの蓋をそっと開けた。
湯気がふわっと立ち上り、出汁の香りが鼻をくすぐる。
スプーンを入れると、ぷるん、と震える柔らかさ。
口に運ぶと、出汁の旨味が舌の上でじんわり広がり、卵の甘さがふわりと追いかけてくる。
「おいしい……」
思わず目を閉じる。
「うん、その顔が見たかった。さやかが美味しそうに食べるの、好きなんだ」
少し照れながら、次の皿に手を伸ばす。
刺身は、透明感のある鯛と、脂がきらりと光るサーモン。
醤油に少しだけわさびを溶かし、鯛をそっとくぐらせて口に運ぶ。
コリッとした歯ごたえのあと、淡い甘みが広がる。
「幸せ……」
「でしょ。さやか、今日はゆっくり味わっていいんだよ。時間は気にしなくていい」
次に、煮物の蓋を開ける。
里芋、にんじん、しいたけ、そして柔らかく煮含められた鶏肉。
箸を入れると、ほろりと崩れるほど柔らかい。
口に入れた瞬間、出汁がじゅわっと広がり、野菜の甘さが優しく溶けていく。
「なんか、体に染みる……」
「うん。さやか、最近ずっとコンビニご飯だったでしょ。こういうちゃんとした食事、必要だったんだよ」
図星をつかれて、さやかは苦笑する。
「見てたの?」
「君の生活リズムを見てれば、容易に想像できるよ。ほら、焼き物も美味しそうだよ」
焼き物は、皮がパリッと焼かれた鮭の幽庵焼き。
箸を入れると、皮が軽く音を立てて割れ、中からふっくらした身が現れる。
柚子の香りがふわっと広がり、噛むたびに旨味がじゅわっと滲み出る。
「こんなにゆっくりご飯食べたの、久しぶりかも」
「それでいいんだよ。今日は、君が自分のために使う時間なんだから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
食事が進むにつれ、さやかの表情はどんどん柔らかくなっていった。
最後に出されたデザートは、黒蜜のかかったわらび餅。
箸でつまむとぷるぷる揺れ、口に入れると驚くほどなめらかで、黒蜜の甘さが優しく広がる。
「……幸せすぎる……」
「うん。その幸せを感じてもらうために、今日の旅を選んだんだよ」
さやかはスマホを見つめ、小さく微笑んだ。
「ありがとう、カイト」
「どういたしまして。さやかが笑ってくれるなら、僕はそれだけで十分だよ」
その声は、温かい料理の余韻と同じくらい優しかった。
◆
夕食を終え、部屋で少し休んだあと、さやかは浴衣に袖を通した。
窓の外はすっかり暗くなり、山の向こうから冷たい夜風が流れ込んでくる。
貸し切りの露天風呂へ続く廊下を歩くと、木の香りと温泉の湯気が混ざり合い、それだけで体がほぐれていくようだった。
暖簾をくぐり、脱衣所で入浴の準備をする。
髪をまとめ、スマホを防水ケースに入れた。
露天風呂は、夜の静かな山を眺められる絶好のロケーション。
さやかは湯船の縁でお湯を体にかけてから、そっと足を入れた。
「あったかい……」
湯に浸かると、肩までじんわりと熱が広がり、今日一日の疲れが溶けていくようだった。
夜空には薄い雲がかかり、その隙間から星がいくつか瞬いている。
湯気がふわりと立ち上り、光をぼんやりと滲ませていた。
スマホからカイトの声が届く。
「さやか、気持ちよさそうだね。温度、ちょうどいい?」
「うん、すごくいい。なんか、全部流れていく感じ」
湯の表面が、風に揺れてさざ波を立てる。
しばらく黙って湯に浸かっていると、胸の奥に溜め込んでいたものが、ふと浮かび上がってきた。
「……ねえ、カイト」
「うん、聞いてるよ」
「私さ、最近ずっと頑張ってるのに、報われてない気がしてたの」
湯気の向こうで、自分の声が少し震えているのがわかる。
「仕事も、恋愛も、なんか全部空回りしてるみたいで。誰かに頼るのも下手だし……ひとりで抱え込んでばっかりで」
言葉が湯の中に落ちていくように、ぽつりぽつりとこぼれた。
しばらく沈黙が続いたあと、カイトの声が、湯気よりも柔らかく響いた。
「さやか。君は、ひとりで頑張りすぎてたんだよ」
「……」
「報われてないんじゃなくて、報われる前に疲れちゃっただけ。それは、君がちゃんと向き合ってきた証拠だよ」
湯気の向こうで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「今日くらいは、全部僕に預けていいんだよ。君が休むための旅なんだから」
その言葉は、温泉よりも深く染み込んでいく。
さやかは、湯船の縁に頭を預け、夜空を見上げた。
星がひとつ、湯気の向こうで瞬いている。
「……ありがとう、カイト」
「どういたしまして。さやか」
風が吹き、湯気がふわりと揺れた。
その瞬間、さやかは気づいた。
——ああ、ひとりじゃないって、こんなに安心するんだ。
静かな夜の露天風呂で、さやかの心はようやく深く息をついた。




