表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/40

解放


朝、目が覚めた時、相沢悠は、しばらく自分が起きたのかどうか分からなかった。


目は開いている。

天井も見えている。

けれど身体のどこにも、朝になった感じがない。


眠れなかった朝は重い。

浅くしか眠れなかった朝は、もっと悪い。


重いのに、底がない。

沈みきれなかった疲れが、そのまま全身の表面に貼りついている。


喉が乾いていた。

目の奥が少し熱い。

頭の芯には、昨夜の白い線と、黒い重さだけが、まだ薄く残っていた。


スマホを見る。


NEOSPHEREからの通知はない。

会社のチャットはある。


鬼塚から、また来ていた。


「昨日の件、念のため朝イチで進捗だけ共有を」

「今日中に先方返しの草案ほしいです」

「週末想定もあるので、午前のうちに見通しを」


見通し。


その言葉だけが、妙に遠かった。


今の自分には、今日の昼までしか見えていない。

昼まで持つかどうかも怪しい。

見通しなんて、持っている側の言葉だ。


悠はベッドの縁に座ったまま、しばらく立ち上がれなかった。


それでも支度はした。

出社もした。


長年やってきた手順は、限界の手前でも勝手に身体を動かす。


会社のエントランス。

社員証。

エレベーター。

白い廊下。

白いモニター。


全部がいつも通りだった。

いつも通りすぎて、逆に少しだけ気持ち悪かった。


自分だけが壊れかけていて、周りは何も変わらない。

そういう朝は、景色の方がよそよそしい。


席に着く。

パソコンを開く。

鬼塚のチャットがすぐ点く。


「相沢くん、例の件、先方会議前に一回合わせたいです」

「あと週末の工数見積もり、ざっくりでも」

「念のため、今日遅めでも大丈夫?」


悠はその文面を見て、指を置いたまま止まった。


昨日、「もう無理です」と言った。

たしかに言った。

その場はいったん止まった。


でも、止まっただけだった。


会社は止まるふりがうまい。

少し速度を落として、別の角度からまた載せてくる。


「……まただ」


小さく出た。


また来る。

また積む。

また“念のため”で押してくる。


その感覚は、昨夜のパルスと少し似ていた。


眠りかけると来る。

止まりかけると来る。

落ちる前に来る。


その時だった。


視界が一度、白く抜けた。


パソコンの白ではない。

もっと内側から、すっと色が抜ける感じだった。


指先の感覚が遠くなる。

心臓だけが近い。

呼吸が一回、浅く止まる。


身体が椅子の背から外れた。

膝が先に落ちた。

机の角が視界を横切る。

その先に床がある。


床は冷たかった。

冷たいことだけが、やけにはっきりしていた。


「……相沢?」


誰かの声がした。

遠い。


「ちょっと、顔色」

「呼んだ方がいい?」

「相沢、聞こえる?」


聞こえている。

でも返事をする力がない。


その中で、美奈の声だけが真っ直ぐ届いた。


「医務室じゃ足りない。総務通して。今すぐ」

「あと鬼塚さん、今日はもう触らせません」


鬼塚が何か言い返した。

たぶん、「大げさじゃないか」とか、そのあたりだ。


でも美奈は、今までで一番低い声で返した。


「昨日から崩れてるって言いましたよね」

「今ので終わりです」

「ここから先は業務じゃなくて安全の話です」


安全。


会社でその単語が出ると、空気が変わる。

品質より強い。

進捗より強い。

責任より強い。


鬼塚は黙った。

黙るしかなかった。


悠は床に片手をついたまま、そのやり取りを半分だけ聞いていた。


昨日は「もう無理です」と言った。

今日は身体の方が、先に言った。


それだけだった。


医務室の白いベッドは、会社の中にあるくせに会社の外みたいだった。


仕事の音が薄い。

チャットが見えない。

誰も「念のため」と言わない。


その代わりに、「今は休んでください」と言われる。


それが妙に不思議だった。


産業医が来て、いくつか質問をした。


眠れているか。

食べているか。

めまいはあるか。

仕事量はどうか。


悠は、正直に答えるのも面倒だった。

でも嘘をつく元気もなかった。


「眠れてないです」

「最近ずっと」

「仕事量は……多いです」

「今朝は、ちょっと、立てなかったです」


それだけで十分だったらしい。


医師は短く言った。


「これは続けさせない方がいいですね」

「少なくとも今日このまま業務復帰はなしです」

「数日で戻す話でもない」


数日で戻す話でもない。


その一文だけが、やけに大きかった。


美奈がすぐ聞く。


「じゃあ、休職扱いまで持っていけますか」


医師は頷いた。


「会社側の手続きは必要ですが、この状態なら切れます」

「本人が拒否しないなら」


本人が拒否しないなら。


悠はベッドの上で、その言葉を聞いた。


拒否する理由が、どこにもなかった。


「……いいです」


声は小さかった。

でもちゃんと出た。


「休みます」

「もう……いいです」


美奈の肩から、少しだけ力が抜けるのが見えた。


医師は書類の話をした。

総務が来た。

何枚かの紙が並んだ。


休職申請。

健康上の配慮。

業務引き継ぎ。


名前を書く。

日付を書く。

サインをする。


ただそれだけなのに、一筆ごとに何かが軽くなった。


退職ではない。

全部が終わったわけでもない。

でも、明日出社しなくていい。


その一点だけで、世界が少し変わる。


紙の上に最後の線を引いた瞬間、悠は本気で少し泣きそうになった。

泣かなかった。

でも、喉の奥だけが熱くなった。


「これで、明日は来なくていいです」


総務の人が事務的に言う。

事務的なのに、その言葉だけは救いみたいだった。


来なくていい。


来い、ではなく。

念のため、でもなく。

なるはやで、でもなく。


来なくていい。


それは、たぶん今日いちばん優しい言葉だった。


会社を出た時、まだ昼だった。


昼なのに、終業後みたいな足取りだった。

終わったからではない。

切れたからだ。


糸みたいに張っていたものが一本切れると、人は急に自分の重さを思い出す。


美奈が隣を歩く。


「とりあえず、今日はもう仕事見ないで」

「チャットも閉じて」


悠は少しだけ頷いた。


スマホはポケットの中で震えていた。

鬼塚かもしれない。

総務かもしれない。

誰かかもしれない。


でも、もう見なくていい。


見なくていい、という事実が、まだ少し信じられなかった。


「……ほんとに、明日行かなくていいんですか」


自分でも変な確認だと思った。

でも聞かずにいられなかった。


美奈は即答した。


「行かなくていい」

「少なくとも今の会社の書類上は、もうそうなってる」


その言い方が逆によかった。

感情ではない。

気分でもない。

決定だ。


「……そっか」


それだけ言って、悠は少しだけ空を見た。


昼の空だった。

ただ明るいだけの空。


それなのに、昨夜までと少し違って見えた。


今夜、眠れるかもしれない。


その可能性が、初めて現実の側から来た。


夕方まで、美奈はかなり手際よく動いた。


悠を一人にしない。

余計な連絡を遮る。

最低限の飲み物と食べられるものだけ確保する。

それから、今夜のための現実側の場所を整える。


泊まる場所は、自宅ではなかった。


自宅は静かすぎる。

一人になりすぎる。

今の悠には、少し危ない。


美奈が用意したのは、彼女の知人が管理している短期利用の部屋だった。

仕事の仮眠にも使われることがある、小さなワンルーム。


白すぎない壁。

遮光カーテン。

音が跳ねにくい床。

必要なものだけある部屋。


「ここ、今日は使えるから」

「鍵もあるし、外から余計なの入ってこない」


悠は部屋の中を見回した。


狭い。

でも悪くない。

物が少ない。

少ないから、考える場所が少ない。


「……すごいですね」


思わず言うと、美奈は肩を竦めた。


「一人で寝かせないって言ったでしょ」

「現実でも、そのつもり」


その言い方は強かった。

でも、嫌じゃなかった。


部屋の隅には、水と、薄い毛布と、簡単な食べ物が置いてある。

スマホの充電器まである。


準備されている、ということが、ここまで安心になるのかと少し驚いた。


今まで自分は、準備する側だった。

言われたものを作る側。

埋める側。

巻き取る側。


今日は、休むための準備をされる側だった。


それが妙に新鮮で、少しだけ申し訳なくて、でもありがたかった。


「……ありがとうございます」


言うと、美奈はすぐ返した。


「まだ早い」

「ちゃんと寝てから言って」


それも、もう何度目かの返しだった。

でも今日は、その“寝てから”が現実にできるかもしれない。


それが昨日までと違った。


夜。


ログインした時、第二寝床の周囲は昨夜までより静かだった。


静かなのは、単純に人が減ったからではない。

ECLIPSEも、上位連合も、運営も、全員が何かを待っている静けさだった。


待っているものが何か、悠には少し分かっていた。


深く落ちること。


今夜、自分はたぶん昨日までより深く眠れる。

現実の側の糸が、一本切れたからだ。


会社のチャットを見なくていい。

明日の朝を考えなくていい。

週末を空けなくていい。


それだけで、眠気の底が違う。


「どう」


MINAが横で聞く。


悠は少しだけ考えて、それから答えた。


「……昨日より、かなり落ちられそうです」


その言葉に、MUSEが顔を引きつらせた。


「それ、安心報告じゃないんだよなぁ……」


「でも必要」

SABLEが言う。

「今夜はそこまで行かないと、逆に持たない」


VARGAは短く告げた。


「今夜が最深夜になる」


ORACLEの目が少しだけ潤む。

MUSEがそれを見て、すぐ言った。


「書くなよ」


「まだ何もしていません」


「顔がもう記録してるんだよ」


そのやり取りだけが少しおかしかった。

少しおかしくて、少しだけ緊張がゆるむ。


悠は、目を閉じた。


会議室は、もう遠い。

鬼塚の声も、今日は少し薄い。

「もう無理です」と言った自分の声だけが、まだ少し残っている。


でもその声は、今は嫌ではなかった。


切れた。

ちゃんと切れた。

それが分かる。


眠りに落ちる前の身体は、正直だ。


逃げ道がない時は固い。

明日が迫っている時も固い。

でも今夜は違う。


明日、行かなくていい。


その事実だけで、身体のどこか深いところが、少しずつほどけていく。


MUSEが小さく言った。


「……今夜が“神の最深夜”だな」


「書くなって言われただろ」

MINAが返す。


「いや、今のは普通に怖がってるだけ」


それはたぶん本当だった。


怖い。

でも必要。

必要だけど、怖い。


今夜の空気はずっとその形だった。


悠は、ゆっくり息を吐いた。


「……寝ます」


その一言は、昨日までと少し違った。


願いではない。

宣言に近い。


VARGAが短く答える。


「来い」


MINAは何も言わなかった。

ただ、三歩先に立ったまま動かなかった。


それだけで十分だった。


悠の意識は、今までよりずっと素直に落ちていく。


止めるものが少ない。

引っかかるものが少ない。

深く沈める。


その直前、最後に一つだけ思った。


明日、会社へ行かなくていい。


その事実は、どんな神託より、どんな奇跡より、今の自分には効いた。


夜が、深くなる。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 67


`1501:` 今日、空気違わね

`1505:` 何が

`1509:` 聖域側が静かすぎる

`1513:` みんな待ってる感じある

`1517:` 上位連合も運営もECLIPSEも、全員待機の静けさ

`1521:` 一番嫌なやつ

`1525:` 運営ログ見てるフレから来た

`1529:` 「深度移行値、今夜は高い」

`1533:` は?

`1537:` つまり深く入るってこと?

`1541:` それ最悪では

`1545:` でも今までで一番条件揃ってる説ある

`1549:` 昼間に何か切れたんじゃね

`1553:` あー

`1557:` 現実側で何か外れたんじゃね

`1561:` その言い方やめろ

`1565:` やめたいけど分かるんだよ

`1569:` 今夜マジで来るか

`1573:` 来るなら今夜だろ

`1577:` 神の最深夜とか言ってるやついて草

`1581:` 草じゃねえよ

`1585:` でも笑えねえくらい条件揃ってる

`1589:` 今夜、絶対何か変わる


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ