解放
朝、目が覚めた時、相沢悠は、しばらく自分が起きたのかどうか分からなかった。
目は開いている。
天井も見えている。
けれど身体のどこにも、朝になった感じがない。
眠れなかった朝は重い。
浅くしか眠れなかった朝は、もっと悪い。
重いのに、底がない。
沈みきれなかった疲れが、そのまま全身の表面に貼りついている。
喉が乾いていた。
目の奥が少し熱い。
頭の芯には、昨夜の白い線と、黒い重さだけが、まだ薄く残っていた。
スマホを見る。
NEOSPHEREからの通知はない。
会社のチャットはある。
鬼塚から、また来ていた。
「昨日の件、念のため朝イチで進捗だけ共有を」
「今日中に先方返しの草案ほしいです」
「週末想定もあるので、午前のうちに見通しを」
見通し。
その言葉だけが、妙に遠かった。
今の自分には、今日の昼までしか見えていない。
昼まで持つかどうかも怪しい。
見通しなんて、持っている側の言葉だ。
悠はベッドの縁に座ったまま、しばらく立ち上がれなかった。
それでも支度はした。
出社もした。
長年やってきた手順は、限界の手前でも勝手に身体を動かす。
会社のエントランス。
社員証。
エレベーター。
白い廊下。
白いモニター。
全部がいつも通りだった。
いつも通りすぎて、逆に少しだけ気持ち悪かった。
自分だけが壊れかけていて、周りは何も変わらない。
そういう朝は、景色の方がよそよそしい。
席に着く。
パソコンを開く。
鬼塚のチャットがすぐ点く。
「相沢くん、例の件、先方会議前に一回合わせたいです」
「あと週末の工数見積もり、ざっくりでも」
「念のため、今日遅めでも大丈夫?」
悠はその文面を見て、指を置いたまま止まった。
昨日、「もう無理です」と言った。
たしかに言った。
その場はいったん止まった。
でも、止まっただけだった。
会社は止まるふりがうまい。
少し速度を落として、別の角度からまた載せてくる。
「……まただ」
小さく出た。
また来る。
また積む。
また“念のため”で押してくる。
その感覚は、昨夜のパルスと少し似ていた。
眠りかけると来る。
止まりかけると来る。
落ちる前に来る。
その時だった。
視界が一度、白く抜けた。
パソコンの白ではない。
もっと内側から、すっと色が抜ける感じだった。
指先の感覚が遠くなる。
心臓だけが近い。
呼吸が一回、浅く止まる。
身体が椅子の背から外れた。
膝が先に落ちた。
机の角が視界を横切る。
その先に床がある。
床は冷たかった。
冷たいことだけが、やけにはっきりしていた。
「……相沢?」
誰かの声がした。
遠い。
「ちょっと、顔色」
「呼んだ方がいい?」
「相沢、聞こえる?」
聞こえている。
でも返事をする力がない。
その中で、美奈の声だけが真っ直ぐ届いた。
「医務室じゃ足りない。総務通して。今すぐ」
「あと鬼塚さん、今日はもう触らせません」
鬼塚が何か言い返した。
たぶん、「大げさじゃないか」とか、そのあたりだ。
でも美奈は、今までで一番低い声で返した。
「昨日から崩れてるって言いましたよね」
「今ので終わりです」
「ここから先は業務じゃなくて安全の話です」
安全。
会社でその単語が出ると、空気が変わる。
品質より強い。
進捗より強い。
責任より強い。
鬼塚は黙った。
黙るしかなかった。
悠は床に片手をついたまま、そのやり取りを半分だけ聞いていた。
昨日は「もう無理です」と言った。
今日は身体の方が、先に言った。
それだけだった。
医務室の白いベッドは、会社の中にあるくせに会社の外みたいだった。
仕事の音が薄い。
チャットが見えない。
誰も「念のため」と言わない。
その代わりに、「今は休んでください」と言われる。
それが妙に不思議だった。
産業医が来て、いくつか質問をした。
眠れているか。
食べているか。
めまいはあるか。
仕事量はどうか。
悠は、正直に答えるのも面倒だった。
でも嘘をつく元気もなかった。
「眠れてないです」
「最近ずっと」
「仕事量は……多いです」
「今朝は、ちょっと、立てなかったです」
それだけで十分だったらしい。
医師は短く言った。
「これは続けさせない方がいいですね」
「少なくとも今日このまま業務復帰はなしです」
「数日で戻す話でもない」
数日で戻す話でもない。
その一文だけが、やけに大きかった。
美奈がすぐ聞く。
「じゃあ、休職扱いまで持っていけますか」
医師は頷いた。
「会社側の手続きは必要ですが、この状態なら切れます」
「本人が拒否しないなら」
本人が拒否しないなら。
悠はベッドの上で、その言葉を聞いた。
拒否する理由が、どこにもなかった。
「……いいです」
声は小さかった。
でもちゃんと出た。
「休みます」
「もう……いいです」
美奈の肩から、少しだけ力が抜けるのが見えた。
医師は書類の話をした。
総務が来た。
何枚かの紙が並んだ。
休職申請。
健康上の配慮。
業務引き継ぎ。
名前を書く。
日付を書く。
サインをする。
ただそれだけなのに、一筆ごとに何かが軽くなった。
退職ではない。
全部が終わったわけでもない。
でも、明日出社しなくていい。
その一点だけで、世界が少し変わる。
紙の上に最後の線を引いた瞬間、悠は本気で少し泣きそうになった。
泣かなかった。
でも、喉の奥だけが熱くなった。
「これで、明日は来なくていいです」
総務の人が事務的に言う。
事務的なのに、その言葉だけは救いみたいだった。
来なくていい。
来い、ではなく。
念のため、でもなく。
なるはやで、でもなく。
来なくていい。
それは、たぶん今日いちばん優しい言葉だった。
会社を出た時、まだ昼だった。
昼なのに、終業後みたいな足取りだった。
終わったからではない。
切れたからだ。
糸みたいに張っていたものが一本切れると、人は急に自分の重さを思い出す。
美奈が隣を歩く。
「とりあえず、今日はもう仕事見ないで」
「チャットも閉じて」
悠は少しだけ頷いた。
スマホはポケットの中で震えていた。
鬼塚かもしれない。
総務かもしれない。
誰かかもしれない。
でも、もう見なくていい。
見なくていい、という事実が、まだ少し信じられなかった。
「……ほんとに、明日行かなくていいんですか」
自分でも変な確認だと思った。
でも聞かずにいられなかった。
美奈は即答した。
「行かなくていい」
「少なくとも今の会社の書類上は、もうそうなってる」
その言い方が逆によかった。
感情ではない。
気分でもない。
決定だ。
「……そっか」
それだけ言って、悠は少しだけ空を見た。
昼の空だった。
ただ明るいだけの空。
それなのに、昨夜までと少し違って見えた。
今夜、眠れるかもしれない。
その可能性が、初めて現実の側から来た。
夕方まで、美奈はかなり手際よく動いた。
悠を一人にしない。
余計な連絡を遮る。
最低限の飲み物と食べられるものだけ確保する。
それから、今夜のための現実側の場所を整える。
泊まる場所は、自宅ではなかった。
自宅は静かすぎる。
一人になりすぎる。
今の悠には、少し危ない。
美奈が用意したのは、彼女の知人が管理している短期利用の部屋だった。
仕事の仮眠にも使われることがある、小さなワンルーム。
白すぎない壁。
遮光カーテン。
音が跳ねにくい床。
必要なものだけある部屋。
「ここ、今日は使えるから」
「鍵もあるし、外から余計なの入ってこない」
悠は部屋の中を見回した。
狭い。
でも悪くない。
物が少ない。
少ないから、考える場所が少ない。
「……すごいですね」
思わず言うと、美奈は肩を竦めた。
「一人で寝かせないって言ったでしょ」
「現実でも、そのつもり」
その言い方は強かった。
でも、嫌じゃなかった。
部屋の隅には、水と、薄い毛布と、簡単な食べ物が置いてある。
スマホの充電器まである。
準備されている、ということが、ここまで安心になるのかと少し驚いた。
今まで自分は、準備する側だった。
言われたものを作る側。
埋める側。
巻き取る側。
今日は、休むための準備をされる側だった。
それが妙に新鮮で、少しだけ申し訳なくて、でもありがたかった。
「……ありがとうございます」
言うと、美奈はすぐ返した。
「まだ早い」
「ちゃんと寝てから言って」
それも、もう何度目かの返しだった。
でも今日は、その“寝てから”が現実にできるかもしれない。
それが昨日までと違った。
夜。
ログインした時、第二寝床の周囲は昨夜までより静かだった。
静かなのは、単純に人が減ったからではない。
ECLIPSEも、上位連合も、運営も、全員が何かを待っている静けさだった。
待っているものが何か、悠には少し分かっていた。
深く落ちること。
今夜、自分はたぶん昨日までより深く眠れる。
現実の側の糸が、一本切れたからだ。
会社のチャットを見なくていい。
明日の朝を考えなくていい。
週末を空けなくていい。
それだけで、眠気の底が違う。
「どう」
MINAが横で聞く。
悠は少しだけ考えて、それから答えた。
「……昨日より、かなり落ちられそうです」
その言葉に、MUSEが顔を引きつらせた。
「それ、安心報告じゃないんだよなぁ……」
「でも必要」
SABLEが言う。
「今夜はそこまで行かないと、逆に持たない」
VARGAは短く告げた。
「今夜が最深夜になる」
ORACLEの目が少しだけ潤む。
MUSEがそれを見て、すぐ言った。
「書くなよ」
「まだ何もしていません」
「顔がもう記録してるんだよ」
そのやり取りだけが少しおかしかった。
少しおかしくて、少しだけ緊張がゆるむ。
悠は、目を閉じた。
会議室は、もう遠い。
鬼塚の声も、今日は少し薄い。
「もう無理です」と言った自分の声だけが、まだ少し残っている。
でもその声は、今は嫌ではなかった。
切れた。
ちゃんと切れた。
それが分かる。
眠りに落ちる前の身体は、正直だ。
逃げ道がない時は固い。
明日が迫っている時も固い。
でも今夜は違う。
明日、行かなくていい。
その事実だけで、身体のどこか深いところが、少しずつほどけていく。
MUSEが小さく言った。
「……今夜が“神の最深夜”だな」
「書くなって言われただろ」
MINAが返す。
「いや、今のは普通に怖がってるだけ」
それはたぶん本当だった。
怖い。
でも必要。
必要だけど、怖い。
今夜の空気はずっとその形だった。
悠は、ゆっくり息を吐いた。
「……寝ます」
その一言は、昨日までと少し違った。
願いではない。
宣言に近い。
VARGAが短く答える。
「来い」
MINAは何も言わなかった。
ただ、三歩先に立ったまま動かなかった。
それだけで十分だった。
悠の意識は、今までよりずっと素直に落ちていく。
止めるものが少ない。
引っかかるものが少ない。
深く沈める。
その直前、最後に一つだけ思った。
明日、会社へ行かなくていい。
その事実は、どんな神託より、どんな奇跡より、今の自分には効いた。
夜が、深くなる。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 67
`1501:` 今日、空気違わね
`1505:` 何が
`1509:` 聖域側が静かすぎる
`1513:` みんな待ってる感じある
`1517:` 上位連合も運営もECLIPSEも、全員待機の静けさ
`1521:` 一番嫌なやつ
`1525:` 運営ログ見てるフレから来た
`1529:` 「深度移行値、今夜は高い」
`1533:` は?
`1537:` つまり深く入るってこと?
`1541:` それ最悪では
`1545:` でも今までで一番条件揃ってる説ある
`1549:` 昼間に何か切れたんじゃね
`1553:` あー
`1557:` 現実側で何か外れたんじゃね
`1561:` その言い方やめろ
`1565:` やめたいけど分かるんだよ
`1569:` 今夜マジで来るか
`1573:` 来るなら今夜だろ
`1577:` 神の最深夜とか言ってるやついて草
`1581:` 草じゃねえよ
`1585:` でも笑えねえくらい条件揃ってる
`1589:` 今夜、絶対何か変わる




