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もう無理


朝、目が覚めた時、相沢悠は一度だけ、今日が何曜日か分からなかった。


眠れていない朝は、曜日から薄くなる。


ベッドの白。

天井の白。

カーテンの隙間から入る、朝の白。


全部が同じ色に見えた。


身体は重い。

でも、深く眠った後の重さではない。

沈めなかったものが、そのまま上に積もっている感じだった。


喉が乾いている。

目の奥が少し痛い。

頭の芯には、昨夜のパルスの白い線だけが、まだ細く残っていた。


スマホを見る。


NEOSPHEREからの通知はない。

会社のチャットはある。


鬼塚から五件。


「念のため、先方用の比較表、表現を少しやわらかく」

「あと会議体向けの別紙も」

「昨日の件、認識揃えたいので朝会で触れる」

「今日中で」

「なるはやで」


なるはや。


その四文字を見て、悠は少しだけ笑いそうになった。


今の自分に一番ないものを、一番軽い言葉で要求してくる。

それが会社だった。


出社して十分もしないうちに、会議室へ呼ばれた。


長机。

モニター。

揃えられた資料。

冷えすぎた空調。


そこにあるもの全部が、「感情ではなく進行で話します」という顔をしていた。


鬼塚が先に口を開く。


「まず昨日の先方向け資料なんだけど」

「先方側でちょっと受け取り方にズレがあって」


ちょっと、ではなかった。


モニターに映ったのは、赤字の入ったメールだった。

認識相違。

説明不足。

再提出希望。

緊急打ち合わせ依頼。


鬼塚は続ける。


「もちろん最終的な責任はチームで持つんだけど」

「実務上、最後に触ってたのって相沢くんだよね?」


悠は一瞬だけ黙った。


最終版を作ったのは鬼塚だ。

でも、その前段の比較表を触っていたのは自分だった。


そういう“嘘ではない押しつけ方”が、この人はうまい。


「……確認作業は、しました」


そう言うしかなかった。


鬼塚はすぐ頷く。


「うん、だからそこ起点で巻き取ってもらえると助かる」

「説明文も作って、再提出版も作って、先方会議も入ってもらって」

「あと念のため、週末も空けておいて」


週末。


その一言だけが、他の全部より重かった。


悠は少しだけ顔を上げた。


鬼塚は続ける。


「今の段階だと、今日中に収まるとは限らないから」

「土日で整える想定が一番安全」

「相沢くん、フットワーク軽いでしょ?」


その瞬間、悠の指先が勝手に握られた。


軽い。

何が。

どこが。


立っているだけで精一杯なのに。


別の社員が気まずそうに視線を落とす。

誰も止めない。

止めないまま、話だけが前へ進む。


鬼塚はさらに言った。


「こういう時、若い人が一番動けるからね」

「美奈さんは別件あるし」


美奈の顔が、そこで初めて動いた。


「それ、違います」


低い声だった。


「今の顔見て、その振り方はないです」


鬼塚が少しだけ笑う。

困った人をなだめる顔だった。


「いや、感情の話じゃなくて」

「実務として、いま一番手が早いのが相沢くんだから」


感情の話じゃない。


便利な言葉だった。

そう言えば、相手のしんどさをまとめて横へ避けられる。


悠はそのやり取りを聞きながら、急に音が遠くなるのを感じていた。


会議室の空調音。

キーボードを打つ音。

誰かが資料をめくる音。


全部が遠い。


代わりに、自分の心臓の音だけが近かった。


週末も空けておいて。

起点で巻き取ってもらえると助かる。

フットワーク軽いでしょ。

若い人が一番動けるから。


全部、意味は分かる。

分かるのに、身体が処理しない。


鬼塚がこちらを見る。


「相沢くん、いける?」


悠はそこで初めて気づいた。


自分は今、返事をしようとしていない。


いつもなら出る。

「了解しました」が。

条件反射みたいに。


でも今は、出ない。


出ないかわりに、別の言葉が出た。


「……もう無理です」


会議室が止まった。


誰も、すぐには動かなかった。


自分でも驚いた。

怒鳴ったわけではない。

叩きつけたわけでもない。


ただ、本当に無理な人間の声だった。


鬼塚が先に反応した。


「いや、そういうメンタルの話じゃなくて」


「そういう話です」


返したのは、美奈だった。


声が低い。

低いまま、まっすぐだった。


「今の顔で週末まで持たせるのは無理です」

「壊れますよ」


壊れますよ。


その単語だけが、妙に現実的だった。


鬼塚は少しだけ眉を寄せる。


「じゃあ誰がやるの」


その言葉に、美奈は一拍だけ黙った。


でも次の瞬間には、言い切っていた。


「少なくとも、今日ここで“相沢が抱える前提”だけは切ってください」

「割り振りを見直すべきです」


鬼塚は納得していない顔だった。

でも完全に押し切るほどの勢いもなかった。


“無理”が一度声に出ると、その場に残る。


なかったことにはしにくい。


結局、その場は「再調整」でいったん散会になった。

解決ではない。

ただ、いったん止まった。


それだけでも、今の悠には十分大きかった。


昼休み、美奈は自販機の前で紙コップのコーヒーを持ったまま、悠を見た。


「さっきの、ちゃんと言えてよかった」


悠は少しだけ首を振った。


「よかった、というか……」

「勝手に出ました」


「それでいい」

美奈は言った。

「出ないと、そのまま載るから」


悠は紙コップを見た。

温かいはずなのに、手の方が冷たい。


「……すみません」


「また謝る」

美奈は少しだけ呆れた顔をした。

「無理な時に無理って言っただけでしょ」


それは、昨夜と少し似ていた。


寝る前に本音が出る。

今日は会議室で出た。

場所が違うだけで、やっていることは同じだった。


蓋が、少しずつ弱くなっている。


それは危ないのかもしれない。

でも、少しだけ正しい気もした。


美奈は小さく息を吐いた。


「今日、帰ったらすぐ寝る準備して」

「ゲームでも現実でもいいから、とにかく休んで」


悠は少しだけ黙った。

それから言う。


「ゲームの方が、まだ寝れる気がします」


「分かってる」

美奈はすぐ答えた。

「だから今日は、絶対に一人でやらない」


その一言で、また少しだけ呼吸が通る。


一人でやらない。

一人で抱えない。


それは最近、自分の生活にはあまりなかった条件だった。


夜。


ログインした時、第二寝床の周囲は昨夜より静かだった。

静か、というより、静かにしすぎている空気だった。


ECLIPSEはもう大声を出さない。

上位連合も昨日の第一波のあとで、無駄な音を減らした。

運営の通知だけが、相変わらず感じ悪い。


その全部の上に、今日の現実の疲れがそのまま乗っていた。


悠は第二寝床の抜け道側へ座り込む。


身体が重い。

眠い。

でも、眠気の奥が少し熱い。


今日は会社で「もう無理です」と言った。

あの後から、頭の奥でずっと何かが固い。


折れた、ではない。

むしろ逆だった。

追い詰められて、少しだけ尖った感じ。


MINAが横で聞く。


「どう」


悠は少し考えてから答えた。


「眠いです」

「でも、昨日よりちょっと……苛立ってます」


MUSEが小声で言う。


「嫌な報告だなあ……」


SABLEが林の外を見たまま返す。


「でも必要」

「浅い時の質が変わる」


VARGAが短く言う。


「落とせ」

「深くなくてもいい。今夜は質を見る」


「言い方が検査なんだよ」

MUSEが言ったが、小さかった。


悠は目を閉じた。


会議室がまだ残っている。

鬼塚の声も残っている。

週末を空けろ、も残っている。


眠りに落ちる前は、普通なら輪郭が崩れる。

でも今夜は逆だった。

嫌だった言葉だけ、やけにはっきりしている。


「……うるさい」


小さく出た。


「……全部、人の都合で決めるな……」


MINAの目が上がる。

ORACLEの指先が震える。

MUSEがまた口を押さえる。


悠は続ける。


「……寝る時くらい、放っといて……」

「……勝手に決めんな……」


昨夜の愚痴より、少しだけ棘がある。

深くはない。

でも熱がある。


その直後、窪地の奥の空気が少しだけ重くなった。


黒い。

昨夜より濃い。

完全ではない。

でも、“怒っている”感じだけがはっきりある。


SABLEが低く言う。


「来てる」


VARGAの目が細くなる。


「浅いまま、出力が上がってる」


その言葉通りだった。


悠は深く眠れていない。

でも、黒い重さは昨夜より強い。

地面の圧が増す。

石垣の影が濃くなる。

細い抜け道の端で、小石が勝手に転がる。


「……っ」


悠の身体が少しだけ沈み、少しだけ跳ねる。


パルスが来る。

でも今日の黒さは、引っかかりながらも消えない。


浅い。

でも、機嫌が悪い。


そんな感じだった。


MUSEが本気で嫌そうな顔をする。


「弱いんじゃないんだ」

「これ、怒ってるやつじゃん……」


MINAは何も言わなかった。


今日の現実の圧。

眠れない苛立ち。

それがそのまま、夜の質へ混ざっている。


深く眠れない。

だから弱い。

そのはずなのに、感情の熱だけが別の方向で上がっている。


それは、あまりよくない前兆だった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 66


`1401:` 今夜のノクス、なんか違わね

`1405:` どっちの意味で

`1409:` 浅いのに空気重い

`1413:` あーそれ

`1417:` 出力は低いはずなのに機嫌だけ悪い感じ

`1421:` 機嫌だけ悪いで済むか?

`1425:` 細道の石勝手に転がったぞ

`1429:` まだ地形いじるほど深くないだろ

`1433:` でも現にいじってる

`1437:` 弱いんじゃなくて怒ってる?

`1441:` それ一番嫌なやつ

`1445:` 運営ログ見てるフレから来た

`1449:` 「深度は浅いが周辺圧上昇」

`1453:` 何それ

`1457:` 知るかよ、でも嫌な報告だろ

`1461:` 昼間に何かあったんじゃね

`1465:` 神にもストレスあるんか

`1469:` 神じゃなくて社畜だろもう

`1473:` その説が一番怖いんだって

`1477:` 浅いまま怒ってるなら、深く入ったらどうなるんだよ

`1481:` やめろ

`1485:` 今夜、まだ絶対荒れる


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