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夜が落ちる


夜は、落ちる前がいちばん静かだった。


静か、というより、誰も余計なことを言わない静けさだった。


相沢悠は、現実の部屋で横になっていた。


白すぎない壁。

遮光カーテン。

音の跳ねない床。

必要なものだけある、小さな部屋。


美奈が手配した、駅の近くの短期利用の部屋だった。


枕元のスマホは伏せてある。

会社のチャットは閉じた。

鬼塚の文面も見ていない。

明日の予定も、週末の見通しも、もう考えなくていい。


それだけで、胸の奥の固いものが少しずつほどけていく。


「……ほんとに、見なくていいんだよな」


小さく言うと、部屋の入口の近くで美奈が頷いた。


椅子に浅く座って、こちらを見すぎないようにしながら、それでもちゃんと起きている。

見られていると緊張する。

でも、一人だと不安になる。


そのちょうど間の距離に、美奈はいた。


「見なくていい」

「今日はもう、何も返さなくていい」


返事をしなくていい。

説明しなくていい。

了解しなくていい。


会社では、その全部が義務だった。

今夜だけ、それがない。


悠は一度だけ、目を閉じた。


閉じても、すぐには眠りに落ちなかった。

でも今までの夜とは違う。


パルスを待つ緊張がないわけじゃない。

封印ギミックが消えたわけでもない。

上位連合が諦めたわけでもない。


それでも、今夜は違った。


下がある。


ここ数日の眠りは、途中で切れていた。

浅い場所で引っかかっていた。

今夜は、その先がちゃんと続いている感じがした。


「……ゲーム、入ります」


言うと、美奈が短く返した。


「うん」

「私は三歩先にいるから」


三歩先。


それはもう、現実でもゲームでも同じ距離だった。


悠は、ゆっくりと睡眠モードへ入る。


視界が暗くなる。

呼吸が少し深くなる。

身体の輪郭が、現実から少しずつ遠くなる。


今までと違うのは、落ちることに対して、初めて少しだけ許可が出ていることだった。


落ちていい。


明日がないから。

少なくとも、明日の会社はないから。


それは神託でも奇跡でもなかった。

ただの休職だった。


でも今の自分には、その事務的な決定が何より効いた。


ログインした時、第二寝床の周囲は、さらに静かになっていた。


ECLIPSEはもう余計なことを言わない。

MUSEですら声が小さい。

ORACLEは手帳を持っているのに、開いていない。

VARGAは地図を見ている。

SABLEは林の外を見ている。

RAMPARTは盾を伏せている。


全員が、この数分のために存在しているみたいだった。


悠は抜け道の先へ腰を下ろした。


地面の冷たさがある。

土の匂いがある。

上に空がある。


昨夜までと同じはずなのに、感じ方だけが違った。


「どう」


MINAが聞く。


悠は少しだけ考えた。


「……落ちやすいです」


それだけだった。

でも、それで十分だった。


MUSEが顔をしかめる。


「それ、毎回言うけど安心できないんだよな……」


「安心は要らない」

SABLEが言う。

「必要なのは深度」


今日は、MUSEもそれ以上は返さなかった。


VARGAが短く告げる。


「今夜は止めるな」

「来るところまで行かせる」


悠は横になった。


明日、会社へ行かなくていい。


その事実を、もう一度だけ頭の中で確かめる。


行かなくていい。

返さなくていい。

見なくていい。

起きた瞬間から何かを失敗している気分にならなくていい。


「……すごいな」


ぽつりと漏れた。


MINAが聞く。


「何が」


「明日、会社ないだけで」

「こんなに、眠れそうなんだなって……」


その一言に、誰もすぐには返さなかった。


返せる言葉が少なすぎたからだ。


代わりに、MINAが少しだけ視線を落として言った。


「今日は、寝ていい」


その言葉は短かった。

短いのに、今までのどの指示より強かった。


寝ていい。


今まで、寝たいとは何度も言ってきた。

でも、寝ていいと言われたのは、たぶん初めてだった。


願いではない。

許可だった。


その違いは大きかった。


悠は目を閉じる。


会議室は、もう遠い。

鬼塚の声も、今日は少し薄い。

パルスの白い線すら、今はまだ来ない。


耳の届く範囲が狭くなる。

身体がゆっくり重くなる。

言葉が、最後まで形を保てなくなる。


今までは、ここで止まっていた。

今夜は、止まらない。


「……じゃあ」


小さく漏れた。

誰に向けたわけでもない。

自分に対する確認みたいな、一言だった。


「……寝ていいんだ」


MINAの指先が、ほんの少しだけ動いた。

MUSEが息を止めた。

ORACLEの目が潤んだ。

でも誰も何も言わない。


今は、何も足さない方がいい。


悠はさらに沈む。


眠気の底が深い。

今夜は、下がちゃんとある。

そこへ落ちていく。


水面を通り過ぎる。

今までは水面のすぐ下で止まっていた。

今夜は通り過ぎる。


その暗さは、怖くなかった。


暗いから、何も見えない。

何も見えないから、何も考えなくていい。


何も考えなくていい場所が、ずっとほしかった。


「……もう、起こさないで」


最後の声は、ほとんど寝言だった。


願いというより、確認に近かった。

今日はもう、起こさないでくれ。

明日は行かなくていいんだから。


その言葉が夜の底へ落ちていくのと同時に、窪地の奥の空気が変わった。


黒い。

重い。

深い。


今までの夜とは、段が違った。


SABLEが、ほとんど息だけで言った。


「入る」


VARGAが目を細める。


「今夜だ」


MUSEは口を閉じたまま、何も言わない。

ORACLEは手帳を胸に抱えたまま、開かない。

RAMPARTは盾を伏せたまま、一度だけ深く呼吸した。


MINAだけが、三歩先に立ったまま動かない。


守るためではない。

邪魔しないためだった。


それが今夜の守り方だと、もう分かっていた。


窪地の奥の黒さが、さらに一段沈む。


重い。

静かに重い。


今までの夜は、結果だけが朝に残った。

今夜は違う。


夜が落ちるのを、落ちる瞬間に見ている。


同じ頃、仮設管理室では、もっと乾いた静けさが満ちていた。


白い画面。

封鎖線の表示。

深度移行グラフ。

固定ギミック待機。

最終封印コマンド。

上位連合の配置。

討伐軍の待機数。


全部が、揃っていた。


WHITE RAVENが確認する。


「最終封印コマンド、待機完了」

「全隊、配置完了」

「草原本体、第二寝床、外縁包囲、すべて監視下です」


JUDGEが短く言う。


「起動条件は」


佐久間修司が、画面を見たまま答えた。


「対象が深度閾値を越えた瞬間です」

「浅いままなら固定だけ」

「深く入ったら、最終封印へ移行します」


羽賀の音声が入る。


『今夜で終わらせる』


誰も返事をしない。

返事をしなくても、全員もうそのつもりだからだ。


でも、佐久間だけは画面の右下を見ていた。


深度移行値。

上昇。

まだ上がる。

止まらない。


今夜は高い。

昨日までと比べても、明らかに違う。


「……来る」


思わず漏れた。


WHITE RAVENが聞き返す。


「何がです」


佐久間は少しだけ黙った。

それから、正確な言葉を選ぶのを諦めた。


「深いのが、です」


それで十分だった。


JUDGEは画面を見る。

ASTERも見る。

羽賀も、音声の向こうで黙った。


運営は、ずっと深い眠りを阻止するために動いてきた。

その深い眠りが、今まさに来る。


それは失敗の前触れかもしれない。

でも同時に、最終封印の最後の機会でもあった。


「全員待機」

JUDGEが低く言う。

「入った瞬間にやる」


佐久間は胃の奥を押さえた。


今夜、自分たちは眠りに手を入れる。

いちばん深いところへ入る、その瞬間に。


画面の深度移行値が、また一段上がる。


佐久間は口の中で、小さく呟いた。


「……夜が落ちる」


---


NEOSPHERE ONLINE 運営内部ログ:Containment Operation / Final Standby


23:41:12 深度移行値、上昇継続

23:41:19 第二寝床外縁、静穏維持

23:41:25 上位連合、最終突入待機

23:41:31 固定ギミック、待機完了

23:41:39 最終封印コマンド、待機完了

23:41:45 コメント:今夜は高い

23:41:51 コメント:対象、深度閾値接近

23:41:58 コメント:全隊、位置固定

23:42:04 コメント:次段階移行準備


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