今日は寝るな
朝、目が覚めた時、相沢悠は一度だけ、自分がまだ眠っているのかと思った。
天井は部屋のものだった。
白い。
見慣れている。
昨夜の窪地の石垣も、草の匂いも、もうない。
なのに、身体の方だけがまだ水の中にいた。
深く眠った後の軽さがない。
徹夜の重さとも違う。
浅い場所を何度も往復した後の、変な疲れだけが残っている。
目は閉じていたはずだ。
意識も落ちかけていた。
でも、休んだ感じがしない。
ベッドの上で起き上がる。
喉が乾いている。
首の後ろが重い。
頭の芯だけが、妙に白い。
昨夜、何度も何かに引き戻された感覚だけは、まだ身体が覚えていた。
スマホを見る。
NEOSPHEREからの通知はない。
会社のチャットはある。
鬼塚から三件。
「念のため」が二回。
「今日中」が一回。
安心する要素が一つもなかった。
---
会社へ向かう電車の中で、悠は吊り革を掴んだまま少しだけ目を閉じた。
閉じると、昨夜の白い線が浮いた。
頭の奥を細く走る、あの嫌な感触。
眠いのに、眠気を嫌がっている。
それが今朝の自分だった。
席に座る。
モニターを点ける。
鬼塚のチャットがまた点滅する。
「念のため、昨日の比較表、会議用に別バージョンも」
「あと、説明文のトーンもう少しやわらかく」
「午前中で」
午前中。
悠はそれを見て、ほんの少しだけ笑いそうになった。
夜に眠れなくても、朝は来る。
朝が来ても、会社は待たない。
世界が封鎖作戦をしていても、鬼塚は鬼塚だった。
「了解しました」
打つ。
送る。
最近はもう、返事をするたびに削れる感じすらない。
薄いまま立っている。
立っているから、今日も使われる。
その静かな理不尽さだけが、会社ではいつも通りだった。
昼前、コピー機の前で資料を揃えていた時だった。
「相沢」
振り向く。
一条美奈が立っていた。
仕事の服。
社員証。
現実の顔。
でも今日は、ゲームの中のMINAの方が先に見えた。
昨夜の窪地で、息を潜めていた時の顔がまだ残っている。
美奈は挨拶を飛ばした。
「今日、寝るな」
悠は一瞬だけ意味が分からなかった。
寝るな。
会社で言われるならまだ分かる。
会議前とか、締切前とか、そういう話になる。
でも今の声は違った。
もっと直接的で、もっと切実だった。
「……今日、ですか」
「今日」
美奈は低く言った。
「今夜、危ない」
コピー機が紙を吐き出す音だけが、少し遠くなる。
危ない。
それも、ゲームの方の危ないだ。
悠は紙を持ったまま、少しだけ黙った。
それから、思ったよりすぐに答えが出た。
「寝ないと無理です」
美奈の目が一度だけ止まる。
悠は続けた。
「昨日も、ちゃんと沈めなくて」
「今日このままだと、たぶん、夜までもたないです」
「危ないのは分かるんですけど……寝ないと、もっと無理です」
戦うとか逃げるとかじゃない。
ただ、寝ないと無理。
でも今の自分には、それがいちばん正確だった。
美奈はすぐには返さなかった。
紙の束を一度だけ見て、それから悠の顔を見た。
「……そうだよね」
低い声だった。
否定ではない。
分かってしまった時の声だった。
「ごめん」
「そういう話じゃないんだよね、もう」
その一言だけで、少しだけ楽になった。
使えない正論は、人を助けない。
美奈は小さく息を吐いて、言い直した。
「じゃあ変える」
「今夜は、一人で寝るな」
「それなら守れる」
悠はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
一人で寝るな。
言葉だけ見ると少し変だ。
でも意味はちゃんと分かった。
今夜、自分が沈む場所に、誰かが守りをつける。
そういう話だ。
「……守れるんですか」
「守る」
美奈は即答した。
「少なくとも、何もしないよりは」
その答え方が、少しだけ怖かった。
同時に少しだけ安心した。
怖いのは、本気だからだ。
安心するのも、本気だからだ。
「あと」
美奈は少しだけ声を落とした。
「今夜も来ると思う。昨夜みたいなの」
「だから一人で寝るな、ってそういう意味」
パルス、という単語は使わなかった。
でも、使わなくても分かった。
---
昼休み、美奈は一人で屋上へ出た。
風があった。
高い場所の風は、地上の風より少しだけ嘘がない。
スマホを取り出す。
ゲーム内の連絡ではない。
現実の連絡先だ。
短く打つ。
「今夜、初期村周辺に情報屋が増える可能性ある」
「ゲーム内だけじゃなく、現実側の線も見て」
送る相手は二人だけだった。
そのあとで、もう一件別の通知を見る。
差出人不明。
本文は短い。
> 第二寝床、静かでよかったですね。
美奈の指が止まった。
短い。
丁寧。
余計なことを書かない。
前より具体度が上がっている。
つまり、相手の精度が上がっている。
PKの文章じゃない。
煽りでもない。
もっと静かな種類の悪意だった。
美奈はすぐ削除せず、スクリーンショットを取る。
それから送信先を一つ増やした。
「黒幕側、追跡継続」
「昨夜の第二寝床まで把握してる可能性あり」
「名称レベルで情報来てる」
送ってから、空を見る。
昼の空はただ明るい。
昨夜みたいな白い線はない。
ないのに、封鎖の感覚だけがまだ目の奥に残っていた。
ゲームの中だけで終わらない。
その認識が、昨日より一段重くなる。
夕方、会社を出る時、美奈は意図的に悠と同じタイミングを選んだ。
鬼塚は最後まで何か言っていた。
「念のため」と「明日朝イチで」を並べていた。
でも美奈は途中で会話を切った。
「今日はここまでです」
「明日の朝、見ます」
鬼塚が何か言い返しかける。
その前に、美奈が言葉を重ねた。
「相沢も帰します」
「今の顔で残しても精度落ちるだけなんで」
それは完全な嘘ではなかった。
でも本当の理由でもなかった。
鬼塚は嫌そうな顔をした。
だが反論の向き先を一瞬だけ失った。
その隙で、美奈は悠の袖を軽く引く。
「行くよ」
会社の外へ出る。
夕方の空気はまだ生ぬるい。
悠は歩きながら、少しだけ不思議だった。
守る、と言われた。
帰す、と言われた。
一人で寝るな、と言われた。
そういう言葉は、今まで自分の人生にはあまり出てこなかった。
「……ありがとうございます」
歩きながら言うと、美奈は前を向いたまま返した。
「まだ早い」
「守れてから言って」
その言い方は少しだけ強かった。
でも強いのに、上からではなかった。
隣の速さだった。
駅へ向かう途中、横断歩道の手前で美奈が一瞬だけ立ち止まる。
視線が、通りの向こうへ行っていた。
スーツの男が一人。
スマホを見ている。
ただそれだけにも見える。
でも美奈は、その“ただそれだけ”を信じなかった。
男はすぐに歩き出した。
こちらへ来るわけでもない。
見ていたと言い切れる距離でもない。
それでも嫌な感じだけが残る。
悠は気づいていない。
気づいていないままでいい、と美奈は思った。
今ここで「見られてるかも」と言えば、今夜の睡眠にまでその不安が入る。
余計な恐怖を増やす意味がない。
「どうかしました?」
「なんでもない」
美奈はすぐ答えた。
「急ごう。今夜、長いから」
---
ログインした時、第二寝床の周囲は昨夜より静かだった。
静か、というより、静かにしようとしている空気だった。
ECLIPSEはもう大騒ぎしない。
大騒ぎすると、眠りに不利だと全員が学んでいる。
その代わり、静かな緊張だけが濃い。
MUSEが小声で言う。
「今日の広報、もう喋らない方が仕事してるまである」
「ようやく気づいたか」
SABLEが返す。
「言い方ひどくない?」
VARGAは地図を見ていた。
昨夜より印が増えている。
第二寝床の周囲だけでなく、その外側にも細い線が伸びていた。
「何ですか、それ」
悠が聞くと、VARGAは短く答えた。
「侵入経路」
「敵の、だ」
空気が一段下がる。
MINAがすぐ補足した。
「PKじゃない」
「情報屋」
「場所を確定して、あとで売るタイプ」
悠は少しだけ顔をしかめた。
戦いならまだ分かる。
殴られるとか、囲まれるとか、そういう嫌さは分かる。
でも場所を確定される嫌さは、もっと静かだ。
静かだから、余計に嫌だった。
「……寝床まで相場あるんですか」
LEDGERが真顔で答える。
「あります」
「今夜からできました」
「そんなの要らないんですよ……」
MUSEが肩を震わせる。
「この人、ほんとに求めるものが一貫してるなあ……」
ORACLEは静かに頷いた。
「神意は明快です」
「眠りを守れ」
「その言い方やめろって昨日から言ってるだろ」
MINAが切った。
でも、昨日より少しだけその言葉が現実に近かった。
守るべきなのは、本当にそこだった。
第二寝床の手前で、MINAは悠を止めた。
「一個だけ約束」
「何ですか」
「変なの来たら、すぐ言う」
「眠れなくても言う」
「我慢して黙るのが一番だめ」
悠は少しだけ黙った。
それから頷く。
「……分かりました」
「ほんとに?」
「たぶん」
「“たぶん”を削って」
「……分かりました」
そのやり取りを見て、MUSEが小さく笑う。
「なんか今、保護者感すごいな」
MINAは睨んだ。
MUSEはすぐ口を閉じる。
でも悠は、その短いやり取りで少しだけ息がしやすくなった。
全部一人で抱えなくていい、と言われたわけではない。
でも黙るな、とは言われた。
それは少しだけ違う。
一人で眠れない夜に必要なのは、正しい答えより、黙らなくていい相手なのかもしれなかった。
その時だった。
第二寝床の外側、林の縁で、小さな光が一度だけ走った。
白い通知ではない。
もっと短い、観測の反射みたいな光だった。
SABLEが即座に顔を上げる。
「いた」
VARGAの声が落ちる。
「どこだ」
「西側、林の縁」
「見てるだけじゃない。刻んでる」
RAMPARTが盾を上げかける。
MINAがすぐ止めた。
「出るな」
「追う方が位置を教える」
MUSEが小さく息を呑む。
「今の、何」
LEDGERが短く答えた。
「測距です」
「寝床の輪郭を取ってる」
悠はその言葉の意味を、完全には分からなかった。
でも嫌さだけは分かった。
見られている。
しかも、ただ見られているだけじゃない。
寝る場所の形まで取られている。
「……ほんとに、値段つける気なんですね」
誰に向けたわけでもなく言うと、MINAが短く答えた。
「つけさせない」
その声は小さかった。
でも昨夜より硬かった。
美奈はもう、守る側に立っていた。
遠く、初期村外縁のさらに外で、別の会話が進んでいた。
「確定したか」
低い声。
夜に馴染むように小さい。
返した方も小さい。
「した。昨夜の反応点と一致」
「草原ではない。外側の窪地」
「護衛は濃いが、表の武闘派じゃない。静かに隠してる」
「売れるな」
その一言に、金の匂いがあった。
PKの獣臭さとは違う。
もっと冷たい、数字の悪意だった。
「会社線、継続で追うか?」
「まだ触るな」
「寝床の値段が先だ」
眠る場所ですら、値段になる。
そこまで来ると、もう嫌悪は驚きに追いつかない。
ただ、そういう相手が今夜近くにいる。
その事実だけが、静かに悪かった。
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NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 62
`811:` 今日、聖域周辺の空気おかしくね
`815:` どっちの意味で
`819:` PKが減って、情報屋が増えた
`823:` うわ一番嫌なやつ
`827:` 殴ってこないのに嫌なやつだ
`831:` 地図と寝床の位置だけ抜いて売るタイプ
`835:` 聖域周辺が不動産になってるの終わってる
`839:` 寝床に地価が発生するな
`843:` でも昨日の第二寝床見つかったならそりゃ寄ってくるか
`847:` 上位勢も今日は静かだな
`851:` 静かな方が怖い
`855:` たぶん昨夜の「浅い」で行けると思ってる
`859:` あーそれで前倒し待機か
`863:` でもPKじゃなくて情報屋が増えるの、別ベクトルで終わってるだろ
`867:` 公式討伐の前に相場形成してるの地獄
`871:` 誰が買うんだよ
`875:` 買うやつがいるから集まるんだよ
`879:` 聖域周辺、今もう“戦場”じゃなくて“市場”でもある
`883:` 一番嫌な進化したな
`887:` ただのゲームじゃなくなる匂いがすごい
`891:` 今夜、絶対まだ荒れる




