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30/40

今日は寝るな


朝、目が覚めた時、相沢悠は一度だけ、自分がまだ眠っているのかと思った。


天井は部屋のものだった。

白い。

見慣れている。

昨夜の窪地の石垣も、草の匂いも、もうない。


なのに、身体の方だけがまだ水の中にいた。


深く眠った後の軽さがない。

徹夜の重さとも違う。

浅い場所を何度も往復した後の、変な疲れだけが残っている。


目は閉じていたはずだ。

意識も落ちかけていた。

でも、休んだ感じがしない。


ベッドの上で起き上がる。

喉が乾いている。

首の後ろが重い。

頭の芯だけが、妙に白い。


昨夜、何度も何かに引き戻された感覚だけは、まだ身体が覚えていた。


スマホを見る。


NEOSPHEREからの通知はない。

会社のチャットはある。

鬼塚から三件。

「念のため」が二回。

「今日中」が一回。


安心する要素が一つもなかった。


---


会社へ向かう電車の中で、悠は吊り革を掴んだまま少しだけ目を閉じた。


閉じると、昨夜の白い線が浮いた。

頭の奥を細く走る、あの嫌な感触。


眠いのに、眠気を嫌がっている。


それが今朝の自分だった。


席に座る。

モニターを点ける。

鬼塚のチャットがまた点滅する。


「念のため、昨日の比較表、会議用に別バージョンも」

「あと、説明文のトーンもう少しやわらかく」

「午前中で」


午前中。


悠はそれを見て、ほんの少しだけ笑いそうになった。


夜に眠れなくても、朝は来る。

朝が来ても、会社は待たない。


世界が封鎖作戦をしていても、鬼塚は鬼塚だった。


「了解しました」


打つ。

送る。


最近はもう、返事をするたびに削れる感じすらない。

薄いまま立っている。

立っているから、今日も使われる。


その静かな理不尽さだけが、会社ではいつも通りだった。


昼前、コピー機の前で資料を揃えていた時だった。


「相沢」


振り向く。


一条美奈が立っていた。

仕事の服。

社員証。

現実の顔。


でも今日は、ゲームの中のMINAの方が先に見えた。

昨夜の窪地で、息を潜めていた時の顔がまだ残っている。


美奈は挨拶を飛ばした。


「今日、寝るな」


悠は一瞬だけ意味が分からなかった。


寝るな。


会社で言われるならまだ分かる。

会議前とか、締切前とか、そういう話になる。


でも今の声は違った。

もっと直接的で、もっと切実だった。


「……今日、ですか」


「今日」

美奈は低く言った。

「今夜、危ない」


コピー機が紙を吐き出す音だけが、少し遠くなる。


危ない。

それも、ゲームの方の危ないだ。


悠は紙を持ったまま、少しだけ黙った。

それから、思ったよりすぐに答えが出た。


「寝ないと無理です」


美奈の目が一度だけ止まる。


悠は続けた。


「昨日も、ちゃんと沈めなくて」

「今日このままだと、たぶん、夜までもたないです」

「危ないのは分かるんですけど……寝ないと、もっと無理です」


戦うとか逃げるとかじゃない。

ただ、寝ないと無理。


でも今の自分には、それがいちばん正確だった。


美奈はすぐには返さなかった。

紙の束を一度だけ見て、それから悠の顔を見た。


「……そうだよね」


低い声だった。

否定ではない。

分かってしまった時の声だった。


「ごめん」

「そういう話じゃないんだよね、もう」


その一言だけで、少しだけ楽になった。


使えない正論は、人を助けない。


美奈は小さく息を吐いて、言い直した。


「じゃあ変える」

「今夜は、一人で寝るな」

「それなら守れる」


悠はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


一人で寝るな。

言葉だけ見ると少し変だ。

でも意味はちゃんと分かった。


今夜、自分が沈む場所に、誰かが守りをつける。

そういう話だ。


「……守れるんですか」


「守る」

美奈は即答した。

「少なくとも、何もしないよりは」


その答え方が、少しだけ怖かった。

同時に少しだけ安心した。


怖いのは、本気だからだ。

安心するのも、本気だからだ。


「あと」

美奈は少しだけ声を落とした。

「今夜も来ると思う。昨夜みたいなの」

「だから一人で寝るな、ってそういう意味」


パルス、という単語は使わなかった。

でも、使わなくても分かった。


---


昼休み、美奈は一人で屋上へ出た。


風があった。

高い場所の風は、地上の風より少しだけ嘘がない。


スマホを取り出す。

ゲーム内の連絡ではない。

現実の連絡先だ。


短く打つ。


「今夜、初期村周辺に情報屋が増える可能性ある」

「ゲーム内だけじゃなく、現実側の線も見て」


送る相手は二人だけだった。


そのあとで、もう一件別の通知を見る。


差出人不明。

本文は短い。


> 第二寝床、静かでよかったですね。


美奈の指が止まった。


短い。

丁寧。

余計なことを書かない。


前より具体度が上がっている。

つまり、相手の精度が上がっている。


PKの文章じゃない。

煽りでもない。

もっと静かな種類の悪意だった。


美奈はすぐ削除せず、スクリーンショットを取る。

それから送信先を一つ増やした。


「黒幕側、追跡継続」

「昨夜の第二寝床まで把握してる可能性あり」

「名称レベルで情報来てる」


送ってから、空を見る。


昼の空はただ明るい。

昨夜みたいな白い線はない。


ないのに、封鎖の感覚だけがまだ目の奥に残っていた。


ゲームの中だけで終わらない。


その認識が、昨日より一段重くなる。


夕方、会社を出る時、美奈は意図的に悠と同じタイミングを選んだ。


鬼塚は最後まで何か言っていた。

「念のため」と「明日朝イチで」を並べていた。

でも美奈は途中で会話を切った。


「今日はここまでです」

「明日の朝、見ます」


鬼塚が何か言い返しかける。

その前に、美奈が言葉を重ねた。


「相沢も帰します」

「今の顔で残しても精度落ちるだけなんで」


それは完全な嘘ではなかった。

でも本当の理由でもなかった。


鬼塚は嫌そうな顔をした。

だが反論の向き先を一瞬だけ失った。


その隙で、美奈は悠の袖を軽く引く。


「行くよ」


会社の外へ出る。

夕方の空気はまだ生ぬるい。


悠は歩きながら、少しだけ不思議だった。


守る、と言われた。

帰す、と言われた。

一人で寝るな、と言われた。


そういう言葉は、今まで自分の人生にはあまり出てこなかった。


「……ありがとうございます」


歩きながら言うと、美奈は前を向いたまま返した。


「まだ早い」

「守れてから言って」


その言い方は少しだけ強かった。

でも強いのに、上からではなかった。

隣の速さだった。


駅へ向かう途中、横断歩道の手前で美奈が一瞬だけ立ち止まる。


視線が、通りの向こうへ行っていた。


スーツの男が一人。

スマホを見ている。

ただそれだけにも見える。


でも美奈は、その“ただそれだけ”を信じなかった。


男はすぐに歩き出した。

こちらへ来るわけでもない。

見ていたと言い切れる距離でもない。


それでも嫌な感じだけが残る。


悠は気づいていない。

気づいていないままでいい、と美奈は思った。


今ここで「見られてるかも」と言えば、今夜の睡眠にまでその不安が入る。

余計な恐怖を増やす意味がない。


「どうかしました?」


「なんでもない」

美奈はすぐ答えた。

「急ごう。今夜、長いから」


---


ログインした時、第二寝床の周囲は昨夜より静かだった。


静か、というより、静かにしようとしている空気だった。


ECLIPSEはもう大騒ぎしない。

大騒ぎすると、眠りに不利だと全員が学んでいる。


その代わり、静かな緊張だけが濃い。


MUSEが小声で言う。


「今日の広報、もう喋らない方が仕事してるまである」


「ようやく気づいたか」

SABLEが返す。


「言い方ひどくない?」


VARGAは地図を見ていた。

昨夜より印が増えている。

第二寝床の周囲だけでなく、その外側にも細い線が伸びていた。


「何ですか、それ」


悠が聞くと、VARGAは短く答えた。


「侵入経路」

「敵の、だ」


空気が一段下がる。


MINAがすぐ補足した。


「PKじゃない」

「情報屋」

「場所を確定して、あとで売るタイプ」


悠は少しだけ顔をしかめた。


戦いならまだ分かる。

殴られるとか、囲まれるとか、そういう嫌さは分かる。


でも場所を確定される嫌さは、もっと静かだ。

静かだから、余計に嫌だった。


「……寝床まで相場あるんですか」


LEDGERが真顔で答える。


「あります」

「今夜からできました」


「そんなの要らないんですよ……」


MUSEが肩を震わせる。


「この人、ほんとに求めるものが一貫してるなあ……」


ORACLEは静かに頷いた。


「神意は明快です」

「眠りを守れ」


「その言い方やめろって昨日から言ってるだろ」

MINAが切った。


でも、昨日より少しだけその言葉が現実に近かった。

守るべきなのは、本当にそこだった。


第二寝床の手前で、MINAは悠を止めた。


「一個だけ約束」


「何ですか」


「変なの来たら、すぐ言う」

「眠れなくても言う」

「我慢して黙るのが一番だめ」


悠は少しだけ黙った。


それから頷く。


「……分かりました」


「ほんとに?」


「たぶん」


「“たぶん”を削って」


「……分かりました」


そのやり取りを見て、MUSEが小さく笑う。


「なんか今、保護者感すごいな」


MINAは睨んだ。

MUSEはすぐ口を閉じる。


でも悠は、その短いやり取りで少しだけ息がしやすくなった。


全部一人で抱えなくていい、と言われたわけではない。

でも黙るな、とは言われた。


それは少しだけ違う。


一人で眠れない夜に必要なのは、正しい答えより、黙らなくていい相手なのかもしれなかった。


その時だった。


第二寝床の外側、林の縁で、小さな光が一度だけ走った。


白い通知ではない。

もっと短い、観測の反射みたいな光だった。


SABLEが即座に顔を上げる。


「いた」


VARGAの声が落ちる。


「どこだ」


「西側、林の縁」

「見てるだけじゃない。刻んでる」


RAMPARTが盾を上げかける。

MINAがすぐ止めた。


「出るな」

「追う方が位置を教える」


MUSEが小さく息を呑む。


「今の、何」


LEDGERが短く答えた。


「測距です」

「寝床の輪郭を取ってる」


悠はその言葉の意味を、完全には分からなかった。

でも嫌さだけは分かった。


見られている。

しかも、ただ見られているだけじゃない。


寝る場所の形まで取られている。


「……ほんとに、値段つける気なんですね」


誰に向けたわけでもなく言うと、MINAが短く答えた。


「つけさせない」


その声は小さかった。

でも昨夜より硬かった。


美奈はもう、守る側に立っていた。


遠く、初期村外縁のさらに外で、別の会話が進んでいた。


「確定したか」


低い声。

夜に馴染むように小さい。


返した方も小さい。


「した。昨夜の反応点と一致」

「草原ではない。外側の窪地」

「護衛は濃いが、表の武闘派じゃない。静かに隠してる」


「売れるな」


その一言に、金の匂いがあった。


PKの獣臭さとは違う。

もっと冷たい、数字の悪意だった。


「会社線、継続で追うか?」


「まだ触るな」

「寝床の値段が先だ」


眠る場所ですら、値段になる。


そこまで来ると、もう嫌悪は驚きに追いつかない。

ただ、そういう相手が今夜近くにいる。

その事実だけが、静かに悪かった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 62


`811:` 今日、聖域周辺の空気おかしくね

`815:` どっちの意味で

`819:` PKが減って、情報屋が増えた

`823:` うわ一番嫌なやつ

`827:` 殴ってこないのに嫌なやつだ

`831:` 地図と寝床の位置だけ抜いて売るタイプ

`835:` 聖域周辺が不動産になってるの終わってる

`839:` 寝床に地価が発生するな

`843:` でも昨日の第二寝床見つかったならそりゃ寄ってくるか

`847:` 上位勢も今日は静かだな

`851:` 静かな方が怖い

`855:` たぶん昨夜の「浅い」で行けると思ってる

`859:` あーそれで前倒し待機か

`863:` でもPKじゃなくて情報屋が増えるの、別ベクトルで終わってるだろ

`867:` 公式討伐の前に相場形成してるの地獄

`871:` 誰が買うんだよ

`875:` 買うやつがいるから集まるんだよ

`879:` 聖域周辺、今もう“戦場”じゃなくて“市場”でもある

`883:` 一番嫌な進化したな

`887:` ただのゲームじゃなくなる匂いがすごい

`891:` 今夜、絶対まだ荒れる


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