山が砕け、空が燃える。 第57話
「行こうか」
園長の低い声が響く。
最下層の空気は、戦いの後の静けさに満ちていた。
砕けた岩。焼け焦げた石床。
溶けた氷の水が、ゆっくりと石の溝を流れている。
つい先ほどまで激しい戦闘が行われていたとは思えないほど、
今は不気味なほど静かだった。
その最下層の奥。
岩盤の壁に埋め込まれるように――
巨大な石扉があった。
高さは二十メートルを優に超える。
厚みも尋常ではない。
黒い岩盤からそのまま切り出されたような重厚な石板。
表面には、古い刻印がびっしりと刻まれている。
文字なのか。魔法陣なのか。
誰にも分からない。
ただ、長い年月を経た石の匂いだけが漂っていた。
園長――ヴァルド・フェルナが、その扉の前に立つ。
腕を組み、しばらく黙って扉を見上げた。
その横に、ヴォルンが並ぶ。
ドワーフの鍛冶師は顎髭を撫でながら石を睨んだ。
「……でけぇ扉だな〜」
ぼそりと呟く。
ヴォルンが扉の表面に手を当てる。
石は冷たい。氷の冷たさではない。
長い年月、誰にも触れられず存在していた石の冷たさ。
節の太い指で刻印をなぞる。
「この扉が北の地につながっているのか……」
園長が呟くように言った。
周囲の者たちも扉を見ていた。
そして炎の魔獣たち。
蒼炎王フレイム・ドラコニクスは
少し離れた場所から静かに様子を見ている。
最下層に、わずかな緊張が流れる。
園長が言った。
「開けるぞ」
ヴォルンが頷く。
二人が扉に手をかける。
その瞬間――「待て」
低い声。
空気が一段重くなった。
ドラコニクスだった。
蒼炎王がゆっくりと前に出る。
巨大な体が動くだけで、石床がわずかに震える。
黄金の瞳が扉を睨む。
「扉の先に何があるか分からん」
静かな声だった。
だが、その場にいた全員が耳を傾ける声。
「我が先頭で行く」
炎の竜が言う。
「下がれ」
園長はすぐに手を離した。
ヴォルンも肩をすくめて離れる。
巨大な爪が石扉に触れた。
その瞬間、石がわずかに震える。
まるで門そのものが、生き物のように
反応したかのようだった。
ドラコニクスが押す。
ゴ……ゴ……ゴ……
岩盤が動くような重い音。
石と石が擦れ合う振動が床を伝う。
扉がゆっくりと開いていく。
隙間が生まれた瞬間。
冷たい空気が流れ出した。
北の凍気とは違う。もっと乾いている。
もっと静かだ。
アカネが思わず肩を震わせた。
「……変な空気」
リシェルが小さく言う。
「魔力の層が違います」
ドラコニクスは迷わず踏み込む。
蒼炎が竜の体表でゆらめく。
その光が、闇を押し退ける。
園長が続いた。
ヴォルン。
ガルディアス。
バルドレイン。
アカネ。
リシェル。
アンズー。
炎の魔獣たち。
全員が扉をくぐった、その時だった。
背後で――石の擦れる音がした。
園長が振り返る。
入ってきた石扉が、閉まり始めていた。
重い石板が、ゆっくりと動いている。
「待て!」
ヴォルンが駆け出した。
だが、もう遅い。
扉の隙間はすでに狭い。
肩が通らない。腕も通らない。
誰も通れない。
一同が呆然と見ている間にも、
扉はゆっくり閉じていく。
ゴォ……ゴォ……
重い音が響く。石と石が重なる。
――ゴォン
完全に閉じた。
その瞬間。
石扉の輪郭が、ふっと揺れた。
霧が晴れるように。幻が消えるように。
扉は忽然と消えた。
そこにはもう何もない。
ただの石壁だけが残っていた。
誰も言葉を発しない。
静寂。
その時だった。
アンズーが前を見て言った。
「……おい」
全員の視線が前へ向く。
そこには――
巨大な空間。
天井は闇に溶けて見えない。
その壁一面には――
無数の扉。
そしてすべてが同じ扉だ。
まるで――
世界中の入口がここに集められているようだった。
誰もが驚愕し言葉を失い
ただ、その光景を見ていた。
その時だった……静かな声が響く。
「大丈夫です」
リシェルだった。
エルフの瞳が扉の仲間を見渡している。
「みなさんこの場所から離れないで下さい」
リシェルが言った。
「……」
みんな言葉を忘れたかのように無言だった。
「私はすべての扉を知っています。
私たちが来た場所を起点にすれば
北の地へ続く扉は推測できます」
リシェルが言い切った。
彼女の指が、ゆっくりと一枚の扉を指す。
そこから冷たい気配がほんの少し漂っていた。
「……あちらです」
その言葉で、一行の視線がその扉に集まった。
再びドラコニクスが先頭で扉に歩き出す。
扉の中央には、大きな鉄の輪
――石環が埋め込まれていた。
ドラコニクスが石環を掴み、ゆっくりと手前へ引いた。
ゴ……ゴ……ゴ……
人間であれば――微動だにしない扉が
いとも簡単に開いていく。
扉の隙間から凍気が流れ込む。
「みんな扉から離れろ!」
ドラコニクスの声が巨大な空間にこだまする。
すべての仲間が全身を押さえつけるような
重圧で動けないでいた。
「遅かったか!」
ドラコニクスの悲痛な叫び。
「ドラコニクス。何があった!」
まともに動けるアンズーが問う。
「外に奴がいる」
ドラコニクスが言った。
「我が奴を遠ざける。その間にここから
出ろ、動けない者を遠ざけろ」
「わかった」
アンズーが了承した。
「私も少しなら動けます」
リシェルが言った。
「おれもいけるぞ」
ヴォルンも言った。
「後は頼んだ」
ドラコニクスが言った。
蒼炎王フレイム・ドラコニクスは
ゆっくりと扉の外へ踏み出す。
その瞬間――
竜の体が膨れ上がった。
骨が軋み、鱗が広がり、蒼い炎が体表を包む。
翼が大きく開いた。
吹雪の空に、巨大な竜の影が現れる。
蒼炎王の真の姿。
外は――凍てつく雪山だった。
吹雪が荒れ狂い、氷の山々が連なっている。
そして、その中心に――それは立っていた。
白い巨体。
氷の山そのものが立ち上がったような存在。
肩から背にかけて氷の柱が突き出し
吐息のたびに白い霧が噴き出す。
青白い光を宿した目が、ゆっくりと竜を見上げた。
白極の巨神。
ドラコニクスの三倍はある巨体。
だが、その体はまだ完全ではなかった。
氷の体表には未形成の部分があり、
ところどころが崩れ、霧のような冷気が流れている。
未完成の神。
まだ糧を必要としている存在。
本来ならば、北の魔獣たちを取り込み、
その魂を糧に成長するはずだった。
だが――
その北の魔獣たちは、すでに逃げていた。
糧がない――だから巨神は動いた。
魂を求めて。より多くの命がいる場所へ。
そして今――
目の前にいる。蒼炎王を見つけた。
ドラコニクスが翼を広げる。
蒼炎が激しく燃え上がる。
「ここから先へは行かせん」
低く言った。
次の瞬間。
ドラコニクスが空へ跳んだ。
蒼炎が爆ぜる。
巨大な竜が、白極の巨神へ突っ込んだ。
巨神の腕が振り下ろされる。
山が落ちてくるような拳。
ドラコニクスが翼で軌道を変える。
拳が地面へ叩きつけられる。
――ドォォォン!
氷の大地が砕け、雪が吹き上がる。
ドラコニクスが巨神の肩へ突っ込む。
蒼炎が噴き上がる。
竜の牙が氷の体を焼く。
氷が溶ける。蒸気が爆発する。
巨神の肩が崩れ落ちた。
だが――次の瞬間。
砕けた氷が震えた。溶けたはずの部分から、
白い冷気が溢れ出す。
氷が集まり、再び形を作る。
崩れた肩が――再生した。
ドラコニクスの目が細くなる。
「再生するか……」
巨神が腕を振るう。
竜を薙ぎ払う巨大な氷の腕。
ドラコニクスが吹き飛ばされる。
雪山に叩き込まれる。
雪煙が舞う。
次の瞬間――蒼炎が爆ぜた。
ドラコニクスが再び空へ飛び上がる。
竜の咆哮が雪山を震わせる。
蒼炎が氷を焼く。
氷が再生する。炎と氷。
二つの力が、吹雪の中で激突していた。
――その頃。
少し離れた岩陰で、ゴリムが偵察をしていた。
小柄なゴブリンは、雪に身を伏せながら周囲を見張っていた。
「……?」
吹雪の向こうで、空が青く光る。
ゴリムは目を細めた。
次の瞬間――
空を巨大な影が横切った。
蒼い炎をまとった竜。
そして――
山のような白い巨体。
二つの怪物が雪山の上で激突していた。
雪山が砕ける。氷が爆発する。吹雪が渦を巻く。
「な、なんだあれ……!」
ゴリムの顔が青ざめる。
あんな戦い、見たことがない。
いや――
戦いと呼べるのかすら分からない。
ゴリムは震える手で立ち上がった。
「やばい……」
喉が乾く。
「知らせないと……!」
ゴリムは振り返ると、全力で走り出した。
魔獣園へ――
この異様な戦いを知らせるために。
北の扉では――
そこにいるすべての者に重圧が、のしかかっていた。
空気そのものが重くなったように、体が動かない。
膝が折れ、呼吸さえ浅くなる。
アカネは歯を食いしばるが、腕一つ持ち上がらない。
ガルディアスも片膝をつき、剣を支えにして耐えている。
その中で、リシェルが静かに目を閉じた。
「……精霊よ」
エルフの細い声が、わずかに震える。
「力を貸して下さい」
両手を胸の前で重ねる。そして、短く告げた。
「――精霊緩護」
淡い光が広がった。
風のように柔らかな魔力が、一行を包む。
張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。
「……っ!」
アカネが息を吸い込む。
ガルディアスの肩にかかっていた重圧が、少しだけ軽くなる。
だが、完全には消えない。
「長くは……持ちません」
リシェルが言った。
額に汗が滲んでいる。
「今のうちに……!」
その時だった。
アンズーが翼を大きく広げる。
「動ける者は、動けない者を運べ!」
低く叫ぶ。
ヴォルンが歯を食いしばり、ガルディアスの腕を肩に担ぐ。
「立て、剣士!」
ガルディアスが頷く。
アカネはバルドレインの肩を支えた。
炎の階層主たちも、仲間を抱え起こす。
重圧はまだ残っている。
だが――動ける。
「急げ!」
アンズーが叫ぶ。
蒼炎王ドラコニクスが、外で巨神を引きつけている。
時間はない。
一行は互いを支えながら、扉の外へ進み始めた。
その背後で――雪山を震わせる咆哮が響いた。
重圧の中、皆が少しずつ動きを取り戻す。
膝をつき、息を整えるのがやっとで
剣を握る手すら震えていた園長が、二人を見た。
「……なぜだ」
アンズーが翼を広げる。
ヴォルンも歯を食いしばりながら立ち上がる。
自分でさえ、まともに動けない。
だがこの二人は、まだ動けている。
「なぜお前らだけそんなに動ける……?」
ヴォルンが肩で息をしながら言った。
「さあな……体が重ぇのは確かだが」
アンズーも首を振る。
「俺にも分からん」
園長は眉をひそめ……考える。
重圧……魂を押し潰すような力。
その中で動ける者と、動けない者。
園長の脳裏に、一つの共通点が浮かぶ。
アンズー。ヴォルン。
二人に共通するもの。
そして――
園長の目が見開かれた。
「……まさか」
小さく呟く。
そしてはっきりと言った。
「ニコか!」
二人が同時に園長を見る。
園長の頭の中で、点と点が繋がる。
名前。ニコが与えた名。
存在を変える名。魂を強くする名。
「そうか……」
園長が小さく笑った。
「やっぱりお前か」
その頃――
雪山の麓を、ゴリムが必死に走っていた。
息が切れる。足がもつれそうになる。
それでも止まらない。
「はぁ……はぁ……!」
背後では、蒼炎と氷がぶつかる轟音が響いている。
雪山が揺れる。空が青く燃える。
あんな戦い、見たことがない。
「やばい……」
ゴリムの顔が青ざめていた。
「これは……やばい……!」
魔獣園へ向かって、必死に走る。
知らせなければならない。
本当の戦いは――まだ始まっていない。
第57話
山が砕け、空が燃える。
お読みいただきありがとうございます。
ついに北の扉をくぐり
未知の空間を経て北の地へ降り立った一行。
しかし、そこで待ち受けていたのは
「白極の巨神」という圧倒的な絶望でした。
今回は、巨神の足止めを買って出た
蒼炎王ドラコニクスの覚悟
そしてリシェルの咄嗟の機転を描きつつ
この物語の根幹に関わる大きな謎解きを入れました。
なぜアンズーとヴォルンだけが重圧の中で動けるのか
その答えは、ニコが与えた「名前」にありました。
彼が名付けた行為が、魂を強くし、存在を
確固たるものにしていたのです。
そして、雪山で繰り広げられる神と竜の
規格外の死闘を目撃したゴブリンのゴリムは
その危機を知らせるため魔獣園へと走ります。
すべてが繋がり始め、本当の決戦が迫ってきました。
魔獣園で待つニコたちは、この報せを受けてどう動くのか。
次回もどうぞお楽しみに!




