真の絶望と揺るがぬ願い。 第55話
「おい、待て待て……降参だ」
北の魔獣たちが一斉に両手を挙げた。
「お前ら、最後まで戦え!」
七十階層の階層主が怒鳴る。
自分たちのボスが敗れたことが衝撃だったのか。
それとも、もはや戦意そのものが砕け散ったのか。
魔獣たちは俯いたまま、誰一人として言い返さない。
「……ちっ」
階層主は舌打ちし、剣を地面に叩きつけた。
鈍い衝撃音が響く。
「落ち着け」
グレイヴが間に割って入る。
だが階層主の怒りは収まらない。
「俺たちは何人もの仲間を殺されたんだぞ!」
怒声が空気を震わせる。
今度はアカネが一歩前に出た。
「気持ちはわかる。だが、今は引け」
低く、しかしはっきりと告げる。
「俺に勝ったこともない奴が、俺に指図するな」
階層主の視線が鋭く突き刺さる。
事実だった。
アカネのダンジョン攻略は、いつも七十階層で跳ね返される。
それより先へは踏み込めない。
ダンジョン内では力を抑えねばならない。
本気を出せば、崩れるのは敵ではなく――構造そのものだ。
だからこそ、ここでは勝てない。
だが。
アカネは一歩も退かない。
「ここではお前が強いのだろう。だが外に出れば――
お前など敵ではない」
静かな断言。
虚勢ではないと、階層主も理解している。
ここは自分の“領域”。力が満ちる場所。
だが外では、それはただの一個体に過ぎない。
空気がさらに重くなる。
挑発か、それとも現実の提示か。
どちらにせよ――火種であることに変わりはなかった。
「アカネ、やめろ。油を注いでどうする」
園長が静かに窘めた。
声は穏やかだが、場の主導権を握る響きがある。
重苦しい沈黙。
その空気を裂くように、元ギルド長が
剣を地に突き刺し小さく呟いた。
「……若いのう」
皮肉とも、諦めともつかぬ声音だった。
「お前ら。喧嘩などする余裕があるなら、周りを見てみろ」
元ギルド長は槍で周囲を指し示す。
そこには――
傷ついた仲間たちが、戦いの終わりに安堵し
力なく座り込んでいた。
荒い息。
血に濡れた装備。
ようやく生き延びた者の、静かな震え。
怒りの熱が、すっと引いていく。
「……怪我人の手当てが先だな」
グレイヴが階層主の肩に手を置き、穏やかに言う。
階層主は歯を食いしばり――やがて視線を落とした。
「すまん……手当てを頼む」
短い言葉だった。
リシェルとアカネが、すぐに動く。
淡い光が広がり、傷口がゆっくりと塞がっていく。
「……アカネは回復魔法も使えるのか?」
園長が目を細める。
「母さんに教えてもらったんで」
さらりと答える。
「教えてもらったって……普通はそう簡単に使えるようにならんぞ……」
園長は呆れ半分、本気半分で言った。
「そうなんですか? 簡単でしたよ」
悪気のない声。
「……簡単でしたって……」
園長の目が、点になる。
周囲の緊張が、ようやく少しだけ緩んだ。
「アンズーはどこに行ったんだ」
園長はようやく息を整え、周囲を見渡した。
その姿がないことに、今さら気づく。
「翼の魔獣なら、敵を蹴散らしながら階層を降りていきました」
リシェルが淡々と答える。
「……アンズー……」
園長は額を押さえ、深くうなだれた。
「戦闘狂ばかりだな〜」
グレイヴが呆れたように肩をすくめる。
――――
九十階層。
氷と炎がぶつかり合い、蒸気が立ちこめる。
白と紅が絡み合い、やがて――静まった。
「終わったようだな」
アンズーが短く言う。
向かいに立つ、北の魔獣幹部。
氷を纏う巨躯は、なお膝をついている。
「……そのようだ」
低く、重い声が返る。
氷の覇気は消えていない。
ただ、勝敗だけが決した。
「スカルディオ。お前はどうする。
戦いを続けるなら、相手になるぞ」
アンズーが凄む。
蒸気の向こうで、翼がゆらりと広がる。
スカルディオは氷槍を握ったまま、ゆっくりと吐息を落とした。
「……もういい。
お前らの好きにするがいい」
吐き捨てるような声音。
だがその瞳の奥に、消えぬ凍気が揺れている。
「ならば一つ聞かせろ。
なぜ扉を使った」
アンズーの問いは低い。
スカルディオは一瞬だけ空を仰ぎ――静かに告げた。
「白極の巨神が目覚める」
空気が、凍る。
「やはりか……」
アンズーは小さく息を吐いた。
「なぜ知っている」
初めて、スカルディオの声に動揺が混じる。
「ああ、知っている。
そのために、ここへ来た」
翼がわずかに震えた。
「お前たちは何をするつもりだ!」
スカルディオが問い返す。
氷の継承者としてではなく、
北を背負う者としての問いだった。
「戦うだけだ」
迷いのない一言。
「お前らにどうこう出来る相手ではない。
飲み込まれるのが落ちだ」
諭すような声。
それは敵への嘲りではなく――本気の警告だった。
アンズーが一歩、踏み出す。
「……飲み込まれる?」
「ああ。魂ごと、消え去る」
凍気がわずかに揺れる。
「どういうことだ!」
声に、わずかな焦りが混じる。
「そのままだ。
存在そのものが――消える」
氷の継承者は淡々と言った。
誇張でも脅しでもない。
「それは本当か?
動けなくなるだけじゃないのか?」
アンズーの眉がわずかに歪む。
戦場で見せたことのない戸惑い。
「目の前で見た。間違いない。
形も、魂も、痕跡すら残らん」
スカルディオの声が低く落ちる。
「あんな者に戦いを挑むなど、
正気の沙汰ではない」
それは氷の王の思想とは別の、
純粋な畏怖だった。
「そうだろうな……」
一瞬、空気が止まる。
蒸気も、凍気も、音を失う。
だが――
「それでもだ」
アンズーの翼がゆっくりと広がる。
「名を授かった以上、
主人の願いは、俺の願いだ」
風が巻き起こる。
それは虚勢ではない。
氷の永遠に対する、
名を持つ者の“意志”。
逃げぬと決めた者の、静かな宣言だった。
「カルヴァーンはどうしている」
アンズーが静かに問う。
スカルディオの瞳に、氷とは別の色が滲んだ。
「……カルヴァーン。
その名を聞くだけで不愉快だ」
吐き捨てる。
「あいつは人間の魔獣の王についていった裏切り者だ」
凍気が足元を軋ませる。
「あいつらしいな。あいつは戦いを好まん」
アンズーが低く呟く。
「理で動く男だ。
力ではなく、生き残る側を選ぶ」
スカルディオの声には、怒りと
――わずかな失望が混じっていた。
その時。
「アンズー、ここにいたのか」
背後から園長の声が届く。
アンズーは振り返りもせず答える。
「お前らが遅いからな」
露骨な嫌味。
「……そいつは誰だ?」
園長がスカルディオを見据える。
「ああ、こいつか。グラキエルの側近だ」
アンズーは顎で示した。
「貴重な情報を手に入れたぞ」
表情は険しい。
「貴重な情報?」
園長の目が細くなる。
「後で教えてやる。最下層に着いたらな」
それだけ言うと、翼を小さく畳む。
沈黙が落ちる。
スカルディオは何も言わない。
ただ、氷の思想を背負う者として立ち尽くす。
やがて園長が静かに歩き出す。
「行くぞ」
一行は再び最下層へ向けて進み始めた。
凍気の残滓と、
消えぬ巨神の予兆を背にして。
第55話
真の絶望と揺るがぬ願い。
お読みいただきありがとうございます。
今回は激闘のその後の空気と、水面下で動いていた
「真の絶望」の片鱗に触れるエピソードでした。
前半では、アカネと70階層の主との衝突を描きました。
「本気を出すとダンジョンが崩れるから勝ちきれない」
という規格外なアカネと、自らの領域を荒らされた階層主の怒り。
一触即発の空気を静めた歴戦の大人たちの振る舞いや
アカネのあっけらかんとした回復魔法など
キャラクターたちの関係性を楽しんでいただけたら嬉しいです。
そして後半は、アンズーと氷の幹部スカルディオの対話。
いよいよ語られた「白極の巨神」の恐るべき真実と
生き残るために裏切った「カルヴァーン」の存在。
魂すら消滅するという絶望を前にしても、「名を授かった者」
として主人の願いのために羽ばたくアンズーの覚悟を描きました。
散り散りになっていた一行は、ついに最下層へと集結します。
彼らを待ち受けるのは、巨神の目覚めか、それとも――。
次回からの展開も、どうぞご期待ください!




