獣医ベルモット 第4話
フェルナ園の奥、
薬品と乾いた草の匂いが混じる建物がある。
治療棟だ。
ニコがそこへ呼ばれたのは、昼前のことだった。
「……お前に頼みがある」
通路で腕を組んだまま、
アレンが不機嫌そうに言った。
「頼み、ですか」
語尾を丁寧に返すと、アレンは顔をしかめる。
「通訳だ。
ベルモット先生からの要請だ」
その名前に、ニコはぴくりと耳を動かした。
「獣医の?」
「そうだよ」
アレンは視線を逸らし、
嫌々といった様子で続ける。
「体調が悪くて餌……いや、食事を摂らない
ホーンラビットがいる。
意思疎通ができないらしい」
言い直したのを、ニコは聞き逃さなかった。
「分かりました」
即答だった。
アレンは拍子抜けしたように目を瞬く。
「……いいのか?」
「命の話でしょう」
それだけで十分だった。
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治療棟の中は静かだった。
寝台の上に、
角の生えた大きな兎――ホーンラビットが横たわっている。
腹部が、ほとんど動いていない。
「二日近く、何も口にしていない」
白衣を着た壮年の男が言った。
獣医ベルモットだ。
「外傷はない。
内臓反応も鈍いが、原因が掴めない」
ベルモットはニコを見る。
「君が、通訳できる魔獣か?」
「ニコです」
名乗ると、ベルモットは小さく頷いた。
「頼む。
このままだと危険だ」
ニコは寝台に近づき、
ホーンラビットの目を見る。
怯えと、不安。
そして、痛み。
「……食べたくないんじゃない」
ニコは静かに言った。
「食べられないんです」
アレンが眉をひそめる。
「同じだろ」
「違います」
はっきり否定した。
「兎は、常に胃腸を動かし続けなければいけない生き物です」
ベルモットが、目を細める。
「続けて」
「二十四時間以上、何も食べなければ
腸が止まり、毒素が溜まる。
この状態は——命に関わります」
治療棟の空気が、張り詰めた。
「……そんな重要なことを、なぜ知っている」
ベルモットの問いに、
ニコは一瞬、言葉を選んだ。
静かに、告げる。
「獣医になりたかったんです」
アレンが目を見開いた。
ベルモットは何も言わず、
ただ続きを待った。
「だから、知っています。
この子は、怖がって動けないだけです」
ニコはホーンラビットに向き直る。
「ここは安全です。
あなたを傷つける人はいない」
ゆっくりと、言葉をかける。
通訳された内容は、
ベルモットにもアレンにも伝わらない。
それでも。
ホーンラビットの耳が、僅かに動いた。
腹が、小さく鳴る。
「……動いたぞ」
アレンが息を呑む。
「すぐに、柔らかい草を」
ニコは言った。
「少量ずつ。
無理に食べさせないで」
ベルモットは即座に動いた。
「分かった」
準備が進む中、
アレンが小さく咳払いをした。
「……その、ニコ」
視線を合わせずに言う。
「……頼んで悪かったな」
頭は、下げない。
それでも、ニコは何も言わなかった。
命が助かるなら、それでいい。
寝台の上で、
ホーンラビットが草を口にする。
ほんの一口。
それを見て、ニコは静かに息を吐いた。
「先生、この子は……入院するんですか?」
ベルモットは、カルテに目を落としたまま答える。
「そうなるだろうな」
ペン先が、止まる。
「まだ、働かせるわけにもいかない」
ニコは、小さく頷いた。
「それなら……名前があった方がいいと思います」
ベルモットが、顔を上げる。
「名前?」
「はい。先生たちも、毎回“ホーンラビット”って呼ぶの、
正直、煩わしくないですか?」
一瞬の沈黙。
ベルモットは、ふっと息を吐いた。
「……それでも」
静かな声。
「本人の承諾もなしに、名前は付けられんだろう」
ニコは、少し考えてから、口を開いた。
「先生。僕の種族、分かりますか?」
「……?」
ベルモットは、眉をひそめる。
「レッサーパンダですよ」
ニコは、少しだけ胸を張った。
「呼びにくいですよね」
ベルモットは、思わず口元を緩める。
「……まぁ、そうだな」
「でも」
ニコは続ける。
「“ニコ”なら、呼びやすいと思いませんか?」
ベルモットは、少し考える素振りを見せてから、
「……なるほどな」
そう言って、ニコを見る。
「じゃあ、お願いしようか」
ニコは、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、コルナにしましょう!」
その名を呼ばれた瞬間、
ホーンラビットの耳が、ぴくりと動いた。
——獣医には、なれなかった。
——けれど。
ここでも、小さな命を救えた事が
ほんとに嬉しかった。
決して名前をつけれたからではない…
第4話では、「治すこと」と「名前を持つこと」を重ねて描きました。
ニコは獣医にはなれませんでした。
学び、目指し、手を伸ばした先にあった夢は、この世界ではもう届かない場所にあります。
それでも、目の前で苦しんでいる命を見過ごすことはできない。
その気持ちだけは、世界が変わっても、種族が変わっても、失われていません。
ホーンラビットに名前をつける場面は、単なる可愛らしい出来事ではありません。
名前を与えるという行為は、
一つの命として向き合うという選択でした。
ベルモットがすぐに名前を許さなかったのも、この世界では名前が軽いものではないからです。
だからこそ、コルナという名が呼ばれ、耳が動いた瞬間には、
小さくても確かな変化が生まれています。
次話では、
“名前を持たないのが当たり前の世界”に、
さらに踏み込んでいくことになります。
名を呼ぶとは、どういうことなのか。
呼ばれる側は、何を得るのか。
その答えを、少しずつ描いていきます。




