幕間 『アルクトス・ベア解体』
1時間半前
食堂には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。
いつも通りの時間、いつも通りの朝食。
ベルモットはスープの匙を口に運びかけ
ふと手を止めた。
「……そういえば」
何気ない調子で、向かいに座るサンへ声をかける。
「今日の作業は、露天風呂の掃除だと言っていましたね」
サンが、ぴたりと動きを止めた。
「……えっ?」
顔を上げる。
「露天風呂の、掃除?」
その瞬間、サンの表情が目に見えて強張った。
「……あそこ、最近」
一拍、間が空く。
「アルクトス・ベアが出るって噂ですよ」
ベルモットの顔色が、すっと変わった。
「……それは」
スプーンを皿に置き、静かに立ち上がる。
「園長に、すぐ伝えます」
椅子を引く音が、食堂に響いた。
周囲が何事かと視線を向ける中、
ベルモットは足早に食堂を後にした。
⸻
園長室の扉が、勢いよく開く。
「園長!」
息を切らしたベルモットがノックもせず駆け込む。
「今日、露天風呂の清掃作業が入っています」
園長は書類から視線を上げた。
「……続けろ」
「最近、その周辺で
アルクトス・ベアが出没しているという噂があります」
一瞬。
園長の目が、わずかに細くなる。
「それは確かな情報か?」
「否定はできません」
園長は椅子を押し、立ち上がった。
「分かった」
それだけ言うと
園長は椅子を押し戻し、外套を掴み
廊下へ出る。歩幅が速い。迷いがない。
ベルモットが追いすがる。
「園長、護衛を――」
「要らん」
短い拒否。
その言い方が、“いま護衛を集める時間が惜しい”のではなく
“必要ない”と言っているのが分かった。
園長は裏手の中庭を抜け、柵の並ぶ一角へ向かう。
そこは普段、鍵が掛けられている厩舎だ。
⸻
厩舎。
園長が、厩舎に駆け込み声を張る
「アルヒッポスを出せ」
周囲が一瞬ざわついた。
ヒッポスの上位種――
通常のヒッポスよりも一回り大きく、
筋肉の密度がまるで違う魔獣。
白銀がかった体毛。
蹄が地面を踏み鳴らすたび、低い振動が伝わる。
首筋から肩にかけて、ヒッポスの線を保ちながらも
明らかに“上位”の圧がある。
「――アルテミス」
園長が名を呼ぶ。
その一言で、魔獣は静かに頭を上げた。
耳がぴくりと動き、視線が園長に合う。
鳴き声はない。
ただ、“理解している”という沈黙があった。
園長は手早く馬具を通す。
革の擦れる音が乾いた空気に響き、金具が噛み合う。
「出るぞ」
アルテミスの蹄が、床を一度だけ鳴らした。
ドン――。
重い音。
「急ぐぞ」
園長の合図と同時に、アルテミスが走り出す。
常のヒッポスとは比べものにならない加速。
体がが跳ね、風が裂ける。
園長は前方を見据えたまま、短く息を吐いた。
「……間に合えばいいがな」
⸻
「……今の、何……?」
誰かが、かすれた声で呟いた。
その場にいた全員の視線が、
ゆっくりと園長へ集まっていく。
ニコは、何も言えなかった。
言葉が浮かばない。
喉が、ひくりと鳴っただけだ。
クレイグが、地面に座り込んだまま、
盾と園長を交互に見て、ぽつりと呟く。
「……盾、だよな?」
誰も答えない。
アルクトス・ベアの巨体は、
露天風呂の縁近くに横たわっている。
首は、もうない。
切断面から流れ出た血が、
雪混じりの地面を黒く染めていた。
「……ぼーっとするな」
園長の声で、空気が戻った。
「解体する。
このままにしておくと、肉が傷む」
その一言で、
ようやく全員が“次にやるべきこと”を理解した。
「ガルド、クレイグ」
「はい」
「血抜きだ。
動脈を開いて、完全に出す」
園長は淡々と指示を出す。
「ニコ、お前は見るなとは言わん。
だが、無理だと思ったら下がれ」
ニコは、小さく頷いた。
(……見ないと、いけない)
そう思ってしまった。
ガルドとクレイグが、
園長の指示通りに動く。
刃を入れる位置は迷いがない。
アルクトス・ベアの巨体でも、
“生き物”としての構造は変わらない。
動脈を開いた瞬間、
どくり、と血が噴き出した。
音が、生々しい。
「……すげぇ量だな」
誰かが息を呑む。
血は、ただ流すのではない。
重力に任せて、確実に抜く。
園長が言う。
「血を残すと、臭みが出る。
保存もきかん」
「食う前から勝負は始まってる」
その言葉に、
ニコははっとした。
(……倒す、だけじゃない)
生き物を倒すということは、
その後まで含めての行為なのだ。
やがて血の勢いが弱まり、
滴る音に変わる。
「よし。
吊るすぞ」
太いロープが用意され、
近くの頑丈な木に回される。
アルクトス・ベアの体は重い。
だが、魔獣たちが揃えば問題はない。
「せーの」
掛け声とともに引き上げる。
ずしり、と木が軋む音がした。
巨体が宙に浮き、
四肢がだらりと垂れ下がる。
風が当たり、
湯気とは違う、冷たい空気が肉を包む。
「このまま冷やす」
園長が言う。
「急に切り分けるな。
まずは冷却だ」
「……熟成、ですか?」
クレイグが尋ねる。
「ああ」
園長は短く答えた。
「筋肉が落ち着くまで待つ。
時間を置いた方が、うまい」
その言葉に、
一瞬、場の空気が緩んだ。
「……あんな化け物でも、食えるんだな」
誰かが言って、苦笑が漏れる。
ニコは、
吊るされたアルクトス・ベアを見上げていた。
さっきまで、
命だったもの。
今は、
ただの“素材”になりつつある。
(……生きるって、こういうことか)
怖さもある。
けれど、目を逸らす気にはならなかった。
園長は最後に全体を見回し、言った。
「今日は、ここまでだ」
「掃除は後回しだ
それ以上やると、体が冷える」
「帰るぞ」
その声に、
全員がほっと息を吐いた。
露天風呂の湯気の向こうで、
吊るされたアルクトス・ベアが、
静かに揺れていた。
――この日、
ニコは知った。
強さとは、
倒すことだけではない。
その後まで、責任を持つことなのだと。
⸻
解体が終わり、撤収の準備が始められた頃だった。
森の奥から、軋む車輪の音が近づいてくる。
やがて木立の向こうから、ヒッポスの荷車が姿を現した。
乗っているのはベルモットとサンだ。
遅れて合流した二人は、現場の空気を一目見て――顔色を変えた。
吊るされたアルクトス・ベア。
地面に残る血の跡。
傷を負った者たちが、手当を受けながら座り込んでいる。
ベルモットは喉を鳴らし、震える声で尋ねた。
「……間に合いましたか?」
園長はちらりとこちらを見ただけで、短く答えた。
「ああ。大丈夫だ。怪我はしているが――大したことはない」
そして、すぐに視線をサンへ移す。
「サン。怪我人を荷車に乗せてやってくれ」
サンは返事をする前に、吊るされたアルクトス・ベアから目を離せなかった。
その巨体に、脂の厚みがはっきりと分かる。
冬の空気の中でも、肉の“重さ”が漂っていた。
少し遅れて、サンは我に返ったように答える。
「はっ……はい。分かりました」
――だが、すぐに。
抑えきれない疑問が口をついた。
「園長、これは……?」
園長は盾を背中に戻しながら、淡々と言う。
「ああ。これか? 食べてやらんと申し訳ないだろう」
サンは荷車へ向かいかけた足を止め、思わず笑ってしまいそうな顔で呟いた。
「しかし大きいですねぇ……。こんな大きなアルクトス・ベア、初めて見ましたよ」
そして、ぼそりと。
「……とんでもない脂ののりようだなぁ」
その一言に、園長の口元がほんの僅かだけ緩んだ。
「サン。これ、みんなに食べさせてやってくれ」
サンの目が、料理人のそれに変わる。
「もちろんです。腕によりをかけて料理しますよ!」
「おお。楽しみだな」
園長はそれだけ言うと、すでに次の段取りへ視線を移していた。
森にはまだ冷たい風が吹いていたが、撤収の空気の中に、ほんの少しだけ“生きる匂い”が混じった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この回では、
「強さとは何か」を、少しだけ別の角度から描いてみました。
倒すこと。
守ること。
そして、その後にどう向き合うか。
命を奪う場面だけでなく、
血を抜き、冷やし、食べ、次へ繋げるところまで含めて
“仕事”として淡々と行われる姿を通して、
この世界の生き方を感じてもらえたら嬉しいです。
また、ニコはこの日、
自分が知らない形の「強さ」と「責任」を目の前で見ました。
それをどう受け止め、どう変わっていくのかは、
まだ先の話になります。
露天風呂の湯気と、森の冷たい空気。
その間に立つ人と魔獣たちの時間を、
少しでも一緒に体験してもらえていたら幸いです。
次は、また違う一面が見えてきます。




