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声で目が覚めた。 第8話

「……ニコ」


眠りの底から、引き上げられるような感覚。

ニコは耳だけをぴくりと動かした。


(……アレン?)


だが、違う。


朝一番に叩き起こす、あの乱暴な怒鳴り声ではない。

もっと低く、もっと近い。


ニコはゆっくりと目を開け、檻の中から周囲を見渡した。


飼育員の姿はない。

鉄柵の外も静まり返っている。


声は――前だ。


視線を向けた先、向かいの檻の中に、ガルドとゴリムがいた。

二体の魔獣が、こちらを見ている。


「……?」


ニコはまだ状況を理解できず、首を傾げる。


そのとき、もう一度。


「ニコ」


今度は、はっきりと聞こえた。


叫び声ではない。

唸り声でもない。


俺の名前だ


(……今の)


一瞬、思考が止まる。


だが次の瞬間、


「ウオオオッ!」


「グギャァ!」


ガルドとゴリムが、いつものように大声で叫んだ。


意味は分かる。

――もうすぐ朝だ、起きろ、という合図。


それ自体は、これまでと変わらない。


なのに。


(……今のは、何だ?)。


ニコは胸の奥に残る違和感を無視できなかった。


今までだって、彼らの声の意味は理解できていた。

だがそれは、叫び声を解釈していただけだ。


今のは違う。


「……ニコ」と、

名前そのものが、届いた。


「え……?」


思わず、素っ頓狂な声が漏れる。


その反応を見てか、二体の魔獣は顔を見合わせ――


「ウオオッ!」


「グギグッ!」


再び、叫ぶ。


ガルドは胸を叩き、

ゴリムは檻の床を軽く蹴った。


(……気のせい、じゃない)


ニコは完全に目を覚ました。


飼育員が来る前に起こそうとしてくれた。

それ自体は、いつも通りの行動だ。


だが、その“呼び方”だけが、決定的に違っていた。


(……何かが、おかしい)


理由は分からない。

説明もつかない。


それでもニコは、確信に近い予感を抱いていた。


――これは、ただの寝ぼけじゃない。


朝の静けさの中で、

ニコは自分の名前が、まだ耳に残っていることに気づいていた。


ニコは、まだ少し眠気が残ったまま廊下を歩いていた。


鉄柵の間を抜け、他の魔獣たちと同じ方向へ向かう。

仕事場へ――いつも通りの朝だ。


なのに、胸の奥には、さっきから小さな引っかかりが残っている。


(……変だ)


ニコは自分の手を見る。


この手だ!


以前は、掴む、持つ、押さえる。

そういった細かい作業がどうしても不便だった。


それが最近、日に日に――


(……普通にできてる)


特別に考えなくても、動く。

前よりも、ずっと自然に。


この手は、少しずつ人の手に近づいている。


――――


ニコは前から書類を持ちながら朝食に向かう

ニナに気づいていない


魔獣園では、職員は三食。

魔獣は二食。


だから朝の、ニコはいつも腹ペコだ。


そのせいか、注意が散っていた。


前方が塞がれる


――ぶつかる。


そう思った、その瞬間。


ニコの身体は、突然、横にいた。


避けた、という感覚はない。

跳んだ覚えもない。


ただ、気づいたら、そこに立っていた。


直ぐ横にはニナがいた。


同じ通路を使う、園の職員だ。


ニナは少し驚いた顔をしているが、ニコが避けたとは思っていない。


周囲の誰も、何も気づいていない。


突然だった。


ニコ自身も、何が起きたのか理解できなかった。


たった一人を除いて….


どこからか向けられている視線が


ニコを捉えていた。



ニコの身体には、もう一つ変化が起こっていた。


それは――しっぽだ。


以前より、明らかに小さくなっている。


あんなに邪魔だったしっぽが、

確かに短くなっていた。


だがニコは、まだそのことに気づいていない。


――――


おおーい、みんな集まったか?


アレンが声を張り、全体を見渡す。

遅れていた者たちも、小走りで列に加わった。


その中で、ニコは相変わらずマイペースだった。

周囲の慌ただしさなど気にする様子もなく、のんびりと歩いている。


「ニコー! 早くしろ!」


アレンに急かされ、

ニコは慌てて足を速め、隊列の後尾についた。


アレンは全員が揃ったのを確認すると、指示を出す。


「今日は、いつものように二手に分かれてくれ」


崩落事故の前と同じだ。

力のある魔獣と、そうでない者たち。


二列に分かれて整列する。


その様子を確認したアレンは、

ふとニコの方を見て、声をかけた。


「ニコー。今日は、ニコはこっちだ」


そう言って、

力のある魔獣が並ぶ列を指さす。


「今日は、通訳をしてもらう」


ニコは一瞬きょとんとしたが、

すぐに状況を理解し、小さく頷いた。


「おおおーい、オスロ! ちょっとこっちに来い!」


後方にいた新入りの飼育員に、アレンが声をかける。


「は、はい!」


慌てて前に出てくるオスロ。


アレンは周囲を見渡し、声を張った。


「みんな、聞いてくれ。

こいつが、今度入った飼育員のオスロだ」


魔獣たちが一斉にざわつき始める。


「なんだか弱々しいやつだな〜」

「大丈夫か、こいつ?」


そんな声が上がるのを聞きつけて、アレンがすかさず言った。


「おい、やめとけ。

オスロはこう見えて、冒険者の家系だ。

ちょっかい出すんじゃないぞ!」


オスロは冒険者の家系なのは事実だった。

だが――本人は冒険者になりたくなかった。


だからこそ飼育員になったのだが、

それは今は伏せておくことにする。


オスロは軽く頭を下げ、黙って列に戻った。


アレンは振り返り、声を落として言う。


「クルツ先輩。

そちら、お願いしますね」


クルツは短く頷いた。


「分かった」


それぞれの隊列が整う。


「それじゃあ、行こうか!」


アレンの合図とともに、

一行は二手に分かれて出発した。


ニコたちの列は、

いつもとは反対方向へと進んでいく。


ニコは歩きながら、

(……こっちは、あまり来ない道だな)

と、内心で思っていた。


――――


どのくらい歩いただろうか。


前方が、うっすらと霞んで見え始めた。

霧がかかったような、不思議な白さ。


その正体に気づく前に、アレンが声を上げる。


「よし、着いたぞ。

今日は、ここの掃除だ!」


ニコは一瞬きょとんとしてから、すぐに理解した。


「……露天風呂だぁーっ!!」


次の瞬間、大歓声が広がる。

「ワァオー!!」

仲間たちから、驚きの声が一斉に上がった。


露天はまだ薄青く、

湯気だけが白くはっきりと立ち上っている。


冬の空気は鋭い。

だが、湯の上だけは柔らかく、

息を吐くたび、胸の奥まで温かさが染み込んでくる。


「オスロ、ちょっとこっちに来い」


呼ばれて、オスロが慌てて駆け寄る。


アレンは浴槽の縁に立ち、説明を始めた。


「この露天風呂は、スタンドパイプ式だ」


水位は、縁で決まるわけではない。

浴槽の隅に設けられた点検口――

その中にある一本の立ち上がり管で決まっている。


アレンは指を差す。


「あれの“上端”が、湯面の高さを決めてる」


点検口の木蓋を持ち上げると、

むわっと湯気が顔を撫でた。


中には排水桝があり、

そこへ湯が吸い込まれていく音が、かすかに聞こえる。


「スタンドパイプは二本ある」


アレンが続ける。


「いま刺さってる“長い方”と、

清掃用の“短い方”だ」


アレンが身振り手振り丁寧に詳しく説明する


オスロは真剣な表情で頷いた。


「俺が指示したら、短い方に替えてくれ」


「湯面を短いパイプの上まで下げて、

その状態で掃除をする」


「いいな」


「……はい!」


オスロは、はっきりと答えた。


おおーい、みんな聞いてくれ。


アレンが声を張った。


「お湯を減らす前に、今の湯面をよく見て覚えておけ。

この湯面の高さの石が、一番汚れてる。

だから、ここは重点的にきれいにしてくれ」


そう言ってから、アレンはニコを手招きする。


「ニコ、ちょっとこっちに来い」


「なんですか?」


「ここ、触ってみろ」


ニコは少し身構えながら、

縁の石肌にそっと手を伸ばした。


冷たい石と、温かい湯の境目。

そこには、薄いぬめりが生まれやすい。


「あっ……すごく、ぬるぬるしてる」


「だろ」


アレンは頷き、声を上げる。


「みんなも、やってみろ」


魔獣たちが並び、次々と手を突っ込む。


「ほんとだ」

「ぬるぬるだな」


並んで同じ動作をするその様子を見て、

ニコは思わず笑ってしまった。


少しおかしくて、

どこか不思議な光景だった。


「ほんとだ、ぬるぬるだよ!」


「これから、水位を少しずつ落とすぞ」


アレンが声を張る。


「オスロ、さっき教えた通りにやるんだ。

慌てなくていい。着実に、頼むぞ」


「はい!」


「じゃあ、バルブ閉めるぞ」


きしっ、と金属が擦れる音がして、

ゆっくりとバルブが回される。


ここで閉めすぎれば、水量が一気に減る。

そうなれば配管に空気が入り、

凍結の恐れが一気に高まる。


アレンは湯の流れと音を注意深く見極めた。


「……よし、いいな」


そして、大きな声で叫ぶ。


「いいぞ、オスロ! やってくれ!」


その声に、オスロは即座に反応した。


点検口の中に身を乗り出し、

スタンドパイプの根元にある固定金具に手をかける。


金具は冷たく、

指先がじん、と痺れそうになる。


慎重に、回す。


きゅっ、と金属が鳴った。


固定が緩んだところで、

長いパイプを真上に引き抜く。


抜いた瞬間、

湯が勢いよく排水桝へ落ち込み、


ごおぉ――


低い音とともに、水位がほんの少しずつ下がっていく。


露天全体が、

ゆっくりと“抜ける方向”へ傾きはじめたように見えた。


オスロは、間を置かずに短いパイプを差し込む。


ここでもたつけば、

配管に空気が入り、

音が変わり、流れが乱れる。


何より――冷える。


短いパイプが根元まで収まり、

金具を締め直す。


その瞬間、

流れる音が、すっと落ち着いた。


それを聞いて、

オスロは小さく息を吐いた。


湯面が、じわじわと下がっていく。


さっきまで湯に隠れていた水際の帯が露出し、

石肌に、少し黒ずんだ線が現れた。


アレンがそれを指差して言う。


「ここだ。

ここが“念入りに掃除する場所”だ!」


「よし、始めるぞ」

「みんな、滑るから気をつけて入れよ!」


アレンの指示が飛ぶ。


そこで、ニコが声を上げた。


「僕が、1・2・3って掛け声かけるから、

3で入ろう!」


一瞬の間。


「行くよ!

1――2――3‼︎」


ニコの掛け声と同時に、

全員が一斉に足を踏み入れた。


ずるっ。

ずるるっ。


次の瞬間――


ざぶーん!


水しぶきが一斉に上がる。


……が。


なぜか、

一緒に転んだはずのニコだけが、

普通に立っていた。


それに気づいたガルドが、

無言で近づき――


ぐいっ。


ニコの足を引っ張った。


「わっ――!?」


今度こそ、

盛大に転ぶニコ。


「ガルドさん! やめてください!」


ニコは起き上がりながら、抗議する。


「僕が水、苦手なの知ってるくせに……

意地悪だなぁ〜!」


ガルドは、

何事もなかったように肩をすくめた。


――――


各々がブラシとすくい網を持ち、掃除に取り掛かる。


指示された線を丁寧にこすった。

こすった分だけ薄い膜が剥がれ、

それがそのまま湯に流れ出す。


流れ出たら、ただ眺めない。

すくい網を差し入れて、

浮いたカスを拾い、籠に移す。


湯をきれいにするというより、

汚れを「湯の外」に出す作業だ。


濡れた枯葉は重たく、

すくい網の端にまとわりつく。


ひとつ、ふたつ、みっつ。


思ったより重労働だ。

籠の角にまとめるたび、

湯面が少しずつ整っていく。


しばらくすると、

アレンの声が飛んだ。


「ここでまた湯をためる。

その間は露天風呂の周りの掃除だ。

伸びて邪魔な木の枝や、

下に落ちてる落ち葉やゴミを拾ってくれ」


――――


みんなが仕事に取りかかってから、一時間ほどが過ぎた頃。


露天の周囲はずいぶんと整い、

拾われた落ち葉や折れた枝が、まとめて脇に積まれていた。


その時だった。


奥の茂みが、不自然に揺れた。


――がさり。


一瞬、風かと思った。

だが次の瞬間。


グワオオオオーッ!!


低く、腹の底を震わせる唸り声が、森全体に響き渡った。


地面が、どん、と揺れる。


「……っ!」


誰かが息を呑む音。


枝をへし折り、低木を薙ぎ倒しながら、

巨体の魔獣が姿を現した。


盛り上がった筋肉。

黒褐色の毛並み。

人の背丈の2倍は軽く超える肩。

そして、岩のように太い前腕。


ベア系魔獣――

だが、ただのベアではない。


その瞬間、クレイグが目を見開いた。


「……待て」


低い声。


「……あれは……」


一歩、前に出る。


「アルクトス・ベア……」


喉が鳴る。


「しかも……ロード級じゃないか」


周囲が、ざわりと揺れた。


「ロード……?」

「そんな化け物……!」


アレンが呟く

「野生のアルクトス・ベアは

こんな化け物なのか?」


ガルドが、無言で前に出る。


クレイグと並び、自然と二人が魔獣たちの前に立った。


「下がれ!」


ガルドが低く叫ぶ。


「後ろを守れ!」


アルクトス・ベアは、そんな声など意にも介さない。


大地を踏みしめ、一気に距離を詰める。


速い。

その巨体からは想像できない速さだった。


「来るぞ!」


ガルドとクレイグが同時に踏み込む。


左右から回り込み、

アルクトス・ベアの両腕を、それぞれ掴んだ。


「止まれ――っ!」


だが。


ブンッ!!


凄まじい力で腕を振られ、

二人の体が宙を舞った。


「ぐっ……!」

「くそっ……!」


地面に叩きつけられる二人。


そのまま、アルクトス・ベアは止まらない。


後方――

魔獣たちのいる方へ、向き直る。


「……まずい!」


その瞬間だった。


「……あ」


ニコが、一歩前に出ていた。


「ニコ!?」


誰かの叫び。


だが、ニコは止まらない。



森の縁が開けた瞬間、園長は状況を“見た”。


倒れている二つの影。

ガルドとクレイグ――息はある。だが今は動けていない。

後方には、固まって動けない群れ。


そして前。


小さな影が、一つ。


ニコに向かって

アルクトス・ベアの巨体が唸り声を上げる

土が抉れ、木片が飛び散る

露天風呂の縁を踏み砕きながら暴れ回る


だが――当たらない。


爪が空を切り、

拳が地面を叩き割る。


ニコは跳んでいない。

踏ん張ってもいない。

ただ、気づけば“そこ”にいない。


一歩。半歩。

ほんの僅かなズレだけで、死線が空振りになる。


園長は何も言わなかった

だが確信した。

「やはりな。」


言葉にする必要はない。

それは、見れば分かる

それは特別な能力だと…..


周りの魔獣達も不思議な光景には

気づいてはいる


「……何だ、あれ」


クレイグが呟く。


速い、という言葉では足りない。

違う。


低く、よく通る声が響く


「――ニコ、そこまでだ。退がれ」


命令ではない。

叱責でもない。

敬意ある呼び声。


一瞬で空気が変わる。


ニコの足が、ぴたりと止まった。


振り返るまでもない。

その声の主が誰か、分かっていた。


園長だ。


ニコは一歩、二歩と下がる。

アルクトス・ベアの視線が、ゆっくりと園長へ向いた。


園長は魔獣を真正面から見据え、静かに息を吐く。


園長は、ニコを一瞥し、

次に、アルクトス・ベアを見る。


「こいつはロード級だな」

「……相変わらず、面倒な相手だな」


静かな声だった。


だが、その場にいる全員が、

助かったと、直感的に理解していた。


園長に向かって、アルクトス・ベアが突進した。


地面が震える。

巨体が風を切り、一直線に迫る。


――危ない。


誰もがそう思った。


しかし園長は、構えもしなかった。

ただ、立ったまま。


次の瞬間。


園長の手にした盾が、振り下ろされる。


ガキッ‼︎


鈍く、重い音。


それだけだった。


アルクトス・ベアの首が、宙を舞った。


巨体は数歩進み、

そのまま前のめりに崩れ落ちる。


……静寂。


園長は、何事もなかったかのように盾を戻し、

淡々と言った。


「アレン。今日はここまでだ。撤収しろ」


振り返りもせず、続ける。


「怪我をした者の手当を最優先にしろ」


一拍遅れて、


「……はっ。はい、園長!」


アレンが、思わず背筋を伸ばして返事をした。


「今の何……?」

そこにいるみんなの声

ニコが言葉を失う

クレイグが「……盾、だよな?」と呟く



第8話は、


名前で呼ばれること。

少しだけ身体が思い通りに動くこと。

そして、誰も気に留めない日常の作業。


露天風呂の掃除という、

読者が一生経験しないかもしれない作業を、

あえて細かく描き擬似体験して頂けるよう

心がけて表現しています。


世界は、誰かの知らないところで、

静かに保たれています。


そしてその中で、

ニコもまた、気づかぬうちに

“昨日とは違う場所”に足を踏み入れ始めています。


園長の「退がれ」という一言には、

下がれ、ではなくあえてこの文字を

使っています。

下がれでは距離的イメージが強く

出る様な気がします。

どけでは今まで凌いでいたものに対する

敬意が欠ける様な気がします。

どけ、さがれの

すべての意味を込めました。


次回以降もどうぞお付き合いください。


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